がんになってもぽじぽじいこか

2012年6月食道がん発見、53歳でした。始めての体験で体当たりの治療とリハビリ。見つけたものも意外にあり!

家族のがん告知

2019-03-23 17:59:05 | がん告知
家族が癌告知をされたと心痛める人

そりゃ、そうである、悲しい重大問題。

あまりに心を痛めていて、私は考えてしまった。





私はその道を家族ではなく自分でやってきたんだけどな?

がんサバ的にはちょっと戸惑う心が。

そんな今にも死ぬように思わんで。
悲観しないで。


また別な考え方が

本人は自分のことなので、周囲には申し訳ないなあ、とは思った。
みんな私のためにいっぱい時間を使ってくれた。

本人と家族の痛みは別のものかもしれない。


アヒルママはある意味いい親

子どもの頃は必死に慕っていたんですよ。

嘘つかれても、恩着せがましく言われても、理不尽に必死に付き合っていい子したんだ。
反動で不良になったけど

ママががんでも私は泣かない。

でもママは絶対がんにはならない。
自己中だもん。

管理された環境の中で手厚く保護されて、ありがたいことです。
ホテル並み。

そこまでやったから、いい、と思うも、親ってずっと縁が切れなくて大変です。

こんなブラックを言ったら気分を害する人もおりますでしょうが。嫌いなんだって気がついた。
53年かかった。

自分ががんになって近しい人には報告。
アヒルママには絶対言いたくなかった。

がんという困難の中で言いたくない人ナンバーワン母。
母のハラスメントから解放されて心が楽になった。


子どもたちは陰で泣いてたかもしれません

闘病中は自分のことで精一杯で、元気になろう一心でした。
彼らの心に気がつかない私はいつも母親失格で、まだまだ修行しないと。

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6.15は告知記念日

2016-06-15 21:52:16 | がん告知
このCellが がんだと君が言ったから 6.15は告知記念日

イラストから行っちゃいます。




がんは唐突ではない気がした

ショックではないわけではないけど。
今まで健康診断では痩せ気味以外問題は全くなかった。
でも、重いストレスも続いていた。
裁判関係、ストーカー、その他、あまり人に気軽に言えるようではないことが相次いでいた。

下の子が家を出て、それらを夜は忘れる生活ではなく、引きずる生活になっていたし。

あの頃抱えきれないストレスにさらされ、生活も荒れてたもんなあ。


心に向き合うことは

こんな困難がなければ素直になれないもの。

違う見方ができるようになったことが今の生きる意味でしょうか。


困ったおまけ編

コメントへのレスポンスを書き込もうとしたら、わたしがオーナーだっていうのに
「IP制限がかかっています」と書き込めなかった。
わたし側のエラーか?

なんなの、なんなの。

再トライしますが、もし、そのような制限が出たときは、わたしの本意じゃなくてよ。


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自分に向き合うきっかけが、がんだったんじゃないかなあ。いい人生になっちゃった気がする。

2013-06-22 20:55:24 | がん告知
去年の今日のメールをなぜかちょうど読んでいた友人に、電話をした!
もしもし~~~と電話したら、
「今ちょうど、なぜかあなたがちょうど一年前の今日くれたメールを見ていた。PCのメーラーの不具合を確認中出てきて読んでた」
わお!
「台風が来て、ホテルになかなかたどり着けなくて、娘さんと泊まった、とかいろいろ書いてある。珍しく長いメール。ショックを乗り越えようと冷静になろうという厳しいメールだよ」
へ~~~
へ~~~
すっかり忘れているというか。
がんの前、がんのあとはもう全然異なる。
嘘くさい使用前、使用後の比ではない。

話すうちに思い出してきた。
遠い遠い昔のことのような気がするから不思議。

がん専門病院で細かく診察を受けたのだった、台風が来て電車もとまり、タクシーも拾えず大変だったのだ
あ~~~、人は忘れやすいものだねえ。
忙しい娘が休みをもらって付き添ってくれたのだった。
ありがたかったなあ。
内視鏡、心電図、エコーなど一通りの検査を一日でしたのだ。
最初、所見ではステージは3ないし4といわれた。

