風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『地球交響曲第九番』 @東京都写真美術館(7月9日、11日)

2021-07-22 20:56:34 | 映画




地球交響曲第九番』を観てきました。9日と11日の二回。
最後に、最後までこういう作品を作ってくださった龍村監督に、ひたすら感謝あるのみです。
30年前に監督の作品と出会えていなかったら、私の人生は全く違ったものになっていたと思う。その作品の世界は私にとって新しいものだったわけではなく、物心ついた頃からずっと肌で感じていたものでした。でも、それを分かち合える人に出会えていなかった。監督の作品と出会えてからは、監督とその仲間達が”魂の友”としていてくださったから、私は孤独ではありませんでした。だから第九番の一番最後、スクリーンに映し出された「龍村 仁」の文字には胸がいっぱいに・・・。

第九番の出演者は、小林研一郎さん(指揮者)、スティーヴン・ミズン博士(認知考古学者 英国レディング大学初期先史学教授)、本庶佑博士(分子生物学者 京都大学特別教授 ノーベル生理学・医学学賞受賞者)の3名。

多様なものが多様なままに共に生きる 
それは生命の摂理であり宇宙の摂理である

これは第二番の冒頭シーンで映し出される言葉ですが、この言葉について、監督は『地球交響曲間奏曲』(1995年刊)という本のあとがきで次のように書かれています。

私はものごとを断定的に言い切ることが大嫌いです。ものごとを一つの側面からだけ観て、これが”真実”だ、とか”正義”だ、とか言い切ることが、いかに危うい事かということを思い知っているからです。にもかかわらず第二番の編集が最終段階に入った95年の1月頃、私はこの映画の中で、この言葉だけははっきりと言い切っておこうと思うようになりました。いや、言い切っておかねばならない時にきている、とはっきりと思ったのです。とても静かな気持ちでした。「多様なものが、多様なままに共に生きる」という事は、多分間違いない生命の摂理です。

監督がこの文章を書かれたのは1995年3月末日となっています。
オウム真理教による地下鉄サリン事件が起きたのが1995年3月20日でした。「多様なものが、多様なままに共に生きる」この言葉をあえて言い切っておかねばならないその必要性を監督が強く感じられた理由が、あの時代の空気を覚えている一人として、私にもわかる気がします。当時私は18歳でした。そしてあの時代の危うい空気は今もまだ世界に残っている、というより今また再び色濃くなっているように感じています。事件を起こした当事者に責任があるのは当然のことだけれど、そういう事件が起きる要因を生み出してしまった社会にもまた責任があるということを、私達は忘れてはいけない。社会に上手くなじめない人間を排除することでは、何も解決しない。そしてその社会とは、私達一人一人のことです。
地球交響曲の構想に大きな勇気を与えてくれたというこの言葉は、80年代初頭に龍村監督がインタビューをしたときの本庶さんの言葉がもとになっているのだそうです。

彼はインタビューのなかで次のように語ってくれた。
「遺伝子の構造、親から子へ伝わってゆく仕組み、生命というのは太古からひとつながりである。我々が今日持っている防御システムというのは、実は非常に遺伝子の小さな単位を組み合わせることによって多様な発現系が出来上がる。最初にすべての可能性を出して、そのあと、いいものを好きなように選びなさいというシステムである。それから学べることは、一見、今日、ムダに見えることを、いまムダだからと全部切ってしまうと将来困ることが起きる。だからムダのなかに将来に対する備えがちゃんと入っている。人という種は、たくさんの遺伝子の変形を抱合し多様性があるから長い進化の過程を生き永らえてきた。もしひとつの遺伝子系しか持っていなかったら、環境がちょっと変わったらヒト全体が滅びてしまう。」
すべての生命はひとつながりのものであり、ともに調和しながら永遠に生きている。宇宙誕生の一瞬に生まれた素粒子のひとつさえ、宇宙の無数の星々の誕生と死に関わりながらいま、この私のからだのなかにあるかもしれない。
(『地球交響曲第九番』HPより)


私は「地球が人類を生み出したのであるならば、人類が生み出した科学と地球は共存していけるはず」と思っているのですが、龍村監督もまた科学を信頼し、人間を信頼し、その大前提に自然があることを当然のことと理解されている方。私が龍村監督を好きな最大の理由はそのバランス感覚で、第九番でも変わらずそうあってくれたことが嬉しかった。

