今日は成人の日ですね。
新成人の皆さま、おめでとうございます。
ちなみにイベント事に無頓着な私は、自分の成人の日には日本におらず、その数日前にアメリカ南部に旅立っておりました。自分も成人式に出なかった母親は、残念がるどころか「親と同じねー」と笑っておりました。
そんな私も、気付けば人生の折り返し地点(平均寿命まで生きると仮定し)。
本当に、本当に“あっという間”でした。
ですから新成人の皆さん。
自分の心に素直に生きてください。
短い人生を、生まれ落ちたこの世界を存分に楽しんでください。
少なくともその価値は、この世界にはきっとあります。
「生きるために生まれてきたのに――」。
映画『かぐや姫の物語』の姫の言葉です。
月に還る前、なんでちゃんと生きなかったんだろうと、泣きながら言うのです。
私、もうぼろ泣きでした。ハンカチが見つからず、仕方なく羽織っていたストールで涙と鼻水を拭き拭きし、それでもしゃくり上げてしまい、周りの人達に迷惑になっちゃう…と思ったら周りも同じ状態でございました、笑。
『風立ちぬ』の時と同じく事前情報を何も入れずに観ましたが、想像していたよりずっとわかりやすい映画でした。
私はいわゆる物語的な輪廻転生を信じるには現代人でありすぎるのですが、それはそれとして、前にも何度か書きましたが、ほんの3~4歳の頃から自分の「遠い記憶」のようなものを時折感じる子供でした。
木々が揺れたり、雲間から太陽が覗いたり、風が吹いたり、そんな何気ない瞬間に、それは突然訪れるのです。友達と楽しく遊んでいる最中などでもです。その瞬間、切なくて切なくて泣き出したくなってしまうのです。具体的な記憶ではなく、ぼんやりとした感覚ですが、とても大事な何かを自分は忘れてしまっている、そんな気がするのです。そういうことが、子供の頃はしょっちゅうでした。
やがて学校にあがり谷川俊太郎さんの詩に出会い、『地球交響曲』の前身である龍村仁監督のNTTデータスペシャルに出会い、「自分だけじゃないんだ」と救われた気がしました。
人生も半ばになった最近では、「遠い記憶」にかなしくなるようなことは殆どなくなりました。思い出せなくても、その記憶はいつも私の中に、私と共にあることがわかったからです。そしてもうあと数十年もしたら、きっと私はもう一度その記憶を思い出させてくれる場所に行けるような気がするからです。中島みゆきさんの歌にある「遺失物預り所」のような所で、きっとみゆきさんみたいな人が「お待ち申し上げておりました」ってにっこり笑ってくれるような気がするからです。
ちょっと映画の話から脱線しちゃいました。でもこの映画を観ながら私がずっと感じていたのは、そのようなイメージでした。ですからエンドクレジットで「いのちの記憶」が流れたときには、涙の洪水。。。
来るべき時が来て、天の羽衣を着てこの世界で生きた思い出が失われてしまっても、なにもわからなくなっても、必ず憶えてる。きっとどこかで、また会える。
かぐや姫がその短い人生を終え、振り返った地球のなんと美しいことでしょう。
風に揺れる木々、舞い上がる桜の花、どこまでも白い雪、虫や獣たちの生命の息吹、子供たちの笑い声。
結果としてかぐや姫を苦しめることになってしまった翁の行為だって、ただかぐや姫を想ってのこと。自分が贅沢をしたいからなどという理由ではありませんでした。そういう悲しい擦れ違いも、人生の中では多々あること。翁の場合誤りに気付いたときにはもう手遅れでしたが、でもかぐや姫には、翁のずっと変わらなかった「想い」はちゃんと届いていたと思います。
『風立ちぬ』の堀越二郎と、かぐや姫。二人の主人公の人生は決して「幸福」ではなかったかもしれませんが、監督二人の伝えたかったことは共通するように思います。
「それでも」この世界は美しい。
だから、生きなさい、と。
そうそう、この映画を観ながらもう一つ私の頭に浮かんだイメージがありました。
私の大嫌いな(笑)映画『世界はときどき美しい』のなかの、大好きな詩「われらの父よ」(ジャック・プレヴェール)です。
一本の作品に、何度もすみませぬ。
というのも、鑑賞後に色々とレビューを読んでいて、今回の映画に関してはその内容に驚くことばかりだからです。
先日も書きましたが、賛否以前に「何が言いたいのかわからなかった」という感想や、「煙草が云々」に代表される道徳の授業のような感想。
そして先ほどふと気付いたのが、そもそも、「もしかして今の世の中って、自分が映画の主人公に共感できなければ感動できない人が多いのだろうか?」ということです。
たとえば私が二郎の立場だったら、殺人兵器となる零戦を作ること自体にものすごく悩むだろうし、また仕事よりも愛する人との時間を大切にすると思います。
ですが、当然ですが、私と二郎はまったく違う人間です。生きている時代も違う。
なので私は、「私だったらそうはしないけれど、この主人公ならするだろう」という風に観ます。そして映画全体の言おうとしていることを、客観的に考えます。それに私が感動できたかどうかが、「良い映画」か「そうでない映画」かの基準です。
しかしレビューを読んでいると、自分の考え方と全く違う行動をとる二郎を「薄情だ」「無責任だ」「理解できない」という理由で映画の出来を評価しているものが非常に多く見受けられ、驚きます。
