chuo1976

心のたねを言の葉として

「涙」       小林弘明

2024-08-03 05:34:19 | 文学

「涙」

        小林弘明

 

 

机の引き出しを開けると

若い娘の顔が覗く

名は金正美といい

裾の赤いチマチョゴリを着た

華やいだ写真である


「チョンミ、チョンミ」と自己紹介した

彼女は到着早々に

チマチョゴリに着替えて

大きな白鳥のように羽ばたいて見せた


そんな彼女が一篇の詩作品をめぐって

思わず涙してしまった

明るい女子大生の揃った合評会の席上

予期しない雲行きとなった

何かが彼女の涙腺に触れたらしい

涙 滂沱

彼女が担当した詩作品は

名前がいくつもあって

どれが本当の名か? という

在日韓国人の心情を吐露したもので

その上ライのため

もう一つ名前が重なってくるといった内容であった


彼女の胸の中に

突然悲しみが湧いて出たらしい

しばらくは無言で嗚咽をこらえてから

また明るい顔に戻って

「すみません 感想はあとで述べます」

と小声で言った


思わぬ事態に当の作者も大慌てで

「もういいです、ありがとう」

と何べんも繰り返した

外は12月の寒波が寄せている

会場は時ならぬ彼女の涙で

一段と清々しくなって

澄明な春のうねりのように温もりに包まれた


ぼくは時々引き出しの中の彼女を眺めることにしている

 

(栗生楽泉園 小林弘明さん)

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「便所掃除」       濱口國雄

2024-07-24 17:08:53 | 文学

「便所掃除」

                 濱口國雄

 

扉をあけます
頭のしんまでくさくなります
まともに見ることが出来ません
神経までしびれる悲しいよごしかたです
澄んだ夜明けの空気もくさくします
掃除がいっペんにいやになります
むかつくようなババ糞がかけてあります

どうして落着いてしてくれないのでしょう
けつの穴でも曲がっているのでしょう
それともよっぽどあわてたのでしょう
おこったところで美しくなりません
美しくするのが僕らの務めです
美しい世の中も こんな処から出発するのでしょう

くちびるを噛みしめ 戸のさんに足をかけます
静かに水を流します
ババ糞に おそるおそる箒をあてます
ポトン ポトン 便壷に落ちます
ガス弾が 鼻の頭で破裂したほど 苦しい空気が発散します
心臓 爪の先までくさくします
落とすたびに糞がはね上がって弱ります

かわいた糞はなかなかとれません
たわしに砂をつけます
手を突き入れて磨きます
汚水が顔にかかります
くちびるにもつきます
そんな事にかまっていられません
ゴリゴリ美しくするのが目的です
その手でエロ文 ぬりつけた糞も落とします
大きな性器も落します

朝風が壺から顔をなぜ上げます
心も糞になれて来ます
水を流します

心に しみた臭みを流すほど 流します
雑巾でふきます
キンカクシのうらまで丁寧にふきます
社会悪をふきとる思いでカいっぱいふきます

もう一度水をかけます
雑巾で仕上げをいたします
クレゾール液をまきます
白い乳液から新鮮な一瞬が流れます
静かな うれしい気持ですわっています
朝の光が便器に反射します
クレゾール液が 糞壷の中から七色の光で照らします
便所を美しくする娘は
美しい子供をうむ といった母を思い出します
僕は男です
美しい妻に会えるかも知れません

 


