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沖縄サンバカーニバル、名古屋サンバカーニバルへのオ・ペイシの情熱を語っています。世界一、心のこもったカーニバルを!

ハイーニャ・カーリン 2

2008-02-20 | サンバ
他のチームの練習に出ながらも、サントスFC応援団のハイーニャ、カーリンの容態がどうなったか、気が気でありませんでした。彼女が昏睡状態に陥って2日目、勇気を出して、応援団の事務所に電話をかけてみました。
「カーリンはどうですか?」
「変わりはない。今もICUに入ったままだよ」。チームの副会長が教えてくれました。副会長もスルド(大太鼓)を叩いている、サンビスタ(サンバ人)です。
 ICUにいるということは、彼女はまだ命をつなぎとめているということです。カーリンなら若いから、まだ復活できる、頑張れ! とエールを心の中で送りました。

 その6時間後、バテリアのマドリーニャ(打楽器隊の名付け親)に電話をしてみました。彼女に、カーリンの自宅の電話番号を教えてほしい、と頼まれていたからです。
そこで、信じられない知らせがありました。「今、孫から電話があって、午後5時にカーリンが亡くなったって」。

そんなことってあるのでしょうか。どうしたらいいのかわからず、動揺しながら、夫と息子と共に、応援団の練習場に向かいました。

こんなに悲しいことがあっても、カーニバルの直前とあって、練習場の半分を仕切ったカーニバルの作業場では、山車や衣装作りを黙々としている人たちがいます。
カルナバレスコ(カーニバルの演出家)が今にも大泣きしそうな私を見て、「アキ、バテリアの前で踊るのは、マドリーニャとアキだけだよ。衣装着て出るのは、アキだけだから、カーリンの分も頑張らないと」。
そんなの無理だ・・・・。彼女が隣にいてこそ、私が踊っていても違和感がないのに、日本人の私一人では、あまりにもアンバランスすぎます。

カーリンと、このカルナバレスコはとても仲がよく、一昨日は、練習中、危篤の知らせに真っ青な顔をしながら、悲しみをこらえていた彼が、今度は私を励ましてくれました。
「カーリンは明るい子だったから、泣いているのは、よくないよ。カーニバルで優勝するのが彼女の夢だったんだから、僕たちでかなえてやろうよ」

 その通りなのです。しかし、この時期にハイーニャを亡くしてしまうとは・・・。バテリアの控え室の前では、主要メンバーが深刻に話をしていました。
 メストレ(バテリアの指揮者)は、娘の急死で、カーニバルにはもう出ないそうです。彼が出なければ、彼が地元から引き連れて来る40人の打楽器隊員も来ません。もう、それだけで、サントスFC応援団の今年のカーニバルは、おしまいです。
 複雑な気持ちで、カーリンのお通夜へと向かいました。
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ハイーニャ・カーリン 1

2008-02-12 | サンバ
 カーニバルの2週間前、我がサンバチーム、サントスFC応援団のハイーニャ(サンバ・クィーン)のカーリンが病死してしまいました。
 18歳の元気いっぱいで、とっても明るい女の子でした。

 カーニバル前の土曜日の練習があと2回、という日です。私は、練習場に着くと、必ず最初に探すのは、自分のダンスのパートナーである、カーリンです。この日、少し遅れて練習に到着した私は、あれっカーリン、まだ来ていないのかな・・・と探していると、マドリーニャ(打楽器隊の名付け親)が私のところに来て「事故が起きたらしい。カーリンが今日、倒れて、今、ICUに入っているって」

 何とことか、さっぱりわからず、彼女の状態がそんなに悪いとは、信じられず、きっと大丈夫、カーリンならすぐ元気になって回復する、としか思えませんでした。練習が始まる前に、チームの名誉会長が舞台の上で「ハイーニャのカーリンが、今、昏睡状態になっています。みんなで回復を祈りましょう」と涙ながらに話しており、これは、ただことではない、と思い始めました。

 練習中も気が気でなく、いつもお互い、目で合図を送り合っている相手がいないので、平常心ではいられませんでした。

 そしてチームにとって、さらに致命的であったのは、カーリンのお父さんは、バテリア(打楽器隊)の指揮者、メストレであるのです。彼が自分の住んでいる地域から引き連れて来る打楽器隊員は40人もおり、いつもメストレが市バスを借りてきて、彼自身がバスのハンドルを握って40人を連れて来るのです。
 この日の練習には、当然、バスが出せなかったので、彼の地域の打楽器隊員は来ていませんでした。

 100人の打楽器隊員のうち、40人が来れないのでは、カーニバルはもう成立しません。カーリンの自宅は、サンパウロ市内ではなく、バスを乗り継いだら、片道2時間くらいかかるところです。

 練習が終わったとき、今度はチームの副会長が「カーリンは今も昏睡状態です」と言っていました。カーリンの伯父さんは、打楽器隊の控え室の片隅で、目を真っ赤にしていました。これは、もう大変なことになっている、とみんな動揺していました。

 明け方の帰りのバスで、チームの人たちと「カーリンの回復を願っていようね」と言って別れました。

 

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3日間のカーニバル

2008-02-07 | サンバ
土、日、月、と3日間続いたカーニバルを終え、今、やっと一息ついています。
 1日目は、13年間、オ・ペイシで続けているサンパウロの1部リーグのチーム「モシダージ・アレグレ」。オ・ペイシの原点であるこのチームは、今年も素晴らしいパレードを行い、総合得点では1位だったものの、得点のつけ方で、惜しくも2位になりました。

 2日目は、「沖縄 守礼之邦」をテーマとした、2部リーグのチーム「プローバ・ジ・フォーゴ」。このチームには、今年初めて出場したものの、オ・ペイシでは選曲会に参加し、曲が採用され、私は、バテリア(打楽器隊)の前で踊るダンサーとして、招待を受けました。このため、9月からの全体練習は、沖縄サンバカーニバルで、一時帰国で2回休んだ以外は、すべての練習に参加しました。
 バテリアの前、しかも、コルチ(王室メンバー)よりも前で踊る、という大役をもらっただけに、我ながらよく練習したと思います。
 
 3日目は、オ・ペイシで12年間出場し続けているサントスFCの応援団、「トルシーダ・ジョーベン・ド・サントス」のパレードでした。このチームでは、私は4年連続、バテリアの前で踊るミス・シンパチアを務め、2年はプリンセーザに就いており、通算6年間、バテリアの前で踊っているのですが、今年は今までにない、最高の責任がありました。
 
前のブログで書いた通り、カーニバルの2週間前に、ハイーニャ(サンバ・クィーン)が突然、病死で亡くなり、衣装を着てバテリアの前で踊るのは、私1人になってしまいました。1人で会場を、バテリアを盛り上げなければならない、という使命に震えていました。
 しかもテーマが、プローバのように日本系ならともかく、キロンボ(黒人の逃亡奴隷)なのです。亡くなったハイーニャのカーリンは黒人でした。カーリンの分も頑張らなくては、と彼女のお葬式以来、ずっと自分に言い聞かせ、何とかこの日を迎えることができました。

※ハイーニャ・カーリンの訃報を伝えるブログが更新されていませんでした。彼女は、怪我ではなく、突然の脳卒中で、1月21日に他界しました。亡くなった日もサンバチームのフェスタで、フェイジョアーダ作りの手伝いをしており、チームに本当に貢献した人でした。
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