最終日(20日)に行ってきました、中勘助生誕130年没後50年の企画展。
海の日に文学館に行くワタクシ・・・
今まであまり気にしていなかったのですけど、この文学館には「特別展」と「企画展」の2種類があるそうで、企画展では図録は販売しないのだそうです 展示スペースも第二展示室のみで特別展の半分でしたが、文学展はまともに見るとほんっとーーーーに体力を使うので、今回くらいの展示量が私にはちょうどいい(それでも3時間いた。周りの顔ぶれも同じであった)。しかし泉鏡花、太宰治、谷崎潤一郎は特別展だったのに、中勘助は企画展ですか。やっぱり知名度の違いだろうか。。
以下、図録代わりの覚書。ほんの一部ですが。
今回も期待どおりの大変満足のいく展示でした。観覧料たった400円なのに素晴らしい充実度~。
・銀の匙
子供の口に入るようにと探してきたものだから当然ですが、想像以上に小さくて、可愛らしかった
・小倉百人一首の本(背表紙に兄金一と勘助の墨書あり)
・十六むさしの盤と札
・夏目漱石の書簡(明治44円4月29日、大正2年2月26日、同3月4日、同3月16日、大正3年7月13日、同10月27日、大正4年3月18日)
特に銀の匙後篇を「私は大変好きです」と言ってる手紙の現物を見られたのはよかった。
・末子に贈った『提婆達多』の初版本(中表紙に「末子様 勘助」と署名あり)
勘助はいつも著作の初版本を一番最初に「初穂」と言って末子にあげていました。
・『しづかな流』の装幀が思い通りに仕上がっていることを感謝する、岩波茂雄宛書簡。大正7年6月。
一見シンプルな装幀ですが、結構こだわりがあったのですね。他にも装幀や目次について細かく指示してる手紙がいくつか展示されていました。
・『銀の匙』の背は丸背ではなく角背で、と依頼する岩波宛書簡。大正15年。
本の絵が描いてあって、背部分を矢印で指して「←コノトコロ」とあるのが楽しい。全集でもこれはちゃんと絵を載せてくれてるのですよ。
・兄金一の釣り道具(おもり、浮子、土瓶など)
これは見られて嬉しかった。色も形も『沼のほとり』や『遺品』に書かれてあるとおり。土瓶は末子の編んだ茶色の網でちゃんと包まれていて、想像していたより遥かに小さなサイズでした(直径8cmくらい)。浮子は丁寧に削ったと勘助自身も書いているけれど、素人離れした出来。朱と黒の漆塗りも美しかった。
・「尾崎君とは話したことはありませんが顔や声はよくおぼえてをります」という荻原井泉水宛書簡。昭和15年5月。
尾崎放哉って中勘助と一高&東大の同期だったのですね(学部は別)。漱石つながりでもあるのかな。放哉サンは、私が「もう人間の煩わしさから逃れて独りになりたいっ(>_<)」となったときに必ず思いとどまらせてくれる有難~い御方でございます。
・森鴎外の次女小堀杏奴宛の書簡
2006年に発見された小堀杏奴宛の159通の手紙の一部(なので全集には載っておらず、『鴎外の遺産3』に収録されています)。末子と勘助より。誤解を恐れずにいえば、末子と勘助の文章はどちらも、仲のいい夫婦のそれにしか読めません(じゃれあっている)。金一が妬ましく感じたとしても無理はないというか、それで横暴に振る舞うから更にこの二人の結びつきは強いものになってしまうという悪循環だったのかなぁ・・・。ところで手紙の中で末子は杏奴の息子鴎一郎のことを「それ以上可愛くなったら、食べてしまいますよ」と書いております。だから勘助だけではないよー、とロリコン疑惑に少しだけ異議を唱えてみる。
・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の著作の蔵書
漱石の本は好まなかったけどハーンの本は好きだったのね。
・テライケメンな金一兄さんの写真
お兄さんのお顔、初めてちゃんと拝見しました。勘助も綺麗な顔をしていますけど、若い頃の兄さん、イケメンすぎ。
岩波「図書」で菊野美恵子さんが書かれているところによりますと、彼らの親戚曰く「(倒れる前の)金一さんのおきれいだったこと、素敵だったことは勘助さんなんか問題にならない」とのこと。
・漱石がしかめっ面で、勘助はサワヤカ君で写っている一高卒業式の集合写真
こういう集合写真で見ると、本当に漱石は小柄な人だったのねぇ・・・。
・塩田章の手帳
昭和14年の出会いから昭和40年に勘助が倒れる前日まで、塩田はその談話を手帳に書き留めていました。とっても小さな手帳に小さな丁寧な字で(最後の手帳は大きめでしたが)。「キリスト教にも仏教にも空の思想があるのは面白い」というものや、漱石の話題に花を咲かせ「生前あまりお話しできなかったのに、先生が亡くなってからはなつかしく思いだされます」(昭和26年8月)といったもの、そして倒れる12時間前に勘助と話した内容についても。
・小堀四郎画 中末子像
静岡市蔵で、今回初公開とのこと。これも見られて嬉しかったですねぇ。これについて書かれてあるのは『蜜蜂』だったか。勘助はこの絵を生涯大切に手元に置いていたそうです。
※追記:小堀四郎宛の書簡によると、実際に完成し手渡されたのは昭和36年のようです。
・末子の画帳(昭和五年十二月 末子、の日付と署名あり)
『蜜蜂』口絵の原画といわれる木賊(トクサ)の絵が描かれています。
・末子について詠んだ「雨も悲し風も悲し」と「肩すそさせのこほろぎは」の詩稿(浄書)
・静岡時代の日記帳数冊
15×20cmくらいのノートに小さな字でびっしり書かれてありました。
この他にも多数の書簡や草稿などが展示されてありました。
文学館
梅雨明けの猛暑でガラガラな港のみえる丘公園
三連休の最終日なのにこの空きよう^^;
つきあたりは大佛次郎記念館。
お約束のベイブリッジと麒麟のような大黒ふ頭のクレーン
アメリカ山公園の花もカラカラ
アメリカ山公園のアメリカノウゼンカズラ
こんな色のノウゼンカズラもあるんですねー。
暑いし空腹だしで、元町の手近な店でビーフシチューランチ。1120円也
最終日の24日にようやく行くことができました。
この文学館の特別展は毎回中身が濃くて、今回も満足度200%でございました。
