ブラジルマニア オ・ペイシ 名古屋サンバ 沖縄サンバ

沖縄サンバカーニバル、名古屋サンバカーニバルへのオ・ペイシの情熱を語っています。世界一、心のこもったカーニバルを!

サンバ選曲会 今年も始まる

2008-07-29 | サンバ

 今年もまた激戦のサンバの選曲会が始まりました。
 サンパウロのモシダージ・アレグレの選曲会は、昨日で、すでに3回目でした。

 昨年にも増して熱気があり、どの作曲者も、サンパウロ一、二を競う選りすぐりの歌手に、カバキーニョ(4弦のミニギター)奏者を揃えて、勝負に臨んでいました。
 この選曲会で優勝した曲が、2009年のモシダージのカーニバルの曲となるわけです。

 昨年、グルーポ・ジ・アセッソ(2部リーグ)とはいえ、選曲会の当事者として参加した経験からいうと、この緊張感は、カーニバル当日以上です。

 毎週、誰かは落とされるのですから、1週勝ち残っても、また翌週、そしてまた翌週と勝ち抜いていかなければならないのです。

 下部リーグの選曲会の回数は、5、6週程度ですが、モシダージのような1部リーグのチームは、10週以上も続き、この緊張感をもったまま、日々生活するのは、体力的にも精神的にも、そして、かなりの投資が必要なので、経済的にも大変なことです。

 選曲会の雰囲気は、市長や議員の選挙に似たものがあると思います。
 どのグループも、ファンを獲得したいため、会場の外では、大型スピーカーで、ガンガン自分たちの曲を流します。ここ数年の動きですが、候補曲のCDを配り、なるべく大勢の人に曲に慣れ親しんでもらおうとするのです。当然、候補者の愛想もよくなってきます。
 応援団も動員で、地元からゴソっと連れてきます。

 長年チームにいると、知り合いも増えてくるため、こっちの作曲者の応援席にいるところを別の作曲グループに見られると、何か気まずい、といった気持ちもあります。
 昨日は、生粋モシダージではない作曲グループで、プローバの歌手、デニーが歌っていたので、地元票を増やさなければ、と張り切って応援しました。
 
 さあ、どの曲が決勝まで、残るでしょうか。当事者ではないだけに、純粋に楽しみです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

首切り会議 カーニバル1カ月前 

2008-07-25 | サンバ
 何か縁起の悪いタイトルですが、カーニバルの1カ月前というと、各チームの各ポジションで首切りミーティングが行われていました。

 たとえば、私が今年参加した、サンパウロのとあるサンバチームでは、バテリア(打楽器隊)の前で踊る人を決めるためのミーティングを急きょ、行うことになりました。練習会場で「明日、午後4時からバハカン(作業場)で誰がバテリアの前で踊るかミーティングをします」と突然、チームの幹部から召集がかかりました。
 
 私は、このチームのナンバー3とも言われる人から、「あなたはバテリアの前よ」と10月頃から言われていたので、安心しきっていたのですが、実は決まっていなかったのだと知り、ドキリとしました。

 あわただしく山車制作が進む作業場の片隅で、ミーティングは始まりました。参加者は、チームの会長、ナンバー3の役員、マドリーニャ(名づけ親)、ハイーニャ(女王)、そして私でした。会長以外は、ドキドキしています。会長を待っている間、ハイーニャは、「私をもう外すなら、それでもいいから、早目に言ってほしい」と涙目になっていました。

 ナンバー3の役員が「会長、今年のコルチ(バテリア前の王室メンバー)はどうするか、意見を聞かせてください」と切り出しました。

 会長は「ハイーニャは、今年もサンドラ。彼女はすべてのイベントに出演したから。サンドラのお父さんは、ヨチヨチ歩きのときから、このチームに参加している」。サンドラは、今度は、今年もハイーニャに決定した安堵感から、再び涙ぐみ、会長に「ハイーニャは泣かないよ」と笑われていました。