プラスのレビューも同様です。
二郎の性格や作品のテーマを、自分が共感できるように、スクリーンに描かれている以上に「道徳的に良い方向」に解釈しようとしているレビューを多く見かけます。
そういう人達は、映画の中の「ピラミッドのある世界の方がいい」という言葉をどう解釈しているのだろうか?と本当に不思議です。
これは二郎の台詞ではありませんが、二郎もそういう世界に惹かれていることは明らかです。
この言葉はもちろん、ピラミッドの二面性を意味しているわけですよね。その美しさと、その建設のために失われうる数えきれない命。その二面性、危険性を承知の上で、「それでも」ピラミッドのある世界の方がいい、と言っているのです。
二郎は積極的に「殺人兵器」を作ったわけではありませんが、そういう矛盾も抱えた人間なのです。
決して完全無欠なヒーローなどではない。
※ちなみに私が以前ピラミッドの例えを微妙だと書いたのは、ピラミッドは王の「夢」の象徴というよりも、「権威」の象徴というイメージの方が強いからです。余談。
そんな二郎のエゴイズムはエゴイズムとして、それも含めてこの映画の重要な一部分であるのに、どうしてそれを客観的に観ることができないのでしょう。
この映画は決して二郎の優しい性格を描こうとしているわけでも、戦争の悲惨さを描こうとしているわけでも、菜穂子との純愛を描こうとしているわけでもないでしょう。
この映画が描きたかったのは、生まれ落ちた時代の中で、精一杯に“夢”を追って生きた一人の青年の姿です。
それ以上でも、以下でもありません。
宮崎監督ご自身が述べられているとおりです。
もちろんこれも私一個人の感想にすぎませんから、これが「正しい」ということではないでしょう。
映画の感想なんてどれも主観的なものですし。
とはいえ、作品それ自体に対して「もうちょっと鳥瞰的に観られないものかねぇ」と多くのレビューを読んで感じたので、ここに書いてみた次第でございます。作品と自分との距離感、といいますか。うまく言えないのですが・・・。
そういう視点からこの映画を観た上でのレビューは批判的なものでも私は理解できるのですが、マイナスレビューであろうとプラスレビューであろうと“それ以前”の内容のものがとても多いことに、残念というよりも、日本の将来が不安になりました・・・。
さて、話は変わり。
先ほど知ったのですが、鈴木プロデューサーの『風に吹かれて』というインタビュー形式の本の中で、こんなエピソードが語られているそうです。
鈴木 「宮さんの考えた『風立ちぬ』の最後って違っていたんですよ。三人とも死んでいるんです。それで最後に『生きて』っていうでしょう。あれ、最初は『来て』だったんです。これ、悩んだんですよ。つまりカプローニと二郎は死んでいて煉獄にいるんですよ。そうすると、その『来て』で行こうとする。そのときにカプローニが、『おいしいワインがあるんだ。それを飲んでから行け』って。そういうラストだったんですよ。それを今のかたちに変えるんですね。さて、どっちがよかったんですかね」
鈴木 「やっぱり僕は、宮さんがね、『来て』っていってた菜穂子の言葉に『い』をつけたっていうのはね、びっくりした。うん。だって、あの初夜の晩に『きて』っていうでしょう。そう、おんなじことをやったわけでしょ、当初のやつは。ところが『い』をつけることによって、あそことつながらなくなる」
興味深いですねぇ。
私は、そうだなぁ、やっぱり今のラストの方が好きですかね。
菜穂子の言葉が『来て』であっても『生きて』であっても、この作品が最も描きたかったであろう「その時代の中で力を尽くして生きた二郎の十年」には何の変わりもないので、そういう意味ではどちらのラストでも大差はないと思う。でも、現実として二郎の夢がもたらした決して小さいとはいえない重い結果がそこに存在している以上、これから二郎がどのような人生を歩むにせよ、自分のしたことを悔やむにせよ悔やまないにせよ、彼は生きて、自分の“夢”がもたらした結果を見続けていくことが、この作品のラストとしては良いように思います。
さっさと死んで菜穂子の待っている世界に行ってハイ終わり、というのはやはり違うのではないかな、と。
しかし、よくぞこの映画を作ってくれました宮崎監督、と本当に思います。
監督は「戦闘機が大好き」で「戦争は大嫌い」という矛盾を抱える自身の内面を、この映画でありのままにさらけ出してくれました。その矛盾を解消できないまま生きてきた、その矛盾ごと「自分」なんだと、隠したかったであろうそういう部分を、ジブリのファンである私達に見せてくれました。映画のラストで「じたばたしていく」二郎の姿は、宮崎さんご自身の姿でもあったのでしょう。
世の中にはオブラートに包んだ方がいいこともありますが、包まなくていいことだってあります。
この映画は、包まないことによって傑作となった映画だと、私は思います。
そして傑作の価値は、子供にとっても、大人にとっても、同じですよ。
それを理解するのがいつかだけの違いです。
※『風立ちぬ』 1
※『風立ちぬ』 2
宮崎:嫌んなっちゃったんですよ、いろいろ。
庵野:役者さんですか?