しかし文学展(というのか?)は見るのに時間がかかるので疲れますー。。
草稿の訂正箇所などはもとより、手紙もただの手紙じゃなく作品に密接に結びついた内容だったりするので、それを一つ一つ読んでいるとほんっとーーーーっに時間がかかる
幸い?ワタクシは草書が読めませんので、早々に解読を諦めた書簡もたくさんありましたケド。
会場入口で『痴人の愛』のナオミのモデルとなったせい子さん(谷崎の最初の妻千代の妹)が横浜の街を歩きながら谷崎について話している映像が流れていたのは、おおっと思いました。よく撮ってあったなぁ。
※谷崎自身の映像は今回展示されていなかったので残っていないのかと思っていたら、NHKアーカイブスで見ることができました。
谷崎がライカのカメラで松子(三番目の妻)、恵美子(松子の前夫との間の娘)、重子(松子の妹)、信子(松子の妹)の四人を平安神宮の桜と一緒に写した写真もアルバムの一頁として展示されていて、『細雪』の花見の場面そのままでした。
となると貞之助のモデルは谷崎となるわけですけど、位置関係だけですよね。性格は違う、と思う。
他にも、中絶手術後の松子が夜中に泣いたり(幸子は流産ですが@細雪)、恵美子(悦子@細雪)がお箸に何度も熱湯をかけて消毒するくだりが書かれた谷崎の書簡などもありました。
当時の新聞も色々展示されていて、震災後に神戸に引っ越しただけで記事になったり、大谷崎は違いますねぇ。
とはいえ細君譲渡事件のような一作家の私生活にすぎない出来事などは、今だったら「新聞」には載りませんよね。太宰の心中事件レベルならともかく。昔の新聞って今よりも週刊誌的というか、ユルい感じだったのかしら。
細君譲渡事件のときの離婚挨拶状。一体世の中の常識ってなんだろ?という気分になりました^^;
「我ら三人、この度合議をもって千代は潤一郎と離別し春夫と結婚することになりました。今後ともよろしく。谷崎潤一郎、千代、佐藤春夫」(一部意訳) この手紙をもらってしまった人はオメデトウと言うべきか、残念だったねと言うべきか、反応に困ったことであろう。
千萬子さん(松子の連れ子清治の嫁)。幾度も「あなたの沓(くつ)で踏まれたい」という手紙を送ってくる義理の父親と笑顔で同じ写真に納まれる強さ、凄いです^^; 大谷崎の親類はそれくらいじゃないと務まらないのですね。。
1931年に発行された『吉野葛』の限定版の装幀が素敵でした。本物の葛の葉を薄紙にすき込んであるのです。欲しい~。
谷崎潤一郎は電子書籍じゃなく絶対に紙で読むべき作家だと私は思います。
余談ですが、源氏物語の現代語訳の中では、私は谷崎源氏が一番好きでございます。
更に余談ですが、片岡秀太郎さんが舞台『春琴』を観に行かれた際のブログにこんなことを書かれていました。
「休憩無しの1時間50分でしたが、演出面ではドラマに乗ってきたところで水を注されたりしました。私は子どもの頃谷崎潤一郎先生には何度もお会いしているのですが、今回舞台に登場した谷崎先生とはキャラクター的にも品格的にも随分かけ離れたものでした。勿論「お芝居」の事であり、私がお目にかかっていたのは晩年の先生でしたが…、品格、男の色気をかねそなえた、とても素敵なお方でした。」
谷崎潤一郎が亡くなったのは1965年で、私が生まれる11年ほど前。漱石と時代が被っているので私などはつい歴史上の人物のように思ってしまうのだけれど、実はさほど昔の作家ではないのですよね。
ちなみにワタクシ、この舞台は観に行っておりません。興味があって公式HPを覗いたところ、こんな紹介文が載っていたからです。「日本では、日本近代文学の中では夏目漱石のほうが文豪として位置づけられ、お札の顔にまでなっている。が、日本以外の国ではほとんど話題にされていない。谷崎のほうが西洋の読者達に受け入れられ、共感されている(Dr. Stephen Dodd)」。・・・だから?西洋の読者に受け入れられる作家がイコール良い作家だとでも言うのか。これって漱石だけじゃなく、谷崎のことも理解していない言葉だと思うが、いかがか。こんな褒められ方をされても谷崎は全く嬉しくないであろう。
前述の秀太郎さんのブログ記事は、次のように続きます。
「それと出演の老優さんが七回忌(しちかいき)を「ななかいき」 と云っていたのは、こう言う作品だけにとても残念でした。最近は「七代目」が「ななだいめ」であったりします。ちなみに「一段落(いちだんらく)」を「ひとだんらく」と言うアナウンサーがいたりすると悲しくなります。言葉は時代によって変化していくのは是非もないことですが、守るべきところは守って欲しいと思います。…、これって「老いの繰りこと」なのでしょうか …。」
日本語の格調の高さに拘りをもった谷崎ですから、その作品を舞台化するのならこういう部分は大事にしていただきたいと私も思うのです。
次回の神奈川近代文学館の企画展は中勘助ですよ~。7月20日まで開催中。
今回の図録。
王朝風の表紙がステキ
《灰色と黒のアレンジメント No.2:トーマス・カーライルの肖像》1872-73年
“音楽が音の詩であるように、絵画は視覚の詩である。
そして、主題は音や色彩のハーモニーとは何のかかわりもないのである”
(ジェームズ・マクニール・ホイッスラー)
日本では27年ぶり、世界でも20年ぶりというホイッスラーの回顧展。
私のテンションが最も上がる”19世紀ロンドン”で活躍した画家です(でもマサチューセッツ生まれのアメリカ人)。
彼が目指したものは、「芸術のための芸術」(唯美主義)。絵画で主題や物語を伝えることを否定し、色や形の調和といった純粋な視覚的効果を追求しました。「シンフォニー」や「アレンジメント」といった音楽用語を用いたタイトルにも、その信念が表れています。
