『オリーブの林をぬけて』(1994年 キアロスタミ)について
関川宗英
何回TAKEを重ねても、女性の前に出ると言葉が出なくなってしまう若い男。その地元の素人俳優は結局交替させられるが、そんな純朴な男がイランにはいるのか。イランには今も、そんな牧歌的な雰囲気に包まれた「純愛」があるのか。
日本で『オリーブの林をぬけて』を観る38歳の男は、何の不自然さもなく、純朴な男と女の愛が生まれる国“イラン”を受け入れてしまった。
この映画を観たのは、もう6年も前のことになる。今、新見君の結婚に寄せる文章を考えている内に、この愛の物語を思い出した。
女性の前で話ができなくなってしまう素人俳優のエピソード。このエピソードが現実にあったことなのか、それともキアロスタミの創作なのか。その事実を確かめることは、この映画にとって大きな問題ではない。
『オリーブの林をぬけて』は、一度は紅茶を断られた女性に、一輪の花を添えて、もう一度紅茶を勧める愛の物語だ。その一輪の花のショットに突き動かされるもの。そのショットの感動は、青年の愛を感じることだ。
「もう土方からは足を洗った。けど、君のためにこの家をきれいに建て直すよ。ただ、イエスなのかノーなのか、君自身の気持ちを聞きたいんだ。イエスならその本のページをめくってくれ」。主人公の青年は、何も答えずひたすら本を読んでいるヒロインに語りかける。
映画の中のこの青年は虚構の存在だが、その愛は真実だ。
1993年大地震にみまわれたばかりの村で、この映画は撮影された。まだ瓦礫の散らばる村で、ヒロインの娘役を決めるのどかなコンテストのシーン。また、地震で25人の肉親を失ったという主人公の青年に、映画の中では「65人亡くした」と言わせるエピソード。どこまでが事実で、どこからが創作なのか。“フィクションとノンフィクションの境目を越えた映画”そんなコピーはこの映画の本質を語らない。『オリーブの林をぬけて』の素晴らしさは、林の中の風を感じること。大地震の後の、瓦礫の村にも降り注ぐ、陽光の暖かさを感じることだ。
淀川長治は、人生を映画から学んだと言い、全ての映画は愛の映画だと言った。『オリーブの林をぬけて』はまさに愛の映画だった。
2000年の映画『M:I-2』。主人公トムクルーズとチャイニーズ系のヒロインとの間に愛は感じられない。濃密なベッドシーンは、キアロスタミの一輪の花にも及ばない。小津の『麦秋』には一滴の血も流れない。娘が嫁いでいく、ただそれだけのどこの家庭にもあるドラマだ。しかし、娘と別れなければならない父親の大きな悲しみ、愛がそこにはある。
一輪の花を添えて紅茶を差し出すとき、青年は言った。
「これが人生だよ。時には僕が紅茶をいれ、時には君がいれてくれる。ぼくの思う結婚ってそんなことだ。」
しかし、6年も前に観た映画についてまとめながら思う。
果たして、イランはそんなにのどかな国なのか。地震で何十人もの肉親を亡くした次の日に、結婚式を挙げるような、生きることにひたむきな人々の国なのだろうか。長く戦争をしていたイラン。現実のイランについて詳しいことは知らないが、キアロスタミの映画は、イスラムの問題や移民の問題を抱えた民族が失いかけているものなのだろうか。飽食の国に生きる40代の男は少し考えてみようとするが、まとまらない。
だが、オリーブの林の中を歩く、主人公とヒロインの二人。横からとらえたショットのなんと美しかったことか。
新見君、結婚おめでとう。