− 『濱口國雄詩集』

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お母さん・・・ありがとう・・・

2024-07-24 05:20:26 | 文学

昨日4時22分に母が亡くなった。
風邪一つ引かない元気な母だった。
僕が幼稚園に入るころもう父はいなかった。
借金作って逃げたらしい。
朝は4時に起きて俺らの弁当作って6時から17時まで弁当屋でパート。
帰ってきたら晩飯作ってすぐに出て行って11時までパチンコ屋で掃除のバイト。
休むのは月に3回あればいいほう。
そうやって僕と妹は育てられた。
反抗期なんてほぼ無かった。
あんなに頑張る母親を見て反抗なんてできるはず無かった。
いや・・・一度だけあった。
クリスマスの2,3日前ゲームボーイが欲しいとねだった。
友達がみんなゲームを持っていたのに自分だけ持ってないと苛められると。
何故あんな嘘をついたのだろう・・・。
母は「ごめんね・・・」と顔をくしゃくしゃにして泣いた。
僕も何故か悲しくなって家族3人でボロボロ泣いた。
その日は3人とも同じ布団で抱き合って寝た。
クリスマスの日の夕食はおでんとケーキだった。
母親は子供のようにはしゃぎ、歌い、最後に「はい」とプレゼントを渡した。
古いゲームソフトだけを買ってきた。
「これだけじゃできないんだよ」と言おうとしたけどうれしそうな母の顔を見ていえなかった。
あれから20年、兄妹そろって大学まで出してくれた。
俺も妹ももう就職したしこれからは楽させてあげるから仕事やめなよ。っていったのに。
働いてなきゃボケるって・・・そんな年じゃないだろう。
どっか3人で旅行にいこうよっていってたのに。
妹の結婚式みるまでは死ねないっていってたのに。
なんで末期癌になるまで働くんだよ・・・。
何度も病院いこうって言ったじゃないか。
先生もいってた「あんなに我慢強い人見たこと無い」って。
看護婦さんに「迷惑かけてごめんね」ばっかり言ってたんだってな。
いっつも人のことばっかり気にして・・・。
震える手で書いた枕もとの手紙・・・読んだよ。
「耕ちゃんへ
小さいころはいつもお手伝いありがとう
あなたはわがままをひとつも言わないやさしい子でした
妹の面倒も沢山見てくれてありがとう
あなたが生まれてきてくれてほんとうにうれしかったよ
あなたのお嫁さんを見たかった
 梓へ
女の子なのにおしゃれをさせてあげられなくてごめんね
いつも帰ったら『ぎゅっとして』といってくるあなたに何度私は救われたかわかりません
あなたはあなたを愛する人を見つけなさい
そしてその人のために生きなさい
死は誰にでも訪れるものです
悲しまないで
あなたがもし辛いことがあったらいつでもあなたの枕元に立ちますよ なんてね
あなた達の母親で良かった
また生まれ変わってもあなた達の母親でありたい
それが私の唯一つの願いです
体に気をつけて
寒いからあたたかかくして
それから・・・それから・・・きりが無いからやめとくね
たくさんたくさんありがとう」
お母さん・・・手紙涙でにじんでボロボロだったよ。
だから紙を買ってきてくれっていってたんだね。
お母さん・・・ありがとう・・・ありがとう・・・ありがとう・・・


 ※魂が震える話より

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『ぼくだけほっとかれたんや』            

2024-07-18 04:27:32 | 文学

『ぼくだけほっとかれたんや』
                                                                     あおやま たかし


がっこうからうちにかえったら
だれもおれへんねん
あたらしいおとうちゃんも
ぼくのおかあちゃんもにいちゃんも
それにあかちゃんも
みんなでていってしもたんや
あかちゃんのおしめやら
おかあちゃんのふくやら
うちのにもつがなんにもあらへん
ぼくだけほってひっこししてしもたんや
ぼくだけほっとかれたんや
ばんにおばあちゃんがかえってきた
おじいちゃんもかえってきた
おかあちゃんが
「たかしだけおいとく」と
おばあちゃんにいうてでていったんやて
おかあちゃんがふくしからでたおかね
みんなもっていってしもうた
そやからぼくのきゅうしょくのおかね
はらわれへんいうて
おばあちゃんないとった
おじいちゃんもおこっとった
あたらしいおとうちゃん
ぼくきらいやねん
いっこもかわいがってくれへん
おにいちゃんだけケンタッキーへ
つれていって
フライドチキンたべさせるねん
ぼく つれていってくれへん
ぼく あかちゃんようあそんだったで
だっこもしたったし
おんぶもしたったんや
ぼくのかおみたら
じっきにわらうんねんで
よみせでこうたカウンタックのおもちゃ
みせたらくれいうねん
てにもたしたらくちにいれるねん
あかんいうてとりあげたら
わぁーんいうてなくねんで
きのうな
ひるごはんのひゃくえんもうたのもって
こうべデパートへあるいていったんや
パンかわんと
こうてつジーグのもけいこうてん
おなかすいてたけどな
こんどあかちゃんかえってきたら
おもちゃもたしたんねん
てにもってあるかしたろかおもとんねん
はよかえってけえへんかな
かえってきたらええのにな