今回の企画展では、昨年秋のオルセー美術館展で展示されていた「灰色と黒のアレンジメント No.1」に続く「灰色と黒のアレンジメント No.2:トーマス・カーライルの肖像」が特に印象的でした。カーライルの内面の孤独と優しさが滲み出ているような、そんな絵。画家自身もお気に入りの絵だったようです。ちょうど実物大くらいの大きさで、閉館間近にもう一度展示の部屋に戻ったら誰も人がいなくて、少し離れたところから見ると、今そこにカーライルが静かに座っているような錯覚を覚えました。以前チェルシーにあるカーライルの家に行ったことがあるので、その空気感を鮮明に思い出せたためかもしれません。この絵は漱石の「カーライル博物館」の扉絵(by橋口五葉)にも参考にされています。
そして「ノクターン:青と金色-オールド・バターシー・ブリッジ」(こちらは以前テートでも見ています)を始めとするノクターンシリーズもやはり素晴らしかった。彼は浮世絵など日本美術からの影響を強く受けているためか、その絵は見ていてどこかほっとします。
またホイッスラーはチェルシーに住んでいたので、私の大好きなバタシー~チェルシーにかけての作品が多いのも嬉しかった。
彼はチェルシーで何度か居を変えていますが、親しく交際していたロセッティの家と同じCheyne Walkにある家が、一年ほど前にレントに出されたというニュースがありました。その家賃、実に週2,500ポンド(約46万円) この家には今回来日した「白のシンフォニー No.2:ホワイト・ガール」に描かれている暖炉も、そのまま残っているんですよ。
《青と銀色のノクターン》1872-78年
《白のシンフォニー No.3》1865-67年
《ライム・リジスの小さなバラ》1895年
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ホイッスラーがチェルシーで最初に住んだ家
101 Cheyne Walk, London
《Symphony in White no. 2》とその暖炉
月曜日で終了するオルセー美術館展に、滑り込みセーフで行ってきましたー。
この一週間は毎日夜20時まで開館という素敵サービスをしてくださっておりまして、とはいえ最後の週末だから混んでるかなと思いきや、空いてた!もちろん有名どころの絵にはそれなりに人はおりましたが(といっても数人)、それでも東京でオルセーでこの空き具合は素晴らしい!
17時から2時間半たっぷり堪能することができました。
ミレーの『晩鐘』は昔オルセーで見たときはもう少し小ぶりに感じたのだけど、十数年ぶりに見たら記憶より大きかった。
モネの『草上の昼食』も、オルセーで見たかどうかは記憶にないのだけれど(見た記憶はあるけどマネの方だった気がする)、想像より遥かにデカかったです。
そしていつも感じるごとく、やっぱり海外で見るより日本で見た方が一つ一つの絵が立派に見えるなぁ、と。空いていれば、ですが。
国立新美術館、久しぶりに行きましたが、良いですね!B1Fのカフェもそこそこ手頃なお値段でよい。
以下、今回のお気に入り♪
【2章 レアリスムの諸相】
ギュスターヴ・カイユボット『床に鉋をかける人々』 1875年
【4章 裸体】
ウィリアム・ブグロー『地獄のダンテとウェルギリウス』 1850年
ウェルギリウス(一番左の草冠の御方)ってイケメンに描かれることが多い気がするのは気のせい?
そして題名の二人より明らかに目立ってる裸体二人^^;
【5章 印象派の風景 田園にて/水辺にて】
クロード・モネ『かささぎ』 1868-69年
モネが描く雪の絵、すごく好きなんです。
この絵も写真だとわかりにくいけれど、雪の色にピンクやブルーやイエローが混ざっていて、そこに陽が当たった様子の美しいこと。。。
雪の匂いや澄んだ冷たい空気が伝わってくるよう。
カミーユ・ピサロ『白い霜』 1873年
アルフレッド・シスレー『ルーヴシエンヌの雪』 1878年
あれ?雪景色ばかりになってしまった。。
好きなんです、雪の絵。
【7章 肖像】
ジェームズ・アボット・マクニ―ル・ホイッスラー『灰色と黒のアレンジメント第1番 画家の母の肖像』 1874年
【8章 近代生活】
エドガー・ドガ『バレエの舞台稽古』 1874年
チュチュの透け感がきれー。
アンリ・ファンタン=ラトゥール『テーブルの片隅』 1872年
一番左がヴェルレーヌ、その隣で頬杖をついているのがランボー。
彼らの生前にリアルタイムで描かれた絵ですよ!
1872年というと、ランボーは18歳ですね。
【9章 円熟期のマネ】
エドゥアール・マネ『アスパラガス』 1880年
マネがある人にアスパラガスの束の絵を800フランで売ったところ、その人はその絵をえらく気に入り1000フランを支払ってきたそうです。そこでマネは「先日お送りした束から一本抜け落ちていました」と言って、この絵を贈ったのですって。
なんて洒落たエピソードでしょう!
今回の展示会はマネで始まりマネで終わりましたが、会場を出るときにはすっかりこの画家のファンになってしまいました。
エドゥアール・マネ『ガラスの花瓶の花』 1882年
1880年頃から急激に体調を崩したマネは、パリから郊外に移り住みました。生粋のパリジャンだった彼にとってそれはとても辛いことで、そんな彼のささやかな楽しみはこのような静物画の小品を描いて人に贈ることだったそうです。
「彼のパレットから生まれた花はしおれることがない」。マネの絵について、画家ジャック=エミール・ブランジュが言った言葉です。
エドゥアール・マネ『ロシュフォールの逃亡』 1881年頃
今回一番最後に展示されていた絵です。
ナポレオン3世によりニューカレドニアに追放されたロシュフォールが島を脱出したのは1874年。
そんな同時代に起きた事件を、マネはまるで伝説の出来事のように壮大に描きました。
月光に照らされた荒波の力強さと美しさ。
マネは若き日に見習い船員として航海に出たことがあり、その経験がこの絵に活かされたようです。
1883年、彼は壊疽した左足を切断し、同年4月30日に51歳で亡くなりました。
パリまで行かずにこんなに多くの素晴らしい絵が楽しめるなんて、1600円は決して安くはなかったけど行ってよかった。
しかしこうしてブログで自分の好きな絵だけを並べまくれる至福といったら。。。
あー自分の大好きな作品ばかりを思い切り飾れる部屋とお金が欲しい!