 次は、ハイーニャの隣に座っていた私に来ました。「アキは、このチームでは新顔だけど、これまでの練習での態度から、バテリアの前で踊る」と会長は話しました。そうか、今までそうやって試されていたのだ、と初めて気がつきました。でも、王室のメンバーに入れてもらえたから、まずはひと安心でした。

 そして、次はレアンドラ。「レアンドラには、今年はこれまでより大きな責任を持ってもらいたい。幹部として、チーム全体を見てもらいたい。コルチのコーディネーターを務めてもらおうと思っている」。
 
 これは、レアンドラにとって、相当ショックだったようでした。そもそも、前回の練習に、今までに一度もこのチームに来たことのない人が、「マドリーニャ」と称して、練習に加わってきたことに、ハイーニャをはじめ、不快に思っていた人がいたようです。私も、レアンドラの立場はどうなるのか、と気になっていました。
 
 レアンドラがコーディネーターというのは、言ってみれば、「戦力外宣言」を受けたようなものです。彼女は、「マドリーニャでなくなるのは悲しいけれど、コルチ全体を見るように頑張ります」ときっぱり発言していたので、私は感心しました。

 このミーティングに参加していなかった昨年までのコルチが2人いたのですが、会長はそれぞれの存続について、コメントしていました。

 2年前までのハイーニャで、昨年のムーザ(女神)については、「彼女は今年は数えるほどしか練習に出ていないから、もうクビ。だけど、この前のイベントのとき、4人分の衣装を貸してくれたのは、彼女だったから、その恩はあるな」

 そして、もう1人については、「彼女は、さんざん他のサンバチームで楽しんでいて、うちに来ていない。最後のチャンスをあげて、もう来なかったら、さよならだ」。

 かなりシビアな首切り会議でした。同じようなことが、他のチームでもありました。

 夫が所属しているバテリア(打楽器隊)でも、24人しか出場できないクィーカ(楽器の名称)のポジションをめぐって、誰を入れて誰をはずすか、ミーティングが行われました。
 
 カーニバル1カ月前は、サンビスタにとって、かなりドキドキの時期なのです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブラジル観光フェアでもサンバ出演

2008-07-22 | サンバ
 日本ブラジル移住100周年の準備をしている最中、私は、ブラジル観光フェアのステージに誘われて、無謀にも2箇所並行して、練習をしていました。

 この観光フェアのステージは、ブラジルの大統領も来賓で見に来ることになっており、大変嬉しいお誘いだったのですが、同時期に大イベント2つもこなせるのか、かなりの賭けでした。しかも、この観光フェアの1回目のステージは、100周年イベントの3日前、2回目のステージは、100周年イベント2日目と同じ日でした。唯一の救いは、いずれのイベントもサンバ会場、アニェンビーの施設内で行う、ということでした。

 同時期に、あまりにも忙しすぎるので、最初は断りモードだったのですが、せっかく、サンバチームを介して、いただいた話なので、無理をしているとは思いながらも、受けることにしました。

「ブラジルの鼓動」と題するイベントで、各地の音楽と踊りをパーカッションとダンスで紹介するショーでした。15人ほどの打楽器隊が楽器を次々に取替えて演奏し、貫禄ある黒人女性の歌とダンサー60人のコーラスに合わせて、ペルナンブコ州のマラカトゥから、アシェ、カポエイラ、リオ・グランジ・ド・スウ州の民族舞踊まで見せる、というとても面白い構成でした。

 そこで私の役割は、日本人ダンサーとしてサンバを踊り、移住して100年になる日本人もブラジルの音楽に融合している、ということを表すシーンに出ることでした。このイベントの舞台指導も兼任していた名男性ダンサーとペアで踊ることができたので、とてもいい経験になりました。

 1回目の公演は、ブラジルでこんなにネクタイ姿の人を見たことがない、と思うほど、お役人さんばかりが見に来ており、少々かたい雰囲気でした。
 2回目の公演は、100周年2日目の出演の後、ハイヒールで痛い足を引きづりながら、観光フェアの会場へと向かいました。土踏まずが痛くて痛くて、とてもサンバなどできない、という状態でしたが、いざ出番になると踊れるから不思議なものです。

