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沖縄サンバカーニバル、名古屋サンバカーニバルへのオ・ペイシの情熱を語っています。世界一、心のこもったカーニバルを!

ハイーニャ・カーリン 4

2008-03-28 | サンバ
 「このバス、サウダージ葬儀場まで行きますか?」 
 カーリンのお葬式の朝、私はピニェイロスから出る市外バスの乗り場で、来るバスごとに、運転手さんに食いつくように尋ねていました。
 埋葬の時間に遅れてはいけないのですが、サンパウロ市を超えて走る、市外バスというものに、乗ったことがなかったので、地図を見ても、さっぱり行き方がわからないのです。

 自宅から2時間ほどで、何とか昨日の葬儀場にたどりつきました。サントスFC応援団の幹部は、昨日から寝ずにずっとここにいたようで、みんな昨日と同じ服を着たままでした。
 名誉会長は、私の姿を見るなり、
「あんたのダンスのパートナーがいなくなっちゃったな」とおいおいと泣き出しました。カーリンの棺の周りは、昨日のお通夜よりも、多くの泣き声に包まれていました。

 いよいよお別れのときがきました。牧師さんのお話が終わり、カーリンの棺が閉じられました。カーリンのおばあちゃんは、「ああ、もうすべて終わりだ」と泣き崩れていました。

 棺は、埋葬する丘まで運び出されました。悲しみの行列の中で、静かにスルドの音が響いていました。スルドは青かったので、カーリンの地元のサンバチームの物だったのですが、叩いていたのは、サントスFC応援団のバテリア(打楽器隊)一の古株、ダビデでした。
 
 彼のスルドだけが響く中、カーリンの棺は丘の斜面の中に入れられていきました。その上から、左官士のような葬儀場の係の人が、セメントをかぶせていきます。本当にもうこれでお別れです。カーリンへの拍手が送られました。

 セメントがきれいに平らになったとき、チームの名誉会長が話を始めました。
「私たちのハイーニャ、カーリンは、最後の最後まで、チームに尽くした人でした。カーリンは亡くなっても、私たちの心の中に生き続けます」。

 続いてチームのアルモニア(統制係)の長が、スルドにリズムの合図を送り、私たちのチームのパゴージを歌い始めました。カーニバルのときには、必ずこの歌からスタートする曲です。まさか、こんな悲しい思いをしながら、この歌を歌うときがあるとは思いませんでした。
 カーリンと私がバテリアの前に入るときの歌でもあります。

♪バチ タンタン ショーラ カバッコ イ ビオラ
 アレタ トルシーダ ジョーベン エ オーラ

 私はその場にいた、この歌を知る数少ないうちの一人であったため、なるべくしっかり歌おうとしましたが、なかなか声になりません。

 お葬式のすべての儀式が終わったあと、カーリンが入った丘の前で、彼女の同級生の友達が4人、号泣しながら「カーリン! なんで逝ってしまったの!」と叫んでいました。
 私はもうこれ以上、ここにいることが辛くなり、泣きながら帰りのバスに乗り込みました。
 
 

 

 
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ハイーニャ・カーリン 3

2008-03-03 | サンバ
 カーニバルの2週間前に、突然、脳の神経を襲われ、病で亡くなってしまった、カーリン。彼女の家は、サンパウロではなく、夜も遅いし、どのように行ったらいいのか検討もつきませんでした。しかし、カーリンに会いたい一心で、サントスFC応援団の幹部に頼み込んで、車に乗せていってもらうことになりました。
私たち家族が乗ったのは、団長の車でした。コワモテの団長で、サンバはしない人なので、ふだんは恐れ多くて話しかけられない人です。団長は、道中、幹部のメンバーと携帯で、お葬式の段取りを何度も相談していました。
 
 お通夜の式場は、サウダージという名前の墓地に隣接する葬儀場でした。会場に着くと、カーリンのお父さんが立っているのが、すぐ目に入りました。私たちにとってはメストレ(打楽器隊指揮者)です。悲しみに耐えながら、平常心を装うとしているメストレにどう声をかけていいかわからず、「残念です」とだけ告げ、静かに抱き合いました。

 式場には、ふだんクワドラ(練習場)で見る、カーリンの地元の友達がたくさん集まっていました。カーリンのお母さんは、ショックで具合が悪くなり、家で休んでいると聞き、愕然としました。
 
 カーリンと対面するときが来ました。棺の中で白いバラに包まれて、眠っているカーリン。「アーキ!」とカーリンの叫び声が私の頭の中で響きました。2人でバテリアの前で踊っているとき、場所の交換に私が気がつかないでいると、よくカーリンが私の名前を呼んで教えてくれたものです。
今にもカーリンが、私を呼んでくれそうな気がしました。しかし、カーリンは動かず、足元は、いつも踊る前には、必ず挨拶をしていたサントスFC応援団の団旗で包まれていました。

 式場の入口には、サントスFC応援団の花輪が4台も並び、「ウーチマ オメナージェン ダ トルシーダ ジョーベン ド サントス」(サントスFC応援団の最後の敬意)と花にたすきで記されていました。

 サンバのメンバーとは、ふだん笑顔でしか接したことがなかったのに、この日は、みんな泣き崩れていました。こんなにつらいことは、ありません。

 家に戻ったのは、午前5時でした。今日は、カーリンが埋葬される日です。式場を出るときは、カーリンに最後の別れを告げて来たつもりだったのですが、家に帰ると、やはり、カーリンを最後まで見届けたい、と思いました。
 バスでの行き方を地図で調べ、仮眠をとりました。
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