八幡様のどんと祭に、正月飾りや古いだるまさんを収めた後は、甘酒を飲んで焼きたてのおせんべ(これいまだに名前が判らないんですが、松島こうれんみたいなサクサクのおせんべなんです)を買って、太白飴を何袋か買って帰るのが常でした。
死んだおじいちゃんが生きてれば100歳ちょっとだから、実家はほとんどの時間を兵頭飴屋さんと一緒に過ごしてきたわけです。両親も、生まれた時から当たり前のようにあった飴が無くなるのにがっかりしてました。私も震災で、ほぼ20年、毎年食べてきたケーキ屋さんが無くなってしまうという体験をしましたけど、親しんだ「味」とかが、自分の「日常」を作っているんだと思い知らされました。
さようなら、太白飴。ずっと変わらぬ味をありがとう。
★「河北新報 / 名物「太白飴」さようなら 明治創業、仙台唯一の専業店閉店」
( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120829-00000017-khks-l04 )より引用
仙台市内で唯一、あめの製造販売を専業としてきた「兵藤飴老舗(あめろうほ)」(青葉区広瀬町)が閉店し、間もなく店舗の解体が始まる。創業は1884(明治17)年。4代目夫婦が店ののれんを守ってきたが、東日本大震災で建物が半壊した上に体調不安なども加わり、128年の歴史に幕を引く。
創業以前に建築された店舗は、震災で全体にゆがんだ。作業場の壁はずり落ち、壁に接していた作業台やあめを延ばす機械も傾いた。夫婦はその後も何とか店を続けてきたが、今年5月に〆子さんが体調を崩して入院。休業したのを機に、7月末での閉店を決断した。店舗に隣接して1935年ごろに建てた自宅も、店と共に取り壊す。
あめ専業店はかつて市内に十五、六軒あったが、10年ほど前から兵藤飴老舗のみになった。兵藤さんが高校を卒業して働き始めたころは「甘い物といえばあめ」。70年代半ばごろまでが最盛期で、大崎八幡宮(青葉区)のどんと祭の夜は客足が途切れず、店じまいはいつも午前3時ごろだったという。
七五三の千歳飴などでも取引があった大崎八幡宮の小野目博昭宮司(61)は「やむを得ない事情とはいえ、昔ながらの味も、古い商家の建物もなくなるのは残念としか言いようがない」と語る。
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死んだおじいちゃんが生きてれば100歳ちょっとだから、実家はほとんどの時間を兵頭飴屋さんと一緒に過ごしてきたわけです。両親も、生まれた時から当たり前のようにあった飴が無くなるのにがっかりしてました。私も震災で、ほぼ20年、毎年食べてきたケーキ屋さんが無くなってしまうという体験をしましたけど、親しんだ「味」とかが、自分の「日常」を作っているんだと思い知らされました。
さようなら、太白飴。ずっと変わらぬ味をありがとう。
★「河北新報 / 名物「太白飴」さようなら 明治創業、仙台唯一の専業店閉店」
( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120829-00000017-khks-l04 )より引用
仙台市内で唯一、あめの製造販売を専業としてきた「兵藤飴老舗(あめろうほ)」(青葉区広瀬町)が閉店し、間もなく店舗の解体が始まる。創業は1884(明治17)年。4代目夫婦が店ののれんを守ってきたが、東日本大震災で建物が半壊した上に体調不安なども加わり、128年の歴史に幕を引く。
創業以前に建築された店舗は、震災で全体にゆがんだ。作業場の壁はずり落ち、壁に接していた作業台やあめを延ばす機械も傾いた。夫婦はその後も何とか店を続けてきたが、今年5月に〆子さんが体調を崩して入院。休業したのを機に、7月末での閉店を決断した。店舗に隣接して1935年ごろに建てた自宅も、店と共に取り壊す。
あめ専業店はかつて市内に十五、六軒あったが、10年ほど前から兵藤飴老舗のみになった。兵藤さんが高校を卒業して働き始めたころは「甘い物といえばあめ」。70年代半ばごろまでが最盛期で、大崎八幡宮(青葉区)のどんと祭の夜は客足が途切れず、店じまいはいつも午前3時ごろだったという。
七五三の千歳飴などでも取引があった大崎八幡宮の小野目博昭宮司(61)は「やむを得ない事情とはいえ、昔ながらの味も、古い商家の建物もなくなるのは残念としか言いようがない」と語る。
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