身辺雑感/脳をとろ火で煮詰める日記: 「YAWARA!」にみる「神を殺せない物語」より引用
「大天才の絶大な力に触れて活性化された凡人たちが、その高みを目指す過程で自己救済に至る」という図式。全29巻もありますが、基本的にはこれを様々なレベルでひたすらリフレインしまくるだけで、そのシンプルさが力強い。
とくにシリーズ後半、富士子さんが引退間際に「柔道をやって良かった」と言うとき、柔ちゃんが"まったく負けないキャラ" *1 である意味が染みてきます。劇中の人物たちにとって猪熊柔=柔道(のすばらしさ)そのものなので、絶対性がなくてはいけないんですね。神格、といってもいいでしょう。
じっさい劇中でジョディが指摘していますが、柔はもう完成された存在なので、自分だけの勝利や成長にこだわりません。というか、自分以外の誰かの戦いに気を配っているときのほうが圧倒的に多い。自分を救う必要がないというのは、つまり神か、神域にさしかかった聖人悟人のあり方です。
(中略)
「けっして殺せない神が居る物語」は、一見すると絶対に努力で超えられない壁をもうける容赦ない冷徹な世界観のようでもありますが、「学ぶべきものを見失わずに済むように、神様がいつまでも最大の理想値を示し続けてくれる世界」という意味で、人間--とりわけ近代以降の世界に住む人間--に対してかなり優しい、ファンタジックな甘みのある世界観になりうるということは見逃せません。
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私はこの記事を拝見していて、すぐに「ワンピース」のルフィを思い浮かべました。「ドラゴンボール」の悟空は何気に恋愛して結婚して子供や孫も出来ますが、ルフィに恋愛イベントはほぼ起きていません。いっそ”中性”と思えるほどの清々しさです(笑)アラバスタ編のビビとの関係も、信頼であって恋愛では無いんですよね。
ただルフィには「海賊王」になる為に成長しようという想いがありますが、それすら「仲間を救う」という想いには、劣るんじゃない?という場合がしばしばあります。
今度の新刊で、ワンピは49巻になりました。今週号のWJ連載の中で「ようやく世界の半分にたどり着いたぞ」というセリフがあるので、おそらく作者さんの構想もそうなんだと思います・・・・とすると100巻位まで続くんですかね?(苦笑)まぁ、諸事情がありますから、果たして実現可能なのかは判りませんが、「ルフィ=けっして殺せない神が居る物語」の設定が、ここまで大長編として継続出来ている理由の一つだなと思います。
リンク先の記事のコメント欄に「F.S.S」を神の物語の一例として挙げておいでの方がいらっしゃるんですが、未来にどんな全能神としての存在が確定していても、Dr.バランシュが亡くなった頃の”ソープ”は、ようやく哀しみという感情を理解した程度の存在でした。この「神」として生まれた存在でも、自覚がなければただ人と同じく、悩み苦しみ己の無力に打ちひしがれるという設定が、現在絶好調で視聴中(笑)の韓国大河ドラマ「太王四神記」のチュシン王ことタムドクと似ています。生まれながらの王と皆に言われ続けてきても、本人にはその自覚が無く、果たして本当に自分がチュシン王になのかと煩悶しています。第11話で、とうとう臨時の王にはなりましたが、真の覚醒には至っていません。
「絶対神」として生まれながらも、覚醒するまでの葛藤を描いた作品だから、「F.S.S」や「太王四神記」が、猛烈に面白のかなと思います(結局、これが言いたかった!笑)
「大天才の絶大な力に触れて活性化された凡人たちが、その高みを目指す過程で自己救済に至る」という図式。全29巻もありますが、基本的にはこれを様々なレベルでひたすらリフレインしまくるだけで、そのシンプルさが力強い。
とくにシリーズ後半、富士子さんが引退間際に「柔道をやって良かった」と言うとき、柔ちゃんが"まったく負けないキャラ" *1 である意味が染みてきます。劇中の人物たちにとって猪熊柔=柔道(のすばらしさ)そのものなので、絶対性がなくてはいけないんですね。神格、といってもいいでしょう。
じっさい劇中でジョディが指摘していますが、柔はもう完成された存在なので、自分だけの勝利や成長にこだわりません。というか、自分以外の誰かの戦いに気を配っているときのほうが圧倒的に多い。自分を救う必要がないというのは、つまり神か、神域にさしかかった聖人悟人のあり方です。
(中略)
「けっして殺せない神が居る物語」は、一見すると絶対に努力で超えられない壁をもうける容赦ない冷徹な世界観のようでもありますが、「学ぶべきものを見失わずに済むように、神様がいつまでも最大の理想値を示し続けてくれる世界」という意味で、人間--とりわけ近代以降の世界に住む人間--に対してかなり優しい、ファンタジックな甘みのある世界観になりうるということは見逃せません。
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私はこの記事を拝見していて、すぐに「ワンピース」のルフィを思い浮かべました。「ドラゴンボール」の悟空は何気に恋愛して結婚して子供や孫も出来ますが、ルフィに恋愛イベントはほぼ起きていません。いっそ”中性”と思えるほどの清々しさです(笑)アラバスタ編のビビとの関係も、信頼であって恋愛では無いんですよね。
ただルフィには「海賊王」になる為に成長しようという想いがありますが、それすら「仲間を救う」という想いには、劣るんじゃない?という場合がしばしばあります。
今度の新刊で、ワンピは49巻になりました。今週号のWJ連載の中で「ようやく世界の半分にたどり着いたぞ」というセリフがあるので、おそらく作者さんの構想もそうなんだと思います・・・・とすると100巻位まで続くんですかね?(苦笑)まぁ、諸事情がありますから、果たして実現可能なのかは判りませんが、「ルフィ=けっして殺せない神が居る物語」の設定が、ここまで大長編として継続出来ている理由の一つだなと思います。
リンク先の記事のコメント欄に「F.S.S」を神の物語の一例として挙げておいでの方がいらっしゃるんですが、未来にどんな全能神としての存在が確定していても、Dr.バランシュが亡くなった頃の”ソープ”は、ようやく哀しみという感情を理解した程度の存在でした。この「神」として生まれた存在でも、自覚がなければただ人と同じく、悩み苦しみ己の無力に打ちひしがれるという設定が、現在絶好調で視聴中(笑)の韓国大河ドラマ「太王四神記」のチュシン王ことタムドクと似ています。生まれながらの王と皆に言われ続けてきても、本人にはその自覚が無く、果たして本当に自分がチュシン王になのかと煩悶しています。第11話で、とうとう臨時の王にはなりましたが、真の覚醒には至っていません。
「絶対神」として生まれながらも、覚醒するまでの葛藤を描いた作品だから、「F.S.S」や「太王四神記」が、猛烈に面白のかなと思います(結局、これが言いたかった!笑)