宮崎:うん、役者さんが。その、声優じゃないんだけど、なんかみんな同じような感じでしゃべってるんだよね。相手の心をおもんばかってるばかりでね。ばかってるフリをして、それで感じを出して、感じが出てる僕、っていうね。
(『風立ちぬ』メイキングより)
宮崎監督が庵野監督の起用を決めたときの、お二人の会話です。
これ、今の時代についても、そのまんま当てはまる気がするんですよね。
みんな同じで、「いい子」ばかりな時代。
「周りに迷惑をかけないエラい僕」みたいな。
今回の映画についての感想を読んでいても、その批判の内容にびっくりします。
「貧しい人達を尻目に二人は楽しく恋愛している」「肺病患者の隣でタバコを吸っている」「肺病患者なのに周りの迷惑を考えず町を出歩いている」「感染させるかもしれないのに、二郎を床に誘っている」「菜穂子は辛い病人なのに、二郎は抱く」「二郎は自分の満足のために兵器を作った」・・・・・・。
いったいみんな、どれだけ品行方正な生き方をしているのだ?と言いたくなります。
芸能人のスキャンダルに対してもそう。
そして世の中で事件があると、自分は関係者でもなんでもないのに鬼の首をとったように加害者を糾弾する人たちのなんと多いことでしょう。
「周りに迷惑をかけずに生きてるエラい俺」を声高に言いながら、その実本人が誰よりもそんな自分にストレスを感じているように私には思えます。
それもいい歳したおっさんではなく、まだ若い人達がそうなのだから不思議です。
若者なら悟った顔をして他人の批判をしていないで、多少周りに迷惑をかけても思いきり生きてみればいい。
まあそれを許さない世の中を作った大人にも、多少の責任はあるかもしれませんが。
こう言うと「そうだ、大人のせいだ」という若者がまたいるのでしょうね。
ちがいますよ。
一番は、あなた達自身の責任です。
もしかしたら戦争の時代よりも、窮屈な時代なのかもしれませんね、現代って。
それも国家から強制されているわけではなく、自分達で自分達の生き方を狭めてしまっているように見えます。
「みんな同じ」の世界を作り上げ、外れる者を声高に非難し、その小さな世界の中にいることで「安心感」を得るのでしょう。
つまらない生き方ですね。
『みんなちがって みんないい』
そんな言葉が流行っていても、世の中には根づいていない。
そういう意味でも、「いい子」を描かなかった今回のこの『風立ちぬ』、いいなあと思ったんですよね、私は。
もし今のような閉塞感のある時代でなければ、ここまでいいとは思わなかったと思います。
毒舌、失礼いたしましたm(__)m
※『風立ちぬ』 1
※『風立ちぬ』 3
「この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。自分の夢に忠実にまっすぐ進んだ人物を描きたいのである」
(宮崎 駿)
『風の谷のナウシカ』が公開されたのは、私が7歳のとき。
以来ジブリと一緒に歳を重ね、大人になり、新作が公開されればやはり映画館に足を運び、そして人生の半ば近くまで来てしまったわけですが。
今回この『風立ちぬ』を観ながら、宮崎監督、この映画を作ってくれてありがとう、と心から思いました。
おそらく監督にとってこれまでの作品と違う、作るのに覚悟を必要とした作品だったであろうことが、わかったからです。
私はこの作品を宮崎監督の「最高傑作」と言うつもりはありません。
そう言ってしまうには、これまでの宮崎作品が放ってきたファンタジーの魅力は強烈すぎる。
あの積乱雲の合間から天空の城が姿を現すときのワクワク感、不思議な生き物が棲む深い森のちょっと恐ろしいようなざわざわ感、八百万の神さまが去った朝の静謐で透明な油屋の空気、緑の荒野の向こうから突如ロボットのような巨大な動く城が現れたときの息をのむ光景――。
それぞれのテーマは重くとも、宮崎監督が作り出したそれらの世界に、どれほど心躍らせてもらったことか。
しかし今回の作品がそれらと完全に異質かというとそうではなく、やはり、その延長線上にあるのだとも強く感じました。
夏の高原の爽やかな空気感、主人公の夢の世界の躍動感、見事な“風”の描写、時空を超えた人の繋がり、古い日本家屋の木の香り、それらの合間にそこはかとなく漂う寂しさ。
そのどれも、これまでの作品と共通する、これまでの作品があったからこそなしえた、描写の美しさ、豊かさだと思います。
この映画について賛否以前に「何が言いたいのかわからなかった」という意見があることを知り、驚きました。私はあらすじさえ読まず、まったくの前知識なしに観に行きましたが、「わからない」ことなど何ひとつなかったからです。
これまでのジブリ作品と比べてもテーマはとても明快で、はっきりとスクリーン上で表現されています。つまり、上で引用した、監督ご自身が述べられていること、それがすべてでしょう。
零戦という多くの人を殺す道具にもなりえる飛行機を作った主人公についても、同様です。
カプローニ(萬斎さん、よかったなぁ)がはっきりと言っているではありませんか。「君ならピラミッドのある世界とない世界、どちらを選ぶ?――私はピラミッドのある世界がいい」と(まぁこの例えもちょっとどうかとは思いますが)。
夢がはらむ危険性。
その葛藤は、ラストの風景の中にちゃんと描かれている。
二郎は決して神様でもなければ、完全無欠なヒーローなどでもないのです。