 公演のパンフレットには、みんな所属グループの名前しか入っていない、というのに、私だけ単独で名前を入れてもらってしまいました。体力的には、かなり無理をしましたが、とても記念になるイベントとなりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ファイシャ(たすき)の重み

2008-07-12 | サンバ
 浅草サンバカーニバルが近くなると、ファイシャ(たすき)の注文を数多くいただきます。ファイシャとは、「ミス・日本」などが肩からかけている、あのたすきのことです。

 大変ありがたいことに、私は、ここ8年間、毎年のようにサンパウロのカーニバルにファイシャと共に出場しています。しかし、今回のカーニバルほど、ファイシャの重みを感じたことは、ありませんでした。

 サントスFC応援団のサンバチーム、トルシーダ・ジョーベンのサンバ・クィーンがカーニバルの2週間前に突然、病気で他界してしまったことは、前のブログに書いた通りです。

 このチームでは、カーニバル前の最後の練習では、ファイシャの贈呈式を行うことが、ここ数年のならわしになっていました。しかし、サンバ・クィーンのカーリンが亡くなり、いつもなら贈呈式であった最後の練習が、初めてのサンバ・クィーン不在の練習になってしまったのです。

 こんな悲劇が起きた年だから、もう、ファイシャの贈呈式などないだろう、と私は最後のジョーベンの練習に行きました。練習が始まる直前、チームの会長が「サンバ・クィーン」の同僚である、「ミス・シンパチア」の私と「マドリーニャ」のシーダのところへ来て、ささやきました。
「カーリンのお母さんにサンバ・クィーンのファイシャを渡すからな」

 その一言にジーンときました。カーリンが受け取るはずだったファイシャをお母さんに渡すのです。

 チームの歌が始まりました。カーリンの棺を埋葬するときに、チームのメンバーで泣き崩れながら歌った曲です。帰らぬ人となったカーリンの足元にかけられていたチームの旗は、練習場で大きく舞い始めました。私たち、王室のダンサーも、旗に挨拶をして、バテリア(打楽器隊)の前に入りました。

 歌が終わると、カーリンの追悼式が始まりました。
 黙とう。スルド(大太鼓)の音だけが、静かに、ゆっくり鳴り響き、みんな目をつぶり、カーリンの思い出をかみしめました。ステージでは、チームの役員が次々にマイクをにぎり、お葬式の報告や、打楽器隊の指揮者であるカーリンのお父さんへの弔いの言葉が送られました。

 チームの会長が、カーリンのお母さんの名前を呼び、カーリンのファイシャが渡されました。カーリンがカーニバルで使うはずだった「ハイーニャ・ダ・バテリア」のファイシャです。
 バテリアの太鼓の音が会場を包みました。みんな大粒の涙をこぼしながらも、カーリンに、カーリンのお母さんに大きな拍手を送り続けました。

 そして、その次に名前を呼ばれたのが、意外なことに、この私でした。指揮者である、カーリンのお父さんが、私にファイシャをかけてくれました。カーリンと同じファイシャをです。

 気のせいか、例年のファイシャよりも細かい刺しゅうで、丁寧に作ってあったような気がしました。サントスFCのマスコットのクジラが入った、きれいなたすきでした。
 ファイシャを受け取ったら、ソロで、思い切りサンバをしなくてはなりません。

 私は、悲しみを吹き飛ばすように、バテリアの端から端まで大きく踊りました。前を見ると、カーリンのお母さんが、私に拍手を送ってくれていました。亡くなった娘のファイシャを手にしたばかりで、悲しみのどん底にいるというのにです。

 この日、カーリン以外で、ファイシャを受け取ったのは、私1人でした。生きている人間で私だけが、カーリンと同じファイシャをもらったのですから、こんなに重みを感じたことはありません。

 彼女が肩からかけることができなかった、このたすきを私は、大切にしなければならない、翌週のカーニバル、彼女の分も本当に頑張らなければいけない、と身にしみて感じました。