そしたらあの高い複製画を買うのに!
ところで今回、意外と空いていた会場で沢山の鮮やかな名画に囲まれながら、「この絵を描いた人達も、ここに描かれている人達も、今はみんないないんだよなぁ」と、ふとそんなことを思いました。今まで美術展でそういう風に感じたことは、あまりなかったのですけど。
会場の説明文で、「近代は彼らにとっての現代であった」という文章があって、本当にそのとおりなんですよね。
ふっと、Monty Pythonの"Decomposing Composers"を思い出しました。
これまで以上に画家を身近に、より生々しく、だから一層愛おしく感じられたからかもしれません。
印象派の見方が変わったなぁ。
Decomposing Composers (Monty Python)
Beethoven's gone, but his music lives on
And Mozart don't go shopping no more
You'll never meet Liszt or Brahms again
And Elgar doesn't answer the door
Schubert and Chopin used to chuckle and laugh
Whilst composing a long symphony
But one hundred and fifty years later
There's very little of them left to see
They're decomposing composers
There's nothing much anyone can do
You can still hear Beethoven
But Beethoven cannot hear you
Handel and Hayden and Rachmaninov
Enjoyed a nice drink with their meal
But nowadays, no one will serve them
And their gravy is left to congeal
Verdi and Wagner delighted the crowds
With their highly original sound
The pianos they played are still working
But they're both six feet underground
They're decomposing composers
There's less of them every year
You can say what you like to Debussy
But there's not much of him left to hear
Claude Achille Debussy, died, 1918
Christophe Willebald Gluck, died, 1787
Carl Maria von Weber
Not at all well, 1825, died, 1826
Giacomo Meyerbeer
Still alive, 1863, not still alive, 1864
Modeste Mussorgsky,1880
Going to parties, no fun anymore, 1881
Johan Nepomuk Hummel
Chatting away nineteen to the dozen
With his mates down the pub
Every evening, 1836, 1837, nothing
人間が生きること、そして、死ぬことの意味を、わたしは、まさにシベリアで知ったのです。死ばかりでなく、命の賛歌も、そこで体験したのです。
(2004年作者)
宮崎が描こうとしたのは、戦争や抑留そのものではなく、その生死を越える極限の中で知った、人間を人間たらしめている根源的な力、打ち負かされることなく生きるためにさまざまなものを創り出す力、そして、大いなる自然の一部としての人間という何よりも強い存在そのものです。
(図録より)
先月のことになりますが、最終日に行ってきました。
宮崎進さんは現在92歳、鎌倉にアトリエがあります。
以前から知っていた作品も写真から想像していたより遥かに大きな作品であったことにまず驚きました。舞鶴の引揚記念館で彫刻を見たことはありますが、絵を見るのは今回が初めてです。
キャンバスに貼られた麻布の立体感とその力。絵画はどれもそうではありますが、特に宮崎さんの作品は“実物を見て初めて感じられるもの”が非常に大きいように感じました。
作品から発せられる強烈な生命力に、ただただ圧倒されるばかりでした。
抽象のようで抽象でない。
それを肌で知っている人にしか表現できないリアルな説得力。シベリアの風。
北の果ての収容所での終わりの知れない捕虜生活がどのようなものであるか、皆さんは想像できるでしょうか。
終戦と同時にソ連の“労働力”として満州から強制連行された60万人の若者たち。
彼らは-40度の極寒の地で強制労働を強いられ、その10分の1の方々が亡くなったと言われています。
戦中ではありません、戦後の話です。
昭和20年8月15日は終戦の日と名付けられていますが、それは決して戦争の「終わり」ではありませんでした。
今回の会場は、展示作品の配置が素晴らしかったです。
二つの『花咲く大地』の間、その奥に見えるのは、隣室に展示された『泥土』。その手前には、彫刻『横たわる』。そして、それらの絵と向かい合うように遥か部屋の反対側の壁に展示された、最新の『花咲く大地』。
この配置で見ると、『花咲く大地』の黒色は、死臭漂う『泥土』に通じるものなのだということがわかります。その中から強い生命力で芽吹き、咲く、血の色にも見える真っ赤な花。
それらに囲まれて『横たわる』人物は、一体何を見、何を思っているのでしょう。
彼は中国やシベリアの土となった兵士なのか。それとも、絶望の淵にありながらもシベリアの短い春に歓喜し、咆哮を上げ、大地に横たわり、遠く日本へと続く空を見上げている抑留者でしょうか。
極限状態に置かれた若い肉体と精神は、死の匂いの充満する凍土の中に虚無だけでは決してない、圧倒的な大自然と、そこに生きる生命の力もまた、感じとりました。
同じく抑留者であった私の祖父は帰国後、マラリアに苦しみながら、繰り返し、地平線にどこまでも続く黄金色の向日葵の絵を描いていました。向日葵はロシアの国花です。
そして『すべてが沁みる大地』
会場の最後に泥土とともに展示されていたのが、1992 年に描かれた四つの小品。そして会場の最初の部屋、入口近くに展示されていたのが、1996年に描かれた同名の大作でした。
汗も血も涙も、再び母国の血を踏むことが叶わなかった者達の肉体も、すべてが沁みる、白い大地。
会場は空いていて、皆さん2時間近くゆっくりと絵と向き合われていました。
戦争について、人間について、静かに感じることができた空間でした。
現代、人間も世界も大きく変わり、多くの犠牲を払ったシベリアの現実も、風化して忘却の波に洗われ、このままでは何もなかったのと同じになってしまうのではないか。体験した者たちは、ただ沈黙して消えていくのだろうか、身をもって体験した者が沈黙しているのは、決して忘れたということではない。不条理の中の犠牲者たちの鎮魂には、生き残った者にきざす無常の思いを、かたちに置き換える拠りどころがなければならない。
