定刻の始発電車 吉村昭
ふと、あることに気づいた。
終戦時、私は十八歳であったが、現在の大臣クラスの政治家は、まだ物心つかぬ幼さで戦争を知らぬ人が多いらしい、ということである。とすると、私は、戦争という日本の歴史上後世に残る大変な時期に遭遇したことになる。
幕末を時代背景とした歴史小説を書いている私は、桜田門外の変、戊辰戦争など大事件だと思っているが、あの戦争はそれらよりもはるかに大きな出来事で、些細なことでも私が眼にし耳にしたことを書き残す義務があるように思える。
終戦の四ヵ月前の夜、私の住んでいた東京の日暮里町は、アメリカ爆撃機がばらまいた焼夷弾で炎につつまれた。
私は、日暮里駅の跨線橋を渡って町の人たちとともに谷中墓地に避難した。
爆撃機が去り、私は墓地からはなれて跨線橋の上に立った。
町は、轟音とともに逆巻く炎につつまれ、夜明け近い空に大小の火の粉が喚声をあげるように舞いあがっていた。
その時、橋の下方に物音がし、私は見下した。
ホームに山手線の電車が入ってきて停車した。むろんホームに人の姿などなく、電車は、ドアの閉る音をさせ、軽い警笛を鳴らしてホームをはなれていった。
その情景が、今でも眼に焼きついている。
時刻から考えて、それは始発の電車だったのだろう。
空襲で沿線の町々が焼けているというのに、恐らく乗客が一人も乗っていないだろう電車が、定刻通りに走っている。運転士は、上司の指示にしたがって定時に電車を車庫から出し、駅にとまることを繰返しながら進ませている。
私は、運転する男の姿を想像して感動した。
少年雑誌に、日本の鉄道は、たとえ長距離列車でも発車時刻が一分もちがわず、それは世界に例のないことだ、と記されていた。
鉄道を守る人の鉄道魂だ、とも書かれていて、跨線橋の下を静かに動いてゆく電車にその言葉を思い起した。
いかなる事態になっても、電車の運行をつかさどる人は始発電車を出すことをきめ、運転士も、それを当然のこととして運転台に入り、電車を進ませていたのだろう。
まだ夜も明けきらぬ線路を進んでいった電車の姿と、町をおおう壮大な炎の色が鮮やかによみがえる。
(『私の流儀』 吉村昭 1998年)