完成披露記者会見で監督は「(ラストは)じたばたしていく過程なんですよ。形を出してしまったらこれは違うなということが自分でわかったんです」と言っていました。
それでもなお、“夢”をもって生きることの大切さを、宮崎監督はこの映画を通して言いたかったのだと思います。
そしてものすごく乱暴な言い方をしてしまえば、菜穂子との「愛」も、主人公の「夢」の前では、二次的なものなのだと思います。
だからといって愛の重さが軽いわけでは決してなく、それは二郎にとっても菜穂子にとってもまったく自然なことで、限られた時間の中で、限られた人生の中で、二郎は「夢」を追い、菜穂子はそんな二郎を愛し、二人は「愛」を育んだ。
周りからどんな風に見えようと、二人は誰よりも「幸福」なのだと思います。
二人だけにわかる、しかし何よりも確かな愛の形でしょう。
他の宮崎アニメのヒロインと同様に、この菜穂子も、自分の価値観をしっかりと持っているとても素敵な女性。
震災のとき二郎から「君たちの荷物は?」と聞かれて、「いいんです」と躊躇せずにきっぱりと答えるところに、そんな性格がよく表れています。
周りに流されず、自分にとって何が一番大切か、何が一番幸福か、よくわかっている。
『ひこうき雲』の歌詞の少女そのものです。
そんな女性に、瀧本美織さんの芯のしっかりした声はよく合っていました。
庵野監督の声も、とてもよかった。
私は今まで宮崎監督が声優を起用したがらない理由がいまひとつ理解できなかったのですが、今回の映画を観て、とてもよくわかりました。
下手でもいいから、「演技」ではない、“ありのままの声”を望んでいたのですね。
そして今回は声優はもちろん、俳優でも納得がいかず、そして庵野監督。
素晴らしい選択だったと思います。
宮崎監督は「なぜ今あの時代の日本を描いたのか?」という質問に、「また同じ時代が来たからです」と答えられていました。
亡くなった私の祖父は、「今の時代は戦前によく似ている」と言っていました。
空に美しい飛行機を飛ばしたいという少年の夢が、二度と戦闘機という形になることのないように。
私達は、何が最善の道か、それぞれが自分自身で考えて、しっかりと答えを出さなければならないでしょう。
そして、たとえ戦争はなくとも、どんな時代でも、どんな人にとっても、「生きる」ということはそれだけで、本当に大変です。
それでも、どんなに過酷な状況下でも、“夢”をもって生きる主人公の姿をただまっすぐに描いたのがこの映画です。
映画のコピーは「生きねば。」ですが、私には宮崎監督が「それでも、生きろ」と、「力を尽くして生きろ」と、この映画を通して言ってくれているように感じました。
青空いっぱいに真っ白な飛行機が飛ぶラスト。
気付けば泣いていました。
※『風立ちぬ』 2
※『風立ちぬ』 3
3Dではなく、2Dでの鑑賞。
バズ・ラーマン監督独特の目にも耳にも全く優しくない映像から、あの時代の“狂騒”を嫌になるほど感じることができました。
これ、褒め言葉ですよ。
ド派手で五月蠅い映像とニック&ギャツビー以外の軽薄な人間模様に観ているこちらが「いい加減うんざり!」となった頃にニックの「I've had enough!」(もうたくさんだ!)の台詞がくるので、ひどくニックに共感してしまうのです。決して狙ったものではないと思いますが。
もしかしたらレッドフォード版のような正統的な映像より、こういう映像の方がフィッツジェラルドの世界観には合っているのかも、とさえ思ってしまいました。それくらい、イライラした、笑。繰り返しますが、褒め言葉です。
さて、ディカプリオのギャツビー。
登場シーンの「全世界へ向けた微笑み」の演出。ここは笑うシーンか?と思ってしまった。。。あれはないよなぁ。。。
と、ちょっとどうなのかね?な部分もありましたが、レオ様はやっぱり魅せてくれますねぇ。
夜の庭のシーン、美しくてよかったなぁ。絶対に喜ぶだろうと思ってニックに裏の金の儲け話をもちかけて、きっぱりと「自分は好意(favor)でやっているだけだ」と言われたときのギャツビーの驚きと、嬉しそうな顔!こういう純粋で繊細な表情が本当に上手いですねぇ、レオは。
トビー・マグワイアのニック。
素晴らしくイメージどおりでした。
この映画の一番の見どころですよ。
ていうか、トビ―って私より年上なのね。本当に童顔だなぁ、このヒト。
ただ、これもトビ―が悪いわけではありませんが、現在のニックがアル中と不眠症で病院にかかっているという設定はいかがなものかと。原作で中西部に帰るときのニックは、確かに傷ついても疲れ切ってもいますが、それでも彼なりのきっぱりとした心の区切りもついているように思うのです。自分の価値観に対する自信といいますか、ギャツビーに「君だけが価値がある」という最大級の賛辞を送ったそんな自分に対する確固たる自負を持っていると思うのですよ。だからこそ、最後にトムと握手を交わすこともできたのだと思います。そしてそういうニックなら、中西部に帰った後も大きく精神のバランスを崩すようなことはないでしょう。原作の握手シーンをまるごとカットしてまでこういう設定にした監督の意図が分かりかねます。
キャリー・マリガンのデイジーとエリザベス・デビッキのジョーダンは、イメージどおりでした。
ニックとジョーダンの関係は、原作よりあっさりめですね。もうちょい深くした方が、最後に“ジョーダンも含めた”東部社会全体に対して向けられるニックの心情が引き立つと思うのだけれど。