(『鳥のように―シベリア 記憶の大地』より作者。2007年)
※日本経済新聞 『宮崎進展、一原有徳展 見えないものが浮かび上がる』
※劇団四季 『異国の丘』(2013年7月)
※日曜美術館 『宮崎進 ~シベリア・鎮魂のカンヴァス ~』
『泥土』部分(2004年)
『花咲く大地』(2004年)
太宰が試みてきたのは客観的に「描くこと」よりも、常に具体的に聞き手を想定して「語ること」なのであった。たとえば初期の「道化の華」では、小説の作者である「僕」が作中に顔を出し、読者である「君」にどのような小説を書きたいのかを直接伝えている。中期のパロディや翻案小説も、原典をどのように改変していくかという作者の舞台裏が、そのまま読者に伝わるような形が取られていた。こうしたサービス精神―心づくし―にこそ、太宰の文学の最大の魅力があるのではないだろうか。
(安藤 宏 @図録より)
大変気持ちのいい企画展でした。
太宰をいたずらに祀り上げるわけでもなく、その退廃性を必要以上に現代と結びつけることもなく、ただ彼の作品の温かな面を温かな視点で紹介した、その作品を素直に愛する人たちによる、知的な企画展。
会場には10代の若者から80代のお爺さんまで、いっぱいで。
なんか、太宰に見せてあげたいなあ、と思った。
芥川賞など取れなくても、亡くなって何十年もたっても、あなたの作品はこんなに多くの人達に愛されているよ、と。
開館30周年記念とのことでしたが、これほど充実した資料を見られるとは思っておらず、驚きました。2時間以上見ても、全然足りなかった。
愛用のマント(これは昔斜陽館で見ました)、高校時代のノート(落書きだらけ、笑)、七里ヶ浜心中の遺書、美知子夫人との結婚誓約書、織田作の通夜の芳名録(津島修治ではなく太宰治の名でした。他に林芙美子の名なども)、太宰が描いた絵(ゴッホ的)、スナップ写真、沢山の草稿や原稿、そして数えきれない書簡など、各地の文学館や個人収蔵の資料約350点。
図録の出品者・協力者の欄には、井伏節代さん(井伏鱒二のご夫人。ご健在なんですね!)、太田治子さん、織田禎子さん(織田作之助の養女の方)、坂口綱雄さん(坂口安吾のご長男)などのお名前があり、こういった関係者やご親族の方々がこれらの物を大切に保管されていたからこそ実現した今回の企画展なのだなぁと思いました。
なかでも興味深かったのが、作品の草稿。書きなぐりのメモのようなものも含め、何度も何度も書き直されていて、感情のままに書かれたように見える小説も、どれほど考え抜いて仕上げられていたかということがわかります。
『人間失格』で主人公が道化を演じる理由が、「弱くてゆがめられた愛情」→「思ひやり」→「必死の奉仕」(最終版)と変化していたり、ラストの「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」の部分も、「神様」→「天使」→「神様」と戻っていたり。
これまでこのラストにそれほど心動かされることはなかったのだけれど、太宰展で太宰の物に囲まれて、彼の自筆でこのラストを読むと、なんだか涙が出そうになりました。これは彼自身が言って欲しかった言葉なのだろうな、と。こういう弱くて不器用で優しい人たちがありのままで幸せに生きられる世界を、彼は望んでいたのだろうな、と。そんな世界はおそらく、この人間の世界にはないけれど。これからも、あることはないだろうけれど。そしてそのことも、太宰は理解していたんですね。
文化と書いて、それに、文化(ハニカミ)といふルビを振る事、大賛成。私は優といふ字を考へます。これは優(すぐ)れるといふ字で、優良可なんていふし、優勝なんていふけど、でも、もう一つ読み方があるでせう?優(やさ)しいとも読みます。さうして、この字をよく見ると、人偏に、憂ふると書いてゐます。人を憂へる、ひとの淋しさ侘しさ、つらさに敏感なこと、これが優しさであり、また人間として一番優れてゐる事ぢやないかしら、さうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。私は含羞で、われとわが身を食つてゐます。酒でも飲まなけや、ものも言へません。そんなところに「文化」の本質があると私は思ひます。「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて、敗けるものです。それでよいと思ひます。私は自身を「滅亡の民」だと思つてゐます。まけてほろびて、その呟きが、私たちの文学ぢやないのかしらん。
(昭和21年4月30日 河盛好蔵宛て書簡) ※今回この手紙の展示はありません
彼が自分の作品を自信をもって見ていたのだなという点では、金木疎開中に後輩に頼まれて書いたという書に、思わず笑みがこぼれました。
「死なうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。おとしだまとしてである。着物の布地は麻であった。これは夏に着る着物であらう。夏まで生きてゐようと思った。 太宰治」
『葉』からの一節です。でもいくら頼まれたとはいえ、こんな書って・・・^^;。本当にサービス精神旺盛な人だったのだなぁ。
今回の展示でもうひとつ印象に残ったのは、井伏鱒二は本当に根気よく太宰に付き合っていたのだなぁということ。
お酒を飲んで「死にたい」と友人に零している太宰に宛てた、節酒を促す手紙。息子を心配するお父さんのような文章だった。太宰の性格もよく理解していて。
こういう人が周りにいても、やっぱり駄目だったのかなぁ。生きていくことは、できなかったのかなぁ。美知子さんだって、いい奥さんじゃないの。。。
太宰は近松門左衛門などの浄瑠璃も好きだったそうで、娘さんの「里子」という名も、義経千本桜の「すし屋」からつけたものとのこと。「お月さんも寝やしゃんした~」のあのお里ちゃんですね。でもなぜヒロインの静でなく、このセレクト、笑?
思春期のころは、この作家は私のことを知っていると本気で思った。三十代で読み返したときは、「近い」と読み手に錯覚させることがこの作家のテクニックなのだと気づいた。太宰治よりずっと年上になってしまった今、そのテクニックがどうすれば得られるのか、深い謎である。
太宰疎開の家で、ひとり旅の青年とともに説明を受けた。年齢を訊くと、二十四歳の大学院生だという。太宰治を巡る旅をしているのだそうだ。それを聞いて私は確信した。太宰治の言葉は古びない。この先ずっと、読むものの近くにすっと入ってくる。書かれた登場人物を、これは私だ、と思わせ、こんな弱いやつは嫌いだ、と思わせ、どうしようもなく私たちの心のなかに住み着く。弱くて卑怯で、自意識過剰で甘ったれで飲んだくれの、こんな私でも、ともかく生きてさえいればいいかと、思わせ続けてくれる。
(角田光代 @図録より)
元町中華街駅の上にあるアメリカ山公園。薔薇が満開でした。
神奈川近代文学館は、港の見える丘公園の中にあります。
文学館正面
文学館カフェの和風サンドイッチ。
オリーブとチーズと韓国海苔。意外だけどイケる組合せ。自分で作ってみよう~。
おなじく港の見える丘公園内にある、旧英国総領事公邸。
図録。展示資料の全てが載っていないのは残念だけど、これは買い!デザインも素敵^^
それは懐古か、反逆か?
このコピーかっこいい
在英中はいつでも見ることができていた作品達にまたこうして日本で再会できるとは、なんて嬉しいことでしょう。
昨年のルネサンス祭りといい、フランシスベーコン展といい、ターナー展といい、素晴らしい企画展が目白押しで本当に幸せです。
ミレイは2008年に日本でも企画展がありましたが、今回はロセッティがいっぱいですよ。
この2008年のミレイ展は私はロンドンで観たのですが、それは人がいっぱいで(常設展はとっても空いているんですけども)・・・。
今回もやはりロンドン、ワシントン、モスクワからの巡回ですが、東京会場は割と空いていて、好きな絵を心ゆくまで見ることができました。
昨年のターナー展のときにも思いましたが、不思議と現地で見るよりも作品が立派に見えます。テートは建物も内装も立地も大変素晴らしく大好きな美術館ではありますが、有名どころの絵が所狭しと展示されているため、東京で見る方が一つ一つの絵が大切に飾られている印象を受けるのかもしれません。
それでもやっぱり画家の本拠地であるロンドンで観るのがベストでしょうけれど。
以下、今回のお気に入りの絵です♪
アーサー・ヒューズ 『4月の恋』 1855-56年
入口近くに展示されていた作品。
女性の青とも紫ともいえない服の色がそれはそれは美しく、見惚れました。
ジョン・ラスキンはこの絵の繊細な心理描写と色彩を絶賛し、当時まだ学生だったウィリアム・モリスは、ロイヤル・アカデミー展の講評を読んで1856年にこの絵を購入しています。
アーサー・ヒューズ 『ロムニーを退けるオーロラ・リー』 1860年
この画家は青系の色がお得意なのか、この作品も地面のブルーがとても綺麗でした。
ジョン・エヴァレット・ミレイ 『オフィーリア』 1851-52年
今回の企画展の目玉のひとつ。
私が最初にこの絵を見たのは、17年前のワシントンのナショナルギャラリーでした。二度目は2008年のロンドンのテートギャラリー。今回は三度目の再会になります。
在英中には何度も見ていた絵ですが、にもかかわらず今回も同じ感想をもちました。「記憶の中より色が鮮やか」。
この絵の色って印刷で再現しにくいのでしょうか。花の鮮やかさを正確に印刷したものをほとんど見ません。
今回の図録は比較的実物に近いように思いますが、それでもまだ暗い。。
昨年の「漱石の美術世界展」を特集していた『芸術新潮』のものが、一番うまく再現されていたように思います。
この絵のモデルは、ロセッティの奥さんのエリザベス・シダル。
ミレイは彼女をバスタブに入れ実際にお湯をはって(!)この絵を描きましたが、描くことに夢中で水温が冷えていることに気付かず、風邪を引かせてしまった逸話は有名です。完璧主義者ミレイのモデルを務めるのも大変ですね
漱石の『草枕』に出てくるオフィーリアもこの絵。
カーライル博物館に行ったときも感じたことだけれど、漱石が100年前にロンドンで見た絵を今私は東京で見ていて。100年後にはもう私はいないけれど、きっとまた誰かがこの絵の前に立って漱石に思いを馳せるのだろうなぁと思うと不思議な気がします。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 『ベアタ・ベアトリクス』 1864-70年頃
こちらも大好きな絵。
モデルは上の『オフィーリア』と同じ、エリザベス・シダルです。
シダルは浮気なロセッティのために心身を憔悴させ、結婚2年目に多量のアヘン剤を服用し32歳の若さで亡くなりました。この絵はロセッティが亡くなったシダルを思い、彼女を『神曲』のベアトリーチェになぞらえ描いたものです。
なんて書くとロセッティがクズのようでミもフタもありませんが(実際そうなんですが)、芸術家の恋愛は一般人の理解の及ばない独特な世界でもありますしね・・・。
ちなみにこの絵、在英中の帰国直前に見に行ったら「今イタリアに貸し出されてるの。来年1月には戻るわよ」と言われ「その頃私はロンドンにいないので・・・」と泣く泣く退散。その後の旅行時にようやく出会えた思い出の?絵です。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 『ダンテが見たラケルとレアの幻影』 1855年
「神曲」の煉獄篇より。
左上にダンテ(アリギエーリ)の姿が見えます。
ジョン・エヴァレット・ミレイ 『両親の家のキリスト』 1849-50年
ディケンズから「聖家族を労働者階級のように描いている」と批判された作品。
習作も並んで展示されていました。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ 『薔薇物語』 1864年
漱石も「カーライル博物館」で書いているロセッティの家は、現在も変わらずロンドンのチェルシーにあります(ご興味のある方はこのブログのメインページもご覧くださいませ^^)。
チェルシーはお散歩するとほんっとーーーーーに楽しいですよ。
オスカーワイルドの家とか、A・A・ミルンの家とか、それはそれは沢山の作家や画家の家が今でもそのまま現存しているのですよ。こういう文化的意識の高さは、日本は英国に遠く遠く遠く及びませぬ。
そして今こちらのサイトで知ったのですが、1848年にミレイやロセッティがラファエル前派兄弟団(the Pre-Raphaelite Brotherhood)を結成した家も、ロンドンに残っているのですね。7 Gower Streetって漱石の最初の下宿のすぐそばじゃないですか。漱石はそのことを知っていたのだろうか。
ミレイが亡くなったのが1896年、漱石がイギリスに留学したのは1900年。彼らは本当に同時代人なのですねぇ。
ああ、19世紀イギリス、私のたまらない憧れです(>_<)
ラファエル前派展は六本木ヒルズ森アーツセンターギャラリーにて、4月6日まで。
東京会場は終わってしまいましたが(名古屋と山口はこれから)、好みだった絵をざっと。
写楽、広重、北斎、清長、晴信から橋口五葉や伊東深水まで名画のオンパレードで、とっても見応えのある企画展でした♪
※写真はネットからの拝借のため、実際の展示とは色合いが異なります。
【江戸の雪】
歌川広重1797-1858 『東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪』
音もなく深々と降り積もる雪。夜の蒲原の街道。
歌川広重 『東海道五拾三次之内 亀山 雪晴』
雪がやみ、晴れた朝。この朝焼けの空の色!