次回、来院時に今後の治療方針を聞く、ということだった。
あれから一年か~

あのとき、娘が一緒に居てくれたことは大きかったな。
心の底から気がまぎれた。
多忙で、正月も病棟で働く彼女に会えたし、
余計なことは何も言わない、情報だけ教えてくれる彼女の成長ぶりが頼もしかった。

いろいろ思い出したよ~

いやなことは忘れようとする心の働き
自分のことだとそう。
人から受けたことはそうじゃないけど。

がんは今となってみれば自分の不注意もある。
どうしてがんになったか、自分の体は知っていると思う。
高校生からタバコ吸っていたこと。
酒に強く、肝臓は問題ないから結構飲み歩いたりした。これも高校生からだ。
ここ数年、吐きっぽかった。
昼が揚げ物だと、我慢しても夕方体調悪いと酸っぱいものが上がってよく胃液を少し吐いていた。
医者に行きもしなかった。
それに対していい訳はいっぱいある。
でも自分が悪い。
だからけっこう忘れようとしている。

でも、こんな風に複数の人が心配してくれていたことまで記憶から排除しちゃダメだね。

無我夢中だったんだろうなあ。

告知お知らせメールで冷静になり
そうだった、そうだった。
でも、過去はどうこう言っても仕方のないことだ。
そんなのは関係ない。
今から生きる私。
それがかっこいいんじゃないかと思ってるんだ。

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6月15日は告知記念日

2013-06-15 05:20:57 | がん告知
去年の6月15日、内視鏡、食道がんの告知
がんキャリアの人が誰もそうであるように、その時のことは克明に覚えている。
疑わしいから検査を受けたので、ああ、そうか、やっぱり、と確証を得たような気持ちもあった。
これからどうなるのか予想はつかなかったけど、対処せねばならないと思った。

この夏は何も出来ないと判断して、ヨットの共同オーナーに連絡。
絶句してはいたが「治療に専念して」と。
子どもたちに連絡。
静かに受け止めてくれた。
勤務先に連絡。
「すぐに治療して、月曜日、来て詳しく教えて」

それが私の知らせるべき相手だった。
すぐに終わってしまった。

思えば、びわが樹で甘そうに熟すこの美しい季節。
そんな時期の告知であったことがまだ救いか。

庭にはグリーンカーテンにしようと植えた朝顔がすくすく、蔓を伸ばしていた。
これからわたし、どうなるんだろうなあと眺めていた。

人生で今までになかった一年だった、告知は違う生き方のスタートライン
つらいと思うことがなかった訳ではないが、そんなに悪いことばかりでもなかった。
それはわたしにとってだけかもしれない。
周囲には迷惑をかけ、こどもは本当に不安を感じただろう。
立ち止まったことは、私の生き方を変えた。
よかった、って思うことにしている。
少しゆっくりしなよ、と体がブレーキをかけてくれたような気がする。

不滅のねじ花
これは限定、我が家に置いて不滅といわねばならない。
子どもたちが小さい頃、植木鉢に植えて面白いね、と夏の間大事に育てた。
翌年からは芝の間や思いもよらぬあいた場所に生えてくるようになった。
この時期、ねじ花、枇杷の実、朝顔の苗が目に焼き付いている。




昨夜から娘が来てくれている
深夜までただ一緒に居て映画を見たり、昔からいたように、いる。
私ががんになってから、多忙な中、気にしてくれている。
ただ、一緒に居て、昔のように過ごす。
それが出来ることがありがたい。

こうして何回も6月15日を重ねていきたいものだ
強くそう希望する。
誰もが願うように、私もそう願っている。
がんはもう不治の病じゃないって信じたい。

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告知と向き合う(涙が浄化)

2013-01-12 17:46:19 | がん告知
さくさく抗がん治療が進むある朝、小さなきっかけで突然いっぱい泣いたことがある。
涙は偉大な力がある、助けられてしまった。

朝ご飯についていたふりかけを見て泣いた。
栄養強化食品で商品名は「てつのすけふりかけ」
いろいろあるが確か、かつお味かたらこ味のどちらかがついてきたのだった。
よく、病院、学校給食などで栄養価に配慮して添加される食品だ。