ジョエル・エドガートンのトムは、ちょっと違うんじゃないかと。。トムって、もっと知的なイメージです。一応イェール大学でニックと同窓だったのですから。でも映画のトムは、脳みそまで筋肉でできてるみたい。。
まあ色々言いたいことはありますが、私は好きです、この映画。
なにより原作で一番好きなギャツビーとニックの別れの場面を非常に美しく映像化してくれたので、この場面のためだけでももう一度映画館に行きたいくらい。
とにかく映像がDVDではなくスクリーン向きなので、ご興味のある方はぜひ映画館で観られることをオススメします。
もっとも、3Dでなくても、2Dで十分だと思います。その方がストーリーに集中できますし、2Dでも十分に迫力ある映像を楽しめましたから。
※村上春樹訳についての感想はこちら
あの天皇発言が本当にあったか否かなど、色々言われておる本作ですが。
その発言はなかったとする映画を作ったところで、やはり文句を言う人はいるのでしょう。
どんな風に作ろうと必ず何か言われるのがこの時代を描く映画の宿命ですが、現時点で真実は闇の中である以上、諸説ある中からどれか一つを採用するしかないではないか、と私などは思うわけです。
とはいえ「本作はマッカーサー資料を根拠としたフィクションである」とかなんとかテロップの一つでも流しておけば不要な批判はだいぶ避けられたろうと思うので、フィクションとノンフィクションの混同という意味で誤解を与えやすい映画であることは確かですね。
単純に「映画」として観た感想を言うなら、私はとても良い映画だったと思います。
フェラーズ准将(マシュー・フォックス)とアヤ(初音映莉子)の恋愛は完全にフィクションで、ない方がよかったという意見も聞きますが、私は必要だったのではないかなと思います。政治も外交も究極には人間(昭和天皇も含め)が行っているわけで、あの真っ暗な時代を懸命に生きた“人間”の姿というのは、やはりすべての根本だと思うのですよね。日本人とアメリカ人の恋愛という最もシンプルな形で、両者の国民性の違いを自然に端的に表すことにも成功していたと思います。二人とも嫌味のない素敵なカップルでしたし。
マッカーサー役のトミー・リー・ジョーンズ。本国での選挙を常に意識している狡猾さと、でもそれだけではない軍人としての大きさが絶妙なバランスで、この役にぴったりだと思いました。
通訳役の羽田昌義さん。東京大空襲で妻を亡くしているという設定と抑えた演技が、とても良かった。
鹿島役の西田敏行さんは、こういう役がすっかりはまり役ですね。ときどき高橋是清@『坂の上の雲』に見えて困りました、笑。終戦後にフェラーズが静岡を訪ねていった場面、淡々とした中に深い悲しみが滲んでいてよかったなぁ。
中村雅俊さんの近衛文磨邸の場面は、先日『異国の丘』を観たばかりだったので、「ちょうどこの頃文隆は・・・」と二重の悲劇に思いを馳せてしまいました・・・。
関屋貞三郎役の夏八木勲さん。この方の演技を見るだけでも、この映画を観る価値があると思います(最近歌舞伎ですっかりこういう見方を覚えてしまった)。明治天皇の短歌を詠み上げる場面、素晴らしかった・・・。こんなに深い空気をさらりと作れる方だったんですね。ご冥福を心からお祈りいたします。
昭和天皇役の片岡孝太郎さん。
2時間半、延々と引っ張ってのクライマックスでのご登場。さぞ難しかったろうなぁと思います。もしこの昭和天皇がイマイチだったら全編ぶち壊し、という映画でしたから。
私は歌舞伎の孝太郎さんの演技が大好きですが、この映画でも期待以上に素晴らしい昭和天皇を見せてくださいました。
考えてみれば、孝太郎さんはこの手の演技がお得意ですよね。今年正月の『勧進帳』の義経でも、「一人だけ周りの人間と違う品格があって、でも浮世離れしすぎていなくて」という空気が絶品でしたもの。
マッカーサーとの会見で「話が違う!」という関屋をすっと左手だけで黙らせるところ、よかったなぁ。もっとも、この瞬間私の頭にぽんっと浮かんだのは、なぜか先日の『柳影澤螢火』で恋人の数馬に目線で合図を送ったときのお伝の方の姿でございましたが(いや、あの場面の孝太郎さんが大好きだったので。。)。
ところで今回の孝太郎さんの出演に父親の許可が必要で驚いたとTVでトミーリージョーンズが言っておりましたね。そんなニザさんも好きですとも!昨日の秀太郎さんブログによりますと、松嶋屋一門は皇室崇拝なのだとか。孝太郎さんの出演がOKだったということは、松嶋屋的にはこの映画の天皇の描かれ方はOKということなのですね(そりゃそうか)。秀太郎さんも孝太郎さんの演技を『力みのない、それでいてしっかりした、「演じていない演技」』と褒めておられました。私もそう思います^^
これらの方々の演技が見られただけでも、十分感動いたしました。
この映画の歴史描写がどれだけ正確であるかの議論はあるでしょうが(二二六事件やその後の戦況に踏み込んだ発言をしていた昭和天皇の姿は、この映画からは覗えません)、少なくとも十ン年前、大学時代にワシントンDCのスミソニアン博物館でエノラ・ゲイの特別展示を見、「戦争を終結させ、多くの命を救った航空機」という英雄的解説が大々的になされ、その犠牲者については一切触れられていなかったことに大きな衝撃を受けた私は、今回の映画で中村雅俊にあの台詞を言わせ、そして広島・長崎・東京大空襲の犠牲の大きさについてはっきりと述べたこの映画を米国が作ったというだけで、十分価値あるものに感じました。なおエノラ・ゲイは現在スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターで展示されていますが、依然として犠牲者についての解説は省かれているそうです。