 あとから聞いたのですが、チームの会長は、仕上がったカーリンのファイシャを手にしたとき、泣いて泣いて、言葉を発することができなかったそうです。

 この時期、浅草で使うファイシャの制作を請け負いながら、カーリンが手にすることがなかった、彼女の2008年のファイシャへの思いを改めて、強く胸に刻みなおしました。



 

 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

100周年 結びつきは宗教

2008-07-06 | サンバ
 日本人ブラジル移住100周年のイベント、舞台裏を支えてくれたのは、5000人を超えるボランティアの人たちでした。ポルトガル語で、バスチドーレス(裏方さん)と呼ばれ、練習から私たちによく付き合ってくれました。

 我々出演者もボランティアですが、誘導係、会場係、お年寄りの補助、交通整理、警備、と人手がなければ、この大イベントは成立しません。しかも、確実に仕事ができる人たちでなければならないのです。

 この100周年の裏方ボランティアを務めたのは、地元の宗教団体に所属する人たちでした。ブラジルの創価学会、生長の家、天理教。この3団体がスタッフを動員していたのです。スタッフには、日系人よりもむしろブラジル人の方が多かったように思います。

 雨の中、一日中立ちっぱなしで、観客席の警備をしていたモレーノ(褐色)の兄ちゃんに「寒いのに大変ですね」と声をかけると「いや、先生が僕たちにこの機会をくれたんですから、ありがたいことです」。彼はセンセイと日本語で言っていたのですが、彼の師匠のことなんですね。

 私たちのブロッコ・アリガトウ担当のスタッフのパウラは、毎週火曜日の文協ミーティングに参加すると、終バスに間に合わなくなり、家に帰れなくなってしまうというのに、最初から最後までよく付き合ってくれました。

 彼女は、4カ月間の練習に全部参加して、我々グループと事務局の連絡係をしてくれていました。本番で最後のステージが終わったあとは、「もうブロッコ・アリガトウのサンバが聴けなくなってしまって、さみしくなる」と何とも嬉しいことを言って別れを惜しんでくれました。

 こうした人たちが、宗教、という結びつきで、この100周年を支えたのだと思うと、ふだん私は宗教を意識することはほとんどないのですが、実家の仏壇を大切にしよう、と思ったりしたものです。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

100周年 成功の陰には・・・

2008-07-03 | サンバ
 日本人ブラジル移住100周年のイベントが終了して、1週間余りしかたっていないというのに、もうなんだが随分、昔のことのように思います。

 この100周年イベントは大失敗に終わる・・・と準備中、コロニア(日系社会)では、よく批判を耳にしました。地元新聞を開けば、実行委員会の準備不足や運営の不手際を批判する記事ばかりが目につきました。

 そんな大失敗に終わるかもしれないイベントのために、サンバチーム「ブロッコ・アリガトウ」をわざわざ立ち上げて、参加者を集めていいのだろうか、と不安もありました。ですが、批判をする人は、このイベントに最初から関わらなければいいのです。
 日本人のブラジル100年の歴史を一緒に祝いたい、という人だけが集まればいいわけです。

 確かに、100周年実行委員会の毎週のミーティングに行っても、当日の詳細はなかなかわからず、太鼓やコーラスなど他チームのリーダーとは「今日もまた何も決まらなかったね」と笑いながら別れていました。

 3カ月前から決まっていた最後の全体リハーサルの日程が、5日前に取り消しになったときは、さすがに驚きました。ブロッコ・アリガトウのメンバーにも、この日は全員参加必須ですよ、と呼びかけていただけに、みんな戸惑いました。
 我々はまだサンパウロ市内なので影響は小さいですが、他団体のなかには、地方からバスをチャーターして練習に来るというのに、すべて取り止めになりました。

 こんなハプニングがありながらも、式典当日、9,000人もの出演者が次々にサンバ会場を埋め尽くし、祖国日本とブラジルに敬意をはらう演目をしているのを見たとき、この100周年イベントは、大成功だと思いました。

 ブラジル人と日本人、3万人の観客が大きな拍手を送るるなかで、あれだけ非難されながら、よくぞこれだけのイベントが出来た、と自分も大きな拍手をいつまでも送り続けました。
 

 
 

 
 

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする