病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものですと前置きして・・・
(正岡子規「病牀六尺」冒頭)
二〇世紀がはじまった一九〇一年(明治三四)は、子規の最晩年のはじまりだった。新年早々、新聞「日本」で「墨汁一滴」の連載がはじまる。この「墨汁一滴」と翌年、亡くなる間際まで連載した「病牀六尺」、それに美しい絵入りの自筆日記「仰臥漫録」を加えて「子規の三大随筆」と呼ぶ。・・・
わずか六尺の病床が最晩年の子規に許された空間だった。しかし湖の上を鳥や雲や月が通り過ぎるように、子規の病床と脳裏をさまざまなものが去来する。その印象の一つ一つを子規は言葉で描いてゆく。
「病牀六尺、これが我世界である」と「病牀六尺」の冒頭に書いたのは、決して悲観ではなく子規らしい挑戦である。この狭い病床だからこそ、世界のすべてが映し出せると不敵に宣言しているのだ。それは「子規の宇宙」と呼ぶにふさわしいものだった。
(長谷川櫂 ~本展図録より~)
今年は正岡子規の生誕150年
神奈川近代文学館で開催中の正岡子規展に行ってきました。
いつもながらここの展覧会の充実度は素晴らしいの一言。ブログには書きませんでしたが、漱石の没後100年を記念した昨年の漱石展も素晴らしかったです。
以下、今回特に印象に残ったものをいくつか。
・1896年(明治29)3月17日の子規から虚子に宛てた書簡。この日の夕方、子規は医師から歩行困難なほどになっていた腰痛の原因がリウマチではなく脊椎カリエスによるものであることを告げられました(その元である肺結核は1888年(明治21)に既に発病していました)。
「僂麻質斯(リウマチス)にあらぬことは僕もほぼ仮定し居たり。今更驚くべきわけもなし。たとひ地裂け山摧(くだ)くとも驚かぬ覚悟を極(き)めたり。今更風声鶴唳に驚くべきわけもなし。然れども余は驚きたり。驚きたりとて心臓の鼓動を感ずるまでに驚きたるにはあらず。医師に対していうべき言葉の五秒間遅れたるなり。五秒間の後は平気に復(かえ)りぬ。医師の帰りたる後十分ばかり何もせずただ枕に就きぬ。その間何を考えしか一向に記憶せず。」
・1897年(明治30)2月17日の子規から漱石に宛てた書簡。以前鎌倉文学館でも見たもの。
「僕の身はとうから捨てたからだだ。今日迄生きたのでも不思議に思ふてゐる位だ。併し生きてゝ見れバ少しも死にたくハない、死にくたハないけれど到底だめだと思ヘバ鬼の目に涙の出ることもある、・・・」
・夏目漱石「吾輩は猫である(十一)」原稿
・座机
1899年(明治32)、根岸の指物師に作らせたもの。子規の左脚は曲がったまま伸びなくなっていたため、立て膝を入れる部分が切り抜かれています。以前子規庵で見たものは複製だったので、実物はやはり感慨深かったです。そういえば昨年の漱石展でも漱石山房で漱石が使用していた机の実物が展示されていたのですが、あちらは14年ぶりの展示とのことでした。いくら保存の為とはいえ出し惜しみしすぎだわ。。。
・千枚通し、硯箱、水差し、病室にかけられていた曼荼羅、ステレオスコープ、黒眼鏡、一本足の蛙の置物etc
「墨汁一滴」や「病牀六尺」に登場する、子規の病床を囲んでいた物たち。
・子規の病室のふすまを屏風に仕立てたもの
・1900年(明治33)4月に自ら陶土で作った自作像
おお、似てる!さすが写生の子規。
・渡辺南岳画「四季草花図巻」(南岳草花画巻)
「病牀六尺(百三、百四)」に登場する、子規が「渡辺さんのお嬢さん」と呼んで惚れ込んだ絵。一旦は断られたものの、子規没後に返却することを条件に門人たちが借り受け、子規には快く譲渡されたと告げられました。
死の直前にあっても子規のユーモアを垣間見られるこの話が私はとても好きなので、今回その実物の絵を見ることができて嬉しかったです。
・漱石「渡英日記」1901年1月22日の記述
「ほとゝぎす届く 子規尚生きてあり」
漱石は虚子から送られてくる手紙やホトトギスをロンドンで受け取って開く度に、そこに子規の死の報せが書かれてはいまいかと緊張していたのではないかな・・・。
・漱石「子規の画」原稿
「子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試がない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊の中に、確にこの一拙字を認める事のできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償としたかった。」
漱石って自分ではそう思っていないかもしれないけれど、とても温かい心を持った人ですよね。
・漱石が掛け軸に仕立てた、子規の東菊の絵と最後の手紙。
これまで漱石展で何度も見ていますが、何度見ても、これを書いたときの子規の気持ちと、死後に掛け軸に仕立てたときの漱石の気持ちを思って、胸が苦しくなります。
・「仰臥漫録」2冊
原本は2冊に分かれているんですね。一冊目からは、1901年(明治34)9月13日の朝顔の絵のページが、二冊目からは同年10月27日の「明日ハ余ノ誕生日にアタル」のページが、それぞれ見開きで展示されていました。子規の誕生日は旧暦の9月17日。家族はいつも旧暦で祝っていて、この明治34年も旧暦で祝いましたが、翌35年は旧暦のその日(新暦の10月18日)まで子規の身体はもたないであろうと、新暦の9月17日にお祝いをしました。そして2日後の9月19日に子規は亡くなりました。34歳でした。
・「病牀六尺(九十九)」原稿
・1902年(明治35年)9月18日、死の前日に書かれた絶筆3句
「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
「をととひのへちまの水も取らざりき」
原本は国立国会図書館の所蔵で、今回は4/28~5/11の間のみ原本が展示され、他の期間は複製の展示でした。私はこの原本が見たかったので、GWに行きました。この日の子規の様子をその場にいた弟子の碧梧桐が詳しく記録していて、その内容はこちら様のブログに詳しいです(管理人さん、勝手なご紹介すみません・・・)。
死の直前とは思えないほどしっかりした第一句の筆、佛の一字の存在感、そして斜めに書かれた第三句の最後の力を振り絞ったような筆が印象的でした・・・。
先月松山の子規記念館で見た下村為山/高浜虚子の「子規逝くや十七日の月明に」の掛け軸が虚子記念文学館から出品されていました(原本)。ということは、子規記念館で見たあれは複製だったのかしら?
図録(千円也)は今回もセンスいい
真っ赤な裏表紙には子規自ら書いたあの有名な墓誌銘が一面に印刷されています。真っ赤な色はどうしても子規の肺病を連想してしまうので生々しすぎる気がしないでもないですが、それも彼を構成する大切な要素であり、病と闘い死を思いながらも最後まで世界の美しさを見つめ続け、人生に明るさを見出し、俳句に対する情熱を失わなかった子規の血の色、情熱の色にも見えるのでした。
私が初めて子規に興味を持ったのは、20代前半に読んだ司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』ででした。あれから20年。いつのまにか子規が亡くなった年齢をとっくに超えてしまったなぁ。。
子規の生誕150年を祝って、ブログの背景を糸瓜にしてみました。初夏らしく爽やかでお気に入りです
ただいま横浜では「ガーデンネックレス横浜2017」を開催中。近代文学館のある港の見える丘公園も、関内の日本大通りもそれは見事に花々が咲き誇っています。今週末はお天気もよさそうですし、お散歩がてら行かれてみてはいかがでしょうか?
地にあるもののすべてを美しいと感じたい気分は、いつでも、伸びあがって待ちうけるようにして用意されていた。かれが、子規の詩歌についての鋭敏な鑑賞者であったのは、子規の俳句も短歌も、地上の美しさというものの本質を、路傍に小石でも置いたようなさりげなさでひきだしてくれるためであったといえる。
(司馬遼太郎 『ひとびとの跫音(下)』より)
根岸の子規庵