わたしは保育士として働いてきた。
保育園でもこのふりかけはよく出た。
通常お店で売っていないから、他でであった事がなかった。

ふりかけを見た瞬間、色々なディレクトリを飛び越えて保育園を思った。
自分がどれほどこの仕事を愛しているか、
どれだけ仕事に、子どもたちに支えられて生きてきたのかに思いがとんだ。
ご飯を置いて走って中庭に出てわあわあ泣いた。
担任が突然いなくなったこどもの不安に詫びながらあいたくてあいたくて泣いた。
泣きながら、わたしはわかっていた。
子どもたちは順応し、すぐにショックから立ち直ってすくすく育つこと。
こんなに心が支えられていたのなら、もっと人として深く関わればよかった。
おまえがなくほどそんなにいい保育士だったのか?
そうも自問自答した。
ここが病院でよかったとも思った。
新宿の地下街じゃ、不審者だ。
普通、おばさんがしゃがみ込んでわあわあ泣いていたりはしない。
まだ泣いてなかったから、泣かないと向かいきれないのかな、とも。
涙が用意されてしまったからなくのかも。
幼い子を家に残してきた母親だったら、すごくつらいだろうなとも思った。

泣くのはそうは長く続かない、力が必要なのだ。
こどものように泣くと気持ちは「もういいや」というような感じになっていた。
泣く場所があってよかった。
そのあとはもう泣くことはなかった。
てつのすけふりかけはその後も出たが、感情のふたを開けることはなかった。
泣くというのはありがたい人間の仕組みだ。
こどもが親と離れたくなくて泣いたり、けんかして悔しくて泣いたり、
泣き止むとけろっと遊びだしたり、けんかした相手とまた遊びだしたりしているのと同じ。

タフに生きていくのにはおいおい泣くのもありなんだった。
今までの世界と変わり、今からの療養生活。
違う事はもう仕方ない。
タリーズでいつものデカフェを待って買って、涙で洗われて

告知と向き合う(楽になるために)

2013-01-09 11:30:12 | がん告知
そういえば昔はがんは家族が呼び出されて告げられた。
不治の病なのでショックが大きいので本人に知らせるのは家族の判断だった。
患者の知る権利保護のため、がんは告知されるようになった。

わたしと同じ食道がんで亡くなった知人がいて、葬儀も終わり落ち着いた頃、線香を持って家を訪ねたことがある。
ありがとね、ありがとね、と故人の妻はわたしを引き止めた。
初孫のお宮参りの写真を見せてもらったり、なぜかカレーをごちそうになったりした。それに青汁も。
「死ぬのは怖いよ、とあの人がわたしにすがって泣いたんだけど、あたしは返す言葉がなかったよ」
彼女はそういった。
つらい気持ちがまだそこにあるのが伝わる。
わたしも彼女に返す言葉がなく、「孫の顔を見れて、良かったね」と話をずらした。
孤独な苦しみを抱えていった故人と残された家族を思うと、生きる事は本当に苦行だなあととぼとぼ家に帰った。

ところがわたしの場合、がんはあっけなく認めることが出来た。
なぜだろう。
なくなった彼の時代はがんは恐ろしいイメージで定着していたこともあると思う。
時代のがんへの扱いが変わった。
それと、がんは誰でもがかかるものだよ、という意識が持てたことだろうか。
何故あっけらかんなのか、考えてみるがそのくらいだと思う。
本人はそれなりにかまえてノートに思いついた事を書き連ねていたから、ショックがなかった訳ではないはず。
しかしノートには散歩と食べるものなどが主に書かれている。実に食べる事ばかり。
ノートに
「何も考えずHOS.に来て、何も考えずに一日を過ごす。東京駅で買った成城石井のチリメン山椒はベタ甘で食えず、残念」
「これから対処しなければならないことはたいへんなことだが、一人ではない。手厚いケアの中にいる。そのことを見失わずに、大きな眼で、自分を把握したい。自分が特殊な試練の中にいるなどと思い上がらない事だ。イタめしの差し入れ、イカのフリットが絶品。とにかくすきなものを食べて、食べて、食べた。これでいいのだ」
と、ある。
立ち止まらない事かな。
生活するって、立ち止まらないで食べて寝て、そうしているうちに強い感情も日常に織りなされて取り扱いしやすくなっていく。
三度三度のあるところから考えていくことなのかな。
そう出来れば人間てけっこうタフだと思う。
楽な場所に立てるといい。
生活の中にあるんじゃないかと思う。