決して完璧ではないかもしれませんが、今回の映画に関しては、作られたことによる罪よりも、作られたことによる功の方が大きいであろうと私は思います。これまで作られた同種の作品と比べても日米両国に対して格段に公平な描写となっていますし、仮に日本がこの映画を作った場合、米国人は誰一人として観ることはなかったでしょう。
年々あの戦争の記憶が風化していくなか、こういう映画がきっかけとなり、日米の若者が「実際はどうだったのかな?」と興味をもってくれれば、十分だと思います。
なので、こういう映画こそ若い人達に観てもらいたいと切に思うわけですが、夏休み中の1000円デーであるにもかかわらず、観客の平均年齢は六十~七十代。。。三十代の私が一番若かった気がする。。。
残念です。
数年前に亡くなった祖父が、亡くなる前に「最近は戦前と世の中の空気が似ている」と言っていました。
この頃ふと、思い出します。
《記者会見》
・片岡孝太郎
「武士が妻子のために金子を頼んだその心底を、誰か哀れとは思わなかったか。これだけの武士が揃うていて、我が身に置き換え思い遣る気持ちをお持ちの方が、一人くらいおられなかったものか」
(映画 『一命』より)
この映画が言いたいこと、それは半四郎のこの言葉に尽きると思う。
確かに狂言切腹などをまかり通したらキリがなく、「自分達は切腹したいと言う人間にそうさせただけ」という勧解由の言い分は間違っていない。
間違ってはいないけれども、“情がない”のである。
何を甘いことを、と多くの現代人は言うだろう。
それを承知の上で、だけれども、と敢えてこの映画は言っているのだ。
“武士の面目”などという理由のために平然と一つの命を死に追いやった者達に、半四郎は悔いと怒りと悲しみと命をもって問うているのである。
誰も好き好んで狂言切腹をする武士などいない。
幕府の思惑ひとつで主家を潰され、路頭に迷い、武士の誇りを捨て狂言切腹をしなければ生活ができないところまで追い詰められた浪人達を、衣食に憂いのない者達が笑う。だが、両者の間に一体どれほどの違いがあるというのか。そこに項垂れている浪人は、あるいは彼らだったかもしれないのだ。
何でも「自己責任」という言葉で片付け、いま目の前でその人が苦しんでいても何の感情も動かない。弱者を平然と切り捨てることに慣れきってしまった、そんな今の日本にこそ、必要な映画ではないかと私は思う。
悲しい映画であることは確かだが、救いのない映画では決してない。
私がこの映画を思うとき、なぜか頭に浮かぶのは、梅や桃の花の咲く温かな春の景色である。
家族の描写はあくまで温かく、紅葉や雪はあくまで清らかで、何より求女や半四郎の中に人間の美しさと希望を感じることができるからかもしれない。
最後に、賛否両論ある海老蔵ですが、私はとてもよかったと思う。半四郎はただ一人他と異なった空気を纏わねばならぬ役であり、その点彼の存在感はぴったり。また、着物での所作や佇まいの美しさに、はっとさせられること幾度。多少台詞が聞こえずらいところがあるのは残念だったが、低く深みのある声も良かった。
★原作の小説ついてはこちら
「教えて、私はどこの国にいるの。ここはポーランド?」
(映画 『カティンの森』より)
友人に誘われて、観に行ってきました。
第二次世界大戦中、ポーランド人将校約1万5000人がソ連により虐殺された事件を描いた作品です。
先日ポーランドの大統領専用機がロシアのスモレンスク近郊で墜落しましたが、訪露の目的はこのカティンの森事件の追悼式典へ出席するためでした。
ポーランドは1939年9月1日西からドイツに、同17日東からソ連に侵略され、約1万5000人のポーランド人将校が捕虜としてソ連へ連行されたまま行方不明になります。
そして1943年6月、ドイツ占領下のカティンで彼ら数千人の遺体が発見され、事件が明らかになりました(カティンは1941年秋~1943年9月はドイツ領)。
ドイツによる調査により事件が1940年春(この時カティンはソ連領)に起きたことは周知の事実でしたが、ソ連は1941年であると、つまりドイツによる犯行であると主張し続けました。
そして戦後ソ連の衛星国となったポーランドでは、この事件に触れることは最大のタブーとされ、遺族は事件の真実を語ることさえ許されず、ひたすら沈黙を強いられたのです。
ソ連が自国の犯行と認めたのは、東欧民主化後の1990年。実に事件から50年が過ぎていました。
この映画で特に印象的なのは、やはりR15のラスト10分。
行き先も告げられず囚人用の車に詰め込まれ、彼らは森へと運ばれる。
それぞれに人生があり、夢があり、待つ人がいる命が、虫けらのように機械的に処理されてゆく。
朝靄に霞む深緑の中、朝陽のあたる遺体にブルドーザーが無感情に土を被せる。
そして漆黒の画面に流れるポーランド・レクイエムと、続く無音のエンドロール。
この無音のなんという重さ。
それは死者達への黙祷であり、そして沈黙を強いられ続けたポーランド国民の心の怒りでもあるのだと思います。
非常に上映館数の少ない映画ですが、ぜひぜひ映画館でご覧いただきたい作品です。