大名行列が登る坂のあり得ない急さ加減は、広重流のデフォルメでしょうか。
歌川広重 『名所江戸百景 浅草金龍山』
The広重な構図。赤と白と雪空の対比も見事です。
鈴木春信1725-1770 『雪中相合傘』
左は男性、右は女性ですよ~。写真ではわかりませんが、黒の着物にも白の着物にも空摺という手法で地模様が入っています。また、降る雪、積もる雪、それぞれに技巧を尽くした表現の素晴らしさ!絶対に実物を見るべき作品の一つです。
それにしても、この二人の男女の美しいこと。。。
【江戸の男女の粋な日常】
鈴木春信 『風流五色墨 長水』
こちらも左が男性、右が女性。女の子二人にしかみえませんが^^;
手紙を取り合って戯れる可愛らしいカップルです。
鳥居清長1752-1815 『風俗東之錦 萩の庭』
清長さんの絵は、まるで絵の中から風が吹いてくるよう。
私もそこに一緒にいるような気分になります。
鳥居清長 『大川端夕涼』
夏の夕暮れの風を感じられる作品。
大川端、黙阿弥の『三人吉三』の舞台ですね。
鳥居清長 『吾妻橋下の涼船』
舟の上でカツオを捌いてますよ
こんな納涼がしてみたい。
鳥居清長 『美南見十二候 六月』
『九月』も見たかったなぁ。
【その他】
歌川国芳1798-1861 『日本駄右エ門猫之古事』
やっぱり妖怪絵は外せない!
葛飾北斎1760-1849 『富嶽三十六景 山下白雨』
有名な『凱風快晴』も素敵だけど、この漫画みたいな雲と稲妻がなんともいい味。
下界の荒天を物ともしない晴々とした頂に、日本一の山の崇高さを感じます。
歌川広重 『月に雁』
EDO万歳!!!
システィーナ礼拝堂の天井画がミケランジェロの手により完成してから、500年。
ということで、国立西洋美術館で開催中のミケランジェロ展に行ってまいりました。
例によって、金曜の夜間開館を利用。混んでいる美術館なら行かぬ方がマシという私にとって、このサービスは本当にありがたいです。
目玉作品の前でさえ、せいぜい3~4人しかいないのですから。ミケランジェロなのに!
ラファエロ展同様、周りを気にせずゆったりと、心ゆくまで好きな作品を堪能することができました。
会場への階段を下りていくと、あら、勘九郎のお写真がお出迎え。私は友人と一緒だったので借りませんでしたが、今回の音声ガイドを担当されているそうです。
ミケランジェロと歌舞伎役者。システィーナ歌舞伎つながり、でしょうか(大塚国際美術館でも現在、『神のごときミケランジェロ展』が開催中です)。
勘九郎は10代の頃に、勘三郎さんにシスティーナ礼拝堂に連れていってもらったそうです。
「一緒に旅行をすると必ず美術館巡りをしていました。礼拝堂も父が希望したので家族で行きました」とのこと。勘三郎さん、素敵な人だ^^
私がイタリアを訪れたのは、今から十ン年前の1999年。
来たるべきミレニアムに向けて、バチカンのサンピエトロ大聖堂も、ミラノの最後の晩餐も、ローマの地下鉄も、どこもかしこもラストスパートの修復ラッシュでございました。今思うと、あれはあれで面白かったですね。最後の晩餐の修復風景など、なかなか見られるものではありませんし。またヴェネチアは仮装カーニバルの真っ最中で、その年の1月に導入されたばかりの通貨ユーロの仮装をした人などを見たのも、いい思い出です。
さて、そのサンピエトロ大聖堂。
はじめて見たときは、それは衝撃でしたよ。
感動というより、ただただ圧倒されたというのが本音です。
そもそもこんな規模の教会など、生まれてから一度も見たことがありませんでしたから。
二千年もの間続いてきた宗教というのは、世界最多の信者数を誇る宗教というのは、ただ「人の心の救い」というような単純なものではないのだな、と。
とりわけカトリックの総本山というのは、やはり一つの巨大な権威でもあるのだな、とそんな風に感じたものです。
もちろんシスティーナ礼拝堂も見学いたしました。
このお部屋も、それは衝撃でした。
だって、上を見ると――
前を見ると――
ご・・・・ごちゃごちゃ・・・・・・・・・・^^;?
当時の私は聖書の知識も美術の知識も皆無でしたので(今も似たようなものですが)、これが正直な感想でございました。
筋肉隆々な裸体のカーニバルです。
ですが、例えば天井画の中央部分をズームインしてみますと――。
このアダムの肉体の美しさ・・・!
この一枚の絵に表現された躍動感!
さらにズームイン。
このたった二つの手が表現しているものの豊かさ!
やはりミケちゃん、只者じゃない!!
この天井画、行かれたことのある方ならご存知のとおり、真剣に見ようとすると首の疲れが半端ないです。
数分見ているだけでそうなのですから、1508年から4年の歳月をかけてこれを描いたミケランジェロはどうであったか。しかもそれは、時間との闘いのフレスコ画。
当然ながら首の骨は曲がり、また滴る絵具が目の中に落ちたことにより、かなりの視力が失われたといわれています。
にもかかわらずその20数年後、1535年から今度は5年の歳月をかけてあの巨大な祭壇画『最後の審判』を完成させているのですから、“天才”の名は伊達じゃございません。
しかしこういう絵を見ていると、キリスト教というのはとても積極的な信仰を人々に要求する、それが根本の宗教なのだな、と改めて感じます。その上に救いがあるのだな、と。そうであれば必ず救われる、とも言えるので、一層強い信仰心が信者のなかに育まれるのだろうな、と。
この天井画や祭壇画の下絵も、今回来日しておりますよ。必見。
ですが当時も今も、私が最も惹かれるミケランジェロは、やっぱり彫刻なのです。
サンピエトロ大聖堂のピエタ像(未出品)。1498年-1500年。
観光客で溢れる大聖堂の中で、どんなに多くの人々に囲まれていようと、この周りの空気だけは常に静かで、誰にも侵すことのできない神聖さが毅然と存在している。
ご存じ、フィレンツェのダビデ像(未出品)。1501年-1504年。
この肉体美!!
