日本人ブラジル移住100周年の式典は、6月にありましたが、沖縄のブラジル移住100周年の式典は、8月でした。
沖縄でサンバカーニバルを行っている私たち、オ・ペイシにとって、これは、日本全体の100周年以上に重要なイベントでした。ブラジルの沖縄県人会の役員さんとは、サンバはどのように出場するのか、去年から話をしていましたが、なかなか具体的な内容が決まらず、直前まで、かなりヤキモキしていました。
オ・ペイシを沖縄ブラジル100周年で起用してもらおうという狙いがあって、私は県人会の行事には積極的に加わっていました。
もちろん、興味もあってのことですが、例えば、「ミス・琉装コンテスト」があるから審査員をしてくれ、と頼まれれば、日曜日の朝から夜10時までのイベントで審査をやらせてもらい、とある支部でサンバを踊ってくれ、と言われれば、サンバチームに行きたいのを我慢して、県人会の行事を優先させました。県人会役員の関係のバンドプロフィールを翻訳してくれ、との頼みもすぐに引き受けました。
自分としてはできる限りのことは、やってきたのですが、それでも、肝心の沖縄100周年でのサンバがなかなか見えてきません。あまり動きがないので、一時は、これは、もう何もないかな、とあきらめかけたくらいです。
結果としては、8月23日(土)は、ビラ・カハン支部でサンバパレード、8月24日(日)は、ジアデーマの沖縄文化センターでステージ、そして25日(月)は、リベルダージの沖縄県人会でステージと3日連続のイベントが決まりました。
この3日連続の沖縄100周年のイベントは、今、振り返るとカーニバル出場のようなものでした。朝、目が覚めると、家の中が昨日の衣装で埋め尽くされており、体も疲れきっているのですが、またすぐ、今日のイベントに向けて衣装の準備をしなければならない・・・という、実にあわただしい3日間。
しかも、その間に、サンバチームの練習に出たり、仕事に行ったり、とカーニバル期間中にはない、プラスアルファーの用事が入っているのです。
すでに、楽しかった思い出となっていますが、個々のイベントについては、次回のブログで書きたいと思います。
沖縄でサンバカーニバルを行っている私たち、オ・ペイシにとって、これは、日本全体の100周年以上に重要なイベントでした。ブラジルの沖縄県人会の役員さんとは、サンバはどのように出場するのか、去年から話をしていましたが、なかなか具体的な内容が決まらず、直前まで、かなりヤキモキしていました。
オ・ペイシを沖縄ブラジル100周年で起用してもらおうという狙いがあって、私は県人会の行事には積極的に加わっていました。
もちろん、興味もあってのことですが、例えば、「ミス・琉装コンテスト」があるから審査員をしてくれ、と頼まれれば、日曜日の朝から夜10時までのイベントで審査をやらせてもらい、とある支部でサンバを踊ってくれ、と言われれば、サンバチームに行きたいのを我慢して、県人会の行事を優先させました。県人会役員の関係のバンドプロフィールを翻訳してくれ、との頼みもすぐに引き受けました。
自分としてはできる限りのことは、やってきたのですが、それでも、肝心の沖縄100周年でのサンバがなかなか見えてきません。あまり動きがないので、一時は、これは、もう何もないかな、とあきらめかけたくらいです。
結果としては、8月23日(土)は、ビラ・カハン支部でサンバパレード、8月24日(日)は、ジアデーマの沖縄文化センターでステージ、そして25日(月)は、リベルダージの沖縄県人会でステージと3日連続のイベントが決まりました。
この3日連続の沖縄100周年のイベントは、今、振り返るとカーニバル出場のようなものでした。朝、目が覚めると、家の中が昨日の衣装で埋め尽くされており、体も疲れきっているのですが、またすぐ、今日のイベントに向けて衣装の準備をしなければならない・・・という、実にあわただしい3日間。
しかも、その間に、サンバチームの練習に出たり、仕事に行ったり、とカーニバル期間中にはない、プラスアルファーの用事が入っているのです。
すでに、楽しかった思い出となっていますが、個々のイベントについては、次回のブログで書きたいと思います。