 


「作文と教育」2000年2月号
子どもの詩  より

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「二度とない人生だから」                      坂村真民

2024-07-08 05:14:22 | 文学

「二度とない人生だから」

                                                                     坂村真民

 


二度とない人生だから 
一輪の花にも 
無限の愛を 
そそいでゆこう 
一羽の鳥の声にも 
無心の耳を 
かたむけてゆこう 


二度とない人生だから 
一匹のこおろぎでも 
ふみころさないように 
こころしてゆこう 
どんなにか 
よろこぶことだろう 


二度とない人生だから 
一ぺんでも多く 
便りをしよう 
返事は必ず 
書くことにしよう 


二度とない人生だから 
まず一番身近な者たちに 
できるだけのことをしよう 
貧しいけれど 
こころ豊かに接してゆこう 


二度とない人生だから 
つゆくさのつゆにも 
めぐりあいのふしぎを思い 
足をとどめてみつめてゆこう

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1995年、米兵による少女暴行事件に抗議

2024-07-05 05:13:19 | 文学

1995年、米兵による少女暴行事件に抗議、高校3年生、仲村清子(すがこ)さんの訴え。


 「もうヘリコプターの音はうんざりです。私はごく普通の高校3年生です。たいしたことは言えないと思いますが、ただ思ったことを素直に伝えますので聞いてください。
 私はこの事件を初めて知った時、これはどういう事、理解できない、こんな事が起こっていいものかと、やりきれない気持ちで胸がいっぱいになりました。
 この事件がこのように大きく取り上げられ、9月26日、普天間小学校で、10月5日には普天間高校で抗議大会が開かれました。高校生の関心も強く、大会に参加したり、大会の様子を見守った生徒も少なくありません。そんな中、私はこの事件について、友人たちと話をするうちに、疑問に思ったことがあります。米兵に対する怒りはもちろんですが、被害者の少女の心を犠牲にしてまで抗議するべきだったのだろうか、彼女のプライバシーはどうなるのだろうかと。その気持ちは今でも変わりません。
 しかし、今、少女とその家族の勇気ある決意によってこの事件が公にされ、歴史の大きな渦となっているのは事実なのです。彼女の苦しみ、彼女の心を無駄にするわけにはいきません。私がここに立って意見を言う事によって、少しでも何かが変われば、彼女の心が軽くなるかもしれない、そう思い、今ここに立っています。
 沖縄で、米兵による犯罪を過去にまでさかのぼると凶悪犯罪の多さに驚きます。戦後50年、いまだに米兵による犯罪は起こっているのです。このままでいいんでしょうか。どうしてこれまでの事件が本土に無視されてきたのかが私には分かりません。まして、加害者の米兵が罪に相当する罰を受けていないことには本当に腹が立ちます。
 米軍内に拘束されているはずの容疑者が、米国に逃亡してしまうなんてこともありました。そんなことがあるから今、沖縄の人々が日米地位協定に反発するのは当然だと思います。それにこの事件の容疑者のような人間を作り出してしまったことは、沖縄に在住する『フェンスの中の人々』、軍事基地内の人々すべての責任だと思います。
 基地が沖縄に来てから、ずっと犯罪は繰り返されてきました。基地があるが故の苦悩から早く私たちを解放してください。今の沖縄は、誰のものでもなく、沖縄の人々のものなのです。
 私が通った普天間中学は、運動場のすぐそばに米軍の基地があります。普天間第二小学校は、フェンス越しに米軍の基地があります。普天間基地の周りには、七つの小学校と四つの中学校、三つの高校、一つの養護学校、二つの大学があります。
 ニュースで爆撃機の墜落事故を知ると、いつも胸が騒ぎます。私の家からは、米軍のヘリコプターが滑走路に下りていく姿が見えます。それはまるで、街の中に突っ込んでいくように見えるのです。機体に刻まれた文字が見えるほどの低空飛行、それによる騒音。私たちは、いつ飛行機が落ちてくるか分からない、そんなところで学んでいるのです。
 私は今まで、基地がある事を仕様がないことだと受け止めてきました。しかし今、私たち若い世代も、当たり前だったこの基地の存在の価値を見直しています。学校でも、意外な人がこの事件についての思いを語り、みんなをびっくりさせました。それぞれ口にはしなかったけれども、基地への不満が胸の奥にあったという事の表れだと思います。
 今日、普天間高校の生徒会は、バスの無料券を印刷して全校生徒に配り、『みんなで行こう。考えよう』と、この大会への参加を呼びかけていました。浦添高校の生徒会でも同じ事が行われたそうです。そして今、ここにはたくさんの高校生、大学生が集まっています。若い世代もこのような問題について真剣に考え始めているのです。
 今、このような痛ましい事件が起こったことで、沖縄は全国に訴えかけています。決して諦めてはいけないと思います。私たちがここで諦めてしまう事は、次の悲しい出来事を生み出してしまうからです。
 いつまでも米兵におびえ、事故におびえ、危機に晒されながら生活を続けていくのは私は嫌です。未来の自分の子どもたちにもこんな生活はさせたくはありません。
 私たち、子ども、女性に犠牲を強いるのはもうやめてください。
 私は戦争が嫌いです。人を殺すための道具が自分の身の周りにあるのは嫌です。次の世代をになう私たち高校生や大学生、若者の一人一人が、いやな事を口に出して行動していく事が大事だと思います。若い世代に、新しい沖縄をスタートさせてほしい。沖縄を本当の意味で平和な島にしてほしいと願います。そのために私も一歩一歩行動していきたい。私たちに、静かな沖縄を返してください。軍隊のない、悲劇のない、平和な島を返してください。」  普天間高校3年 仲村清子(すがこ)。