※遺体が埋められた場所
カティン:4410名 ピャチハトキ:3739名 メドノエ:6315名
※関連動画
「アンジェイ・ワイダ 祖国ポーランドを撮り続けた男」
最後に、パンフレットより。
友人に誘われて、観に行ってきました。
第二次世界大戦中、ポーランド人将校約1万5000人がソ連により虐殺された事件を描いた作品です。
先日ポーランドの大統領専用機がロシアのスモレンスク近郊で墜落しましたが、訪露の目的はこのカティンの森事件の追悼式典へ出席するためでした。
ポーランドは1939年9月1日西からドイツに、同17日東からソ連に侵略され、約1万5000人のポーランド人将校が捕虜としてソ連へ連行されたまま行方不明になります。
そして1943年6月、ドイツ占領下のカティンで彼ら数千人の遺体が発見され、事件が明らかになりました(カティンは1941年秋~1943年9月はドイツ領)。
ドイツによる調査により事件が1940年春(この時カティンはソ連領)に起きたことは周知の事実でしたが、ソ連は1941年であると、つまりドイツによる犯行であると主張し続けました。
そして戦後ソ連の衛星国となったポーランドでは、この事件に触れることは最大のタブーとされ、遺族は事件の真実を語ることさえ許されず、ひたすら沈黙を強いられたのです。
ソ連が自国の犯行と認めたのは、東欧民主化後の1990年。実に事件から50年が過ぎていました。
この映画で特に印象的なのは、やはりR15のラスト10分。
行き先も告げられず囚人用の車に詰め込まれ、彼らは森へと運ばれる。
それぞれに人生があり、夢があり、待つ人がいる命が、虫けらのように機械的に処理されてゆく。
朝靄に霞む深緑の中、朝陽のあたる遺体にブルドーザーが無感情に土を被せる。
そして漆黒の画面に流れるポーランド・レクイエムと、続く無音のエンドロール。
この無音のなんという重さ。
それは死者達への黙祷であり、そして沈黙を強いられ続けたポーランド国民の心の怒りでもあるのだと思います。
非常に上映館数の少ない映画ですが、ぜひぜひ映画館でご覧いただきたい作品です。
※遺体が埋められた場所
カティン:4410名 ピャチハトキ:3739名 メドノエ:6315名
※関連動画
「アンジェイ・ワイダ 祖国ポーランドを撮り続けた男」(Veoh)
最後に、パンフレットより。
ワイダ監督の父親も、この事件の犠牲者でした。
若い世代が、祖国の過去から、意識的に、また努めて距離を置こうとしているのを、わたしは知っている。現今の諸問題にかかずらうあまり、彼らは、過去の人名と年号という、望もうと望むまいと我々を一個の民族として形成するもの----政治的なきっかけで、事あるごとに表面化する、民族としての不安や恐れを伴いながらであるが----を忘れる。
さほど遠からぬ以前、あるテレビ番組で、高校の男子生徒が、9月17日と聞いて何を思うかと問われ、教会関係の何かの祭日だろうと答えていた。
もしかしたら、わたしたちの映画『カティンの森』が世に出ることで、今後カティンについて質問された若者が、正確に回答できるようになるかもしれないではないか。
「確かカティンとは、スモレンスクの程近くにある場所の名前です」というだけでなく......。
(監督アンジェイ・ワイダ)
若い世代が、祖国の過去から、意識的に、また努めて距離を置こうとしているのを、わたしは知っている。現今の諸問題にかかずらうあまり、彼らは、過去の人名と年号という、望もうと望むまいと我々を一個の民族として形成するもの----政治的なきっかけで、事あるごとに表面化する、民族としての不安や恐れを伴いながらであるが----を忘れる。
さほど遠からぬ以前、あるテレビ番組で、高校の男子生徒が、9月17日と聞いて何を思うかと問われ、教会関係の何かの祭日だろうと答えていた。
もしかしたら、わたしたちの映画『カティンの森』が世に出ることで、今後カティンについて質問された若者が、正確に回答できるようになるかもしれないではないか。
「確かカティンとは、スモレンスクの程近くにある場所の名前です」というだけでなく......。
(監督アンジェイ・ワイダ)
天にまします我らの父よ
天にとどまりたまえ
我らは地上に残ります
この世はときどき美しい
~ジャック・プリヴェール「われらの父よ」
長州ファイブの松田君がなんかよかったので、TSUTAYAで新作のこれを借りてみました。
しかし。
・・・・・・この映画がお好きな方、ごめんなさい。
私はダメでした、この映画・・・。
良かったのはラストにテロップで出る上記の言葉くらい(つまり、良いのは脚本じゃなくジャック・プレヴェール)。
たとえば。
1話目の主人公(38歳ヌードデッサンモデル)がこういう言葉を言うのですよ。
「人からもらった鉢植えはすぐに枯らしてしまうのにこんな雑草が愛しく感じてしまうなんてなんだか寂しい女みたいだけど、雑草にもちゃんと名前があるのを知ってから、私は私自身ではなくて、私の体を構成する細胞の一つ一つ、一匹一匹が命の仲間をみつけたような慎み深い気持ちを抱くようになった。といっても私は別に宗教にかぶれてるわけでも、引きこもった暗い女でもない」
まず、「名前があるのを知ってから」という感覚が私には理解できない。よくある「こんな小さな花にも名前があるのね」という感じのことを言いたいのでしょうが、細胞レベルで共感を感じるようなときに名前にどんな価値が?
