しかし今ふと考えてみると、私が現在のような人間になったのは、環境や境遇のせいではなかったような気もして来る。私という人間はどんな環境や境遇の中に育っても、結局今の自分にしか成れなかったのではないでしょうか。
(織田作之助 『アド・バルーン』)
こういう言葉をたんたんと書くところが織田作の魅力ですよね。
「ふと」は織田作がよく使う言葉で、その主人公たちは、場の雰囲気や人間関係の中で、「ふと」何かを考え、「ふと」びっくりするほど重大な決断をしてしまったりする。
アド・バルーンのようにふわふわと心もとないその生活は、周りの様々な要因にもよるけれど、なによりそんな彼らの性格と無縁ではない。
無一文になって死ぬしかないような極限になっても、そこにじめじめとした悲愴感がないのも、同じ理由でしょう。
読み終わって印象に残るのは、人生の意味がどうとかいうよりもまず、なにはともあれ彼らが一日一日を生きているということ。
世間にもまれて、誰かを想ったり憎んだりしながら、希望を持ったり挫折したりしながら、お金を稼いだり失ったりしながら、大きな事件があろうとなかろうと、とにかく今日一日を生きているというその事実。
もしかしたら、何よりたしかで単純なその事実こそ、「人生とは何ぞや」という複雑な問いへの、ひとつの答えとなるのではないでしょうか。
織田作の作品が、無頼派の中で一番生活の匂いや温度が感じられるのは、やっぱり大阪の出身ということが関係あるのでしょうねー。
無頼派の作家達は、その呼称や自滅的な生き方のせいか、反世間的・破滅的な面が強調されすぎている気がするけれど、ある意味では、誰よりも「まっとうな」人たちだったのではないかと思う。
その作品の奥に見えるまっとうな優しさに、私はなにより惹かれるのです。
ハローワークへ行ったら1名の募集に100名以上の応募なんていう天文学的な現実にげんなりしつつ。
ごちゃごちゃ頭で考えて立ち止まっているよりは、まず手足を動かしてみる。
ふわふわふわふわ流れながらも今日を生きる生活の”味”を思い出させてくれる、織田作なのでした。
菜の花の写真は、前の職場の友達が送ってくれたもの(^_^)