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「最後の宿題」提出期限無し

2024-06-29 06:14:18 | 文学

黒板に書かれた「最後の宿題」提出期限無し

とある学校の、病気で亡くなられた先生が、生前に担任を持ってた生徒に向けて残した最後の宿題。

 


「幸せになりなさい」
君たちが宿題を出す頃に
おそらく僕は天国にいるでしょう。
急いで報告に来るな。
ゆっくりでええから。
いつか面とむかって
「幸せになったで」と
きかせてください。
待ってるで。

 


 

 

 

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「あ」                          

2024-06-27 05:14:04 | 文学

「あ」

                                                      坂村真民

 

 

一途に咲いた花たちが
大地に落ちたとき
“あ”とこえをたてる
あれをききとめるのだ
つゆくさのつゆが
朝日をうけたとき
“あ”とこえをあげる
あれをうけとめるのだ

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「障がい者をかわいそうだと思うことが許せなくなった」

2024-06-22 05:13:38 | 文学

「障がい者をかわいそうだと思うことが許せなくなった」
2014年夏の甲子園、全国高校野球選手権大会決勝戦は、大阪桐蔭が、見事優勝を果たしました。この試合の鍵となるタイムリーヒットを放ち、同校を優勝へと導いたのが、主将の中村誠選手。
彼が中学3年生の時に書いた作文。

 


「友から学んだこと」
中村 誠(福岡県・糸島市立志摩中学校3年)