私は子供の頃から木や草に細胞レベルの共感を感じていましたが、それに名前がついているかどうかなど頭によぎったこともありません。名前なんて人間が勝手につけたものにすぎないもの。
そしてそういう雑草を命の仲間と感じる感覚を「宗教」とか「引きこもった暗い女」に結びつける発想も、人間が小さいなぁと思いました。
また、4話目の松田君演じる男の子は天文台に勤めてるんだけど、そこの同僚がこんな台詞を言います。
「生命の全くない宇宙なんてさ、想像したことある?宇宙を認識する者がだーれもいない宇宙なんて、そんなナンセンスないよな」
あまりの発想の小ささに、何がナンセンスなのか一瞬わかりませんでした。
「認識する者のいない宇宙」がどうしてナンセンス?
人間がいようがいまいが宇宙はそこにある。
宇宙は人間のために存在しているわけじゃないのだから、そんなのあたりまえのこと。私はそこに安心感さえ感じる。
この監督の、「認識する者」の存在や「名前がついてるもの」であることを前提にしてしか世界を見ない感覚は、なんて狭いんだろう。
私達は所詮人間以外の何者でもない。そしてみんな一人一人だ。
他人の想いも、宇宙も草木も、「私」を通してしか感じることはできない。
だから孤独だ。
それでも私は「ときどき」、人と触れ合うとき、草木の匂いを感じるとき、星空を眺めるとき、自分と違う時間の流れとふと交差したとき、世界は美しい、と感じる。
その私の感覚は、この監督が感じているらしいそれとは、どうやら全く違う。
まぁアマゾンレヴューは皆さん高評価のようなので、単に私には合わなかったというだけかもしれないけれど。
「不思議な話ではありますが、わたくし、来た当時は全てを藩のためと、我が藩のためだけを思うてまいりました。しかし時がたつにつれ、日本ちゅう国家を思うようになりました。国家の近代化を思うようになりました」
「そんとは産業やら軍事やら科学技術の発展ちゅうことごわすか」
「それだけじゃござりません」
「ほんなら?」
「そこに生きる人間自身の文明化ちゅうことであります。文明化されて初めて祖国日本の近代化に役立つ人間になるんじゃと思います」
・・・・・・
我が師吉田松陰先生は言われた。
心というものは活きておる。
活きておるものには必ず機がある。
機は物事に触れるにつれて発し、感動する場面に遭遇して動く。
この発動の機を与えてくれるのは旅である。
・・・・・・
「確かにこの国は文明国かもしれない。でもここには二つの国民がいる。持つ者と持たざる者。そしてその二つは決して交わることはない。あなたは日本には工業がないって言った。でも人を育てればその人が工業をおこす。
ヨーゾー。その人はきっとあなただと思う」
(『長州ファイブ』)
想像以上によくできた、清々しい映画だった。
長州ファイブの面々がそれぞれ個性的で、それでも山尾庸三を軸にストーリーが進むため、混乱せずに観ることができる。
この松田龍平演ずる山尾のキャラクターはとても魅力的(松田君はどんどん演技が上手になりますね)。
西洋文明を全面肯定するのではなく、その光と影を一歩ひいた視点から冷静に描いている点もいい。
ところどころに心に残る台詞も散りばめられていて、観終わった後に元気をもらえるような映画である。
音楽も映像も大変よかったし、ものすごく星5つつけたいところなのだけど、ひとつだけ気になった点も。
それは、幕末の複雑な政情に関する説明があまりにも少なかったこと。
言うまでもなく、当時幕府の開国政策にどこよりも強く反対し攘夷を主張していたのは、この長州藩である。
そして「日本の未来のために刀を捨てたサムライ」は、薩長だけでなく幕府にもいた。たとえば戊辰戦争で薩長と最後まで戦うことになる榎本武揚などは、長州ファイブと全く同時期に派遣留学生としてオランダへ行き、世界的視野を身につけ、最先端の造船技術、国際法そして封建制の問題点などを同じように学んでいるのである。
しかしその辺りの歴史を知らない人がこの映画を観ると「(攘夷とか討幕とかよくわからなかったけど)文明に無頓着な古い考えの幕府と、それを倒し西洋技術により日本を文明化へ導いた薩長」という誤った図式が頭に残ってしまうような気がする。
「藩意識からの脱却」を描いているとはいえストーリー的に政情は無視できない以上、そういう背景をもうすこしきちんと描いていれば、より深みのある映画になったように思う。
もっとも、気になったのはその一点のみで、素晴らしい映画であることにかわりはない。
今私達が当たり前のように享受している海外渡航の自由。それはほんの150年前には命がけの行為だった。
彼らのことを思うと、誰もが自由に海外へ旅行し、留学することのできる私達はいかに恵まれているのかということがわかる。
この映画を観た後に海外へ行くと、これまでよりはるかに充実したものを得ることができるだろう。
長州藩英国密航留学生については、こちらもご覧ください^^