さて。
ミケランジェロは彫刻でしょ♪という思いに変わりはありませんが、今回の企画展で感動したのが、初めて見たミケランジェロの素描の数々でした。
ラファエロ展の記事でも書きましたが、私は遥か昔に描かれた素描というものが大好きなのです。
なんといいますか、それをじっと見ていると数百年前の画家の息遣いや温かな体温をすぐ近くで感じるような、そんな気がするのです。画家の存在をとても身近に感じるのです。
しかも今回来日している作品が、それは素晴らしいのですよ。
【レダの頭部習作】1530年頃
チケットを購入したときに一目惚れした一枚。
テンペラ画《レダと白鳥》(紛失)のレダの顔の準備素描だそうです。
このモデルは男性ですが、左下のデッサンでは睫毛を書き足すなどして女性らしさを出す工夫が覗えます。
どこかサンピエトロ大聖堂のピエタを思い出させる絵でもあります。
500年前のこの女性(男性)は、何を思っているのでしょう
これを描いたミケランジェロは、何を思っていたのでしょう。
【クレオパトラ】1535年頃
習作ではなく独立した完成作で、親しい青年貴族のために制作された贈呈用といわれている作品。
やはり、ミケランジェロの彫刻を思い出させる美しさです。
以上2点の素描は、絵葉書とは別にA4サイズのものがミュージアムショップで売られていました。1枚300円。
部屋の壁にかけていますが、朝と夜とで雰囲気が変わり、どちらもとても素敵なのです。
最後に、今回来日している作品の中から、ミケランジェロの彫刻をご紹介しましょう。
【階段の聖母】1490年頃
15歳の頃の作品です。
イエスの赤子らしからぬ(笑…)肉付きに、ミケランジェロの彫刻の特質が既に見受けられるように思います。
下にご紹介する最晩年の彫刻と並んで、本企画展のポスターにもなっている作品。
そのコピーは、『少年の彼が掘り出したもの』。
【キリストの磔刑】 1563年頃
死の直前に彫られた、30cmにも満たない小さな小さな彫刻。
展示の最後の最後で「やっぱりミケランジェロは彫刻だよね」と強く思わせられた作品です。
一見すると未完成のようにも見えるイエスの姿に、うまく言えないのだけれど、あれから数日たった今でも心から離れない作品です。
ポスターのコピーは、『晩年の彼が遺したかったもの』。
以上、その作品だけでなく、ミケランジェロ・ブオナローティという生身の人間にも惹きつけられた企画展でした。
イタリアの美術や歴史をもっともっとしっかり勉強して、いつかもう一度、イタリアに行きたいです。
※お帰りの際は、美術館前庭のロダンの彫刻『地獄の門』をお見逃しなく!
システィーナの祭壇画『最後の審判』と同じく、ダンテの『神曲』地獄篇をイメージして製作された作品です。
夜にライトアップされた地獄の門は格別でございます。
上野の東京芸大で開催中の『夏目漱石の美術世界展』に、先週末に行ってきました。
漱石にまつわる美術作品に焦点をあてた、珍しい企画展です。
ホームページの方でも少し紹介していますが、私はロンドンでもわざわざ漱石の小説に登場する美術作品を訪ねたほどなので、今回の企画展はとても嬉しかったです。
それぞれの絵が漱石のどの作品に登場したものなのか、その引用文とともに紹介されていたのも、有り難かったです。もっとも、その短い引用部分からは具体的にどのような場面だったかは思い出せないものも多く、この企画展の記憶が薄まらないうちに、漱石の小説をまたひととおり読み返そうと思いました。
さて、今回展示されている作品ですが、まずはターナー、ミレイ、ロセッティ、ウォーターハウスといった西洋画。どれもロンドンのナショナルギャラリーやテートギャラリーでおなじみの画家たちですね^^
次に、酒井抱一、伊藤若冲、長沢蘆雪、黒田清輝といった日本人画家の作品。
漱石の友人でもあった、中村不折や橋口五葉による漱石作品の装丁や挿絵(貴重な下絵も!)。
さらには漱石自身の筆による作品(笑)と、漱石ファンには見所満載です♪
漱石の小説に出てくるけれど実在しない絵も再現されていて、これもとても楽しかったです。
『虞美人草』の屏風(美しかった!家に欲しい!)や、『三四郎』の美禰子が団扇を持って立っている絵など。
美禰子は私のイメージではもう少し西洋風な容貌(漱石のような)なのですが、絵画全体の雰囲気は想像どおりで、素敵でした。
そうそう。親友の正岡子規の作品として、以前江戸東京博物館の漱石展でも展示されていた東菊の掛け軸(子規からの最後の手紙が一緒に貼られた掛け軸)が、今回も展示されていました。また実物が見られるとは思っていなかったので、嬉しかったです。
しかしこの掛け軸は、やはり何度見ても切なくて泣きそうになる。。。
7月7日まで、上野の東京芸大美術館にて。
ちなみに、ここのミュージアムカフェはホテルオークラが運営しているのですが、海老グラタンがサラダ付きで千円程度で食べられ、味もなかなか美味しくてよかったです^^
ダンテ・ゲイブリル・ロセッティ 『レディ・リリス』 1867年 水彩
ロセッティには『レディ・リリス』という絵は油彩と水彩でいくつかバージョンが存在していて、モデルもFanny Cornforth(今回展示されていた絵↑)とAlexa Wildingの二人がいます。顔の表情や椅子の色などが微妙に違っていて、私はこちらのCornforthの方が微笑んでいるように見えて好き。
ジョン・エヴァレット・ミレイ 『ロンドン塔幽閉の王子』 1878年
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 『シャロットの女』 1894年
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス 『人魚』 1900年