僕には、絶対叶えなければならない夢があります。僕には体に障がいを持った友達がいます。体の右半分はマヒしていて、右手はブラブラしていますが、右足は少し動くので介助すると歩くことができます。
えん下障がいもあるので食べ物は細かくきざんだ物にとろみをつけて介助でゆっくり食べれます。水分は多く飲めないでお腹に開けた胃ろうからチューブを通して注入します。
それから失語症もあり全く声が出ません。文字盤も使えないので自分の意志を伝えることはできないのです。とても不便な生活を送っています。
その友達と知り合ったのは僕が小学五年生の頃、四年前です。僕が野球の試合に出るようになり、対戦相手だった子と友達になった。
その子は同級生と思えないくらいに野球が上手だった。ポジションも一緒だった。試合にも負けた。僕はとても悔しかった。
「絶対に負けたくない」この気持ちを胸に僕は一生懸命練習した。小学生の最後の大会の決勝戦でそのライバルのいるチームと戦った。延長戦で僕のチームが優勝することが出来た。
でも僕は勝ったとは思えなかった。だから中学生になっても別のチームで戦っていくことを約束した。しかしその友達といるチームとの試合があっても友達はいなかった。
友達は障がい者になっていました。障がい者になって三年になります。三年前のある日を境に突然障がい者になってしまったのです。原因は病気です。本当に急な出来事でした。当時僕は大きなショックで友達を受け入れることができませんでした。
そんな友達を見て、初め「かわいそう」だと思っていました。でも一生懸命にリハビリに取り組んでいる友達の姿を見ていると、僕は「かわいそう」と思うのは良くない事だと思うようになりました。なぜかというと、人に対して「かわいそう」と思うことは、その人を見下しているように思ったからです。
友達は障がいを持ちながら一生懸命に生きているのに、上からの目線はごうまんで大変失礼なことだと思いました。このことは友達に対することだけではなく、全ての障がい者に対して共通する気持ちです。障がい者になりたくてなった人は誰もいません。そして誰もが障がい者にならないという確率はゼロではないのです。
友達のように突然、病気になるかもしれないし、事故にあってけがをしたり、またどんな災害に出くわしてしまうかもしれません。もし僕がそうなったとしたら、想像するだけでもつらいことですが、そんなとき僕は人から同情されたくないと思います。
「かわいそう」と思われたくないのです。人間はどのような障がいを背負っていようとも、命ある限りは生きていかなければならないことはみんなに平等に与えられていることです。
ただ生きていくための条件が良いか、少し悪いかという差だけのことだと思います。
だから僕は障がい者を見て「かわいそう」と思うことが許せなくなりました。
僕はお見舞いに行くと友達の車いすを押して出かけることがありますが、よく他人の視線を感じることがあります。自分と違う人を見ると違和感を持つ人が多いのだと思います。
でも自分と人は違っていて当たり前なのだし、その他人を認めることは最も大切なことだと思います。世の中のすべての人が自分と違う他人を受け入れることこそ、差別のない社会の実現につながっていくように思います。
友達のためにも、僕は野球を一生懸命頑張りプロ野球選手になり活躍します。


引用先
平成23年度
心の輪を広げる体験作文

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蕭条と雨の降る夕暮れである    『いのちの初夜』 北條民雄

2024-05-24 05:23:59 | 文学

蕭条と雨の降る夕暮れである。何時の間にか菅笠を被っている。白い着物を着て脚絆をつけて草鞋を履いているのだ。追手は遠くで鯨波をあげている。また近寄って来るらしいのだ。蜜柑の根元にかがんで息を殺す。とたんに頭上でげらげらと笑う声がする。はっと見上げると佐柄木がいる。恐ろしく大きな佐柄木だ。いつもの2倍もあるようだ。樹上から見下ろしている。癩病が治ってばかに美しい貌なのだ。2本の眉毛も逞しく濃い。尾田は思わず自分の眉毛に触ってはっとする。残っている筈の片方も今は無いのだ。驚いて幾度も撫でて見るが、やっぱり無い。つるつるになっているのだ。どっと悲しみが突き出て来てぼろぼろと涙が出る。佐柄木はにたりにたりと笑っている。

「お前はまだ癩病だな。」
樹上から彼は言うのだ。
「佐柄木さんは、もう癩病がお癒りになられたのですか。」
恐る恐る訊いてみる。
「癒ったさ、癩病なんか何時でも癒るね。」
「それでは私も癒りませんか。」
「癒らんね。君は。癒らんね。お気の毒じゃよ。」

 

(『いのちの初夜』 北條民雄)

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札幌国際芸術祭

 札幌市では、文化芸術が市民に親しまれ、心豊かな暮らしを支えるとともに、札幌の歴史・文化、自然環境、IT、デザインなど様々な資源をフルに活かした次代の新たな産業やライフスタイルを創出し、その魅力を世界へ強く発信していくために、「創造都市さっぽろ」の象徴的な事業として、2014年7月~9月に札幌国際芸術祭を開催いたします。 http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/about-siaf