また本庶さんの菩提寺である京都法然院の梶田住職が仰っていた「悲しみ合って生きる」という言葉も印象的でした。

コバケンさんがベートーヴェンについて熱く語る言葉には、「わかる、わかるよコバケンさん…と、おこがましいけれどベートーヴェンのファン仲間感覚で嬉しくなってしまった。
ベートーヴェンが作り出す和音の響きの話は、数年前にはじめて月光ソナタの最初の数和音を弾いたときのことを思い出して、うんうんうんと大きく頷いてしまいました。そのとき私はとある公共のピアノに誰かの楽譜が置き忘れてあったのを見つけてこの曲を初見で弾いてみたのですが、「こんな曲が作れるなんてベートーヴェンって天才!?」と愕然としました。もちろん曲自体は知っていましたが、聴くのと弾くのとでは大違い。あまりの衝撃と感動に、その後すぐに電子ピアノを購入してしまったほどです。ピアノを弾いたことのない人でも、是非この月光ソナタの最初の数フレーズだけでいいから自分の指で弾いてみていただきたい。図書館で楽譜を借りて、駅ピアノとかでいいから。たった一つの和音で一瞬で空気を変えてしまうベートーヴェンの非凡さがわかります。
コバケンさんが月光ソナタに続いて語った、悲愴ソナタの第二楽章の和音についても心底同意。普通ならラ♭にするであろうところをラにしたベートヴェンの感性…!それにより生み出されるあの切なさ…!
32番のソナタの高音トリル後の日常世界に戻る瞬間も同じで、この独特の空気の変化のさせ方こそベートーヴェンの天才性の最たる部分ではないかと私は思うのである。
コバケンさんに話を戻して、2019年12月25日のサントリーホールの第九演奏会への本番に向けたリハーサルの中で、コバケンさんは”仲間たちオーケストラ”(プロ、アマ、障がいの有無を問わず、活動趣旨に賛同する不特定多数の演奏家から成るコバケンさんのオーケストラ)から奏でられる第九の音について「様々な個性が聴こえてきて、これまで指揮してきた(プロの奏者ばかりの)読響や日フィルよりもベートーヴェンに近いと思う」と仰っていましたが、これは私も本番の演奏を聴いたときに同じことを感じました。最初はその雑多な音に戸惑ったけれど、最後には「この音でなくてはならないのだ」と感じていた。それはベジャールの第九を観たときと同じ感覚で、多様なものが多様なままに共に演奏するということが、この曲において最も重要なことなのだ、と感じたからです。それは地球交響曲のコンセプトそのものの音でもありました。
そして第四楽章の合唱。既に耳が聞こえなくなっていたベートーヴェンが最後の交響曲である第九番で初めて入れた人間の歌声。

Seid umschlungen, Millionen! いだかれよ もろびと達
Diesen Kuß der ganzen Welt! 全世界のくちづけを受けよ

第九のこの部分の歌詞を検索すると「抱き合おう もろびと達。全世界にくちづけを」となっているのが殆どなんです。それを今回こういう和訳としたのは、私達人類も本来は他の動植物達と同じく地球に抱かれ、愛されている存在なのだと、龍村監督はそう仰りたかったのかな、と。
私達が地球を守ってあげているのではなく、地球に抱かれ、守られているのはむしろ私達の方なのだと。そしてこの状態がこの先も続いていくかどうかは私達次第なのだと。なぜなら、母なる地球のもとで全ての存在は繋がっているのだから。

30年前、この映画に「交響曲」と名をつけたのは、あらゆる楽器がそれぞれ独自の音を奏でながらシンフォニーを奏でるように、生命体である地球のシステムもまた、ともに美しく壮大な調和の音楽を創造する、ひとつの生命のシンフォニーを奏でているようなものだからだ。
今、私たち人間は、明らかに調和を乱す不協和音を奏でている。
調和を求める宇宙の「大いなる意志」によって私たちそのものは抹消されてしまうのか、それとも新たな調和の音楽を創造することができるのか、その選択は私たち自身に委ねられている。
(『地球交響曲第九番』パンフレットより)

映画が始まる前は「これが最後の『地球交響曲』なのだな」という寂しさがあり、これまでの30年間を思っていました。そして映画が始まるとそれは消え、私は数万年の時の流れの中にいた。地球交響曲はいつもそう。どこにいても、いつでも、その大きな流れの中の自分を一瞬で思い出させてくれる。星野さんの写真と同じ。
でも最後の最後、サントリーホールのカーテンコールの場面で流れ始めたのは、『The End of The World』の歌だったんです。

Why does the sun go on shining? なぜ、太陽は輝き続けているの?
Why does the sea rush to shore? なぜ、波は変わらず浜辺に打ち寄せているの?
Don't they know it's the end of the world? 世界が終わったことを知らないのかしら?

一回目に見たとき、ここでこの歌が使われているのが少し不思議な気がしたんです。なぜなら私はそれまで、この歌を失恋の歌だと思っていたから。でも帰宅後に調べて、作詞者が父親の死の悲しみをくみ上げて書いた詞であることを知りました。

It's ended when you said, "Good-bye" あなたが「さよなら」と言ったとき、世界は終わったのに

この最後の静かな"Good-bye"は、龍村監督と地球交響曲からの"Good-bye"なのだと感じました。
第九番のパンフレットの曲紹介の欄には、こう書かれてあります。

私たちにひとつだけ確かなことは、すべての人の生には必ず終わりが来るということ。それでも太陽はめぐり、星は輝く。生きることとは、なんとせつなくて、儚いのだろう。

病気と闘われ、「『第九』を私のいのちの最後として送りたい」と仰っていた龍村監督。
私達は数万年、数億年の時の流れの中に生きていて、そして同時に”いま”を生きている存在であることを、龍村監督は最後にちゃんと思い出させてくれたのだと、思いました。
悠久の時の流れだけを意識して生きることはある意味とても楽なことだけれど、同時に私達は”いま”の数十年間を生きている限りある一つの命なのだと、そう教えてくれているように感じられました。星野さんも同じだった。星野さんも、いつも今ここにある限りある儚い命を何よりも愛おしく大切なものとして感じておられた。
『The End of The World』が流れるなか、スクリーンはサントリーホールから天河の森へと移ります。龍村監督が関わってこられた自然林を再生させる斎庭プロジェクトの風景が映し出され、いつかこの場所が神様たちの遊び場になることが願われ、『地球交響曲第九番』は終わりました。
エンドクレジットで流れた音楽は、第九の第三楽章。ベートーヴェンの愛と祈りの音楽。

ナレーションは、第一番からずっと担当されてきた榎木孝明さん。サントリーホールのカーテンコールの場面で客席のお姿が映されていたけれど、感無量な表情をされていたように見えました。榎木さんが龍村監督をとても尊敬されていることは、これまでの数多くのイベントでお会いしたときのご様子からわかります。そういえば私が初めて龍村監督と話をしたのは、電話でだったな。ダライ・ラマ法王の古希のお祝いでチベット仏教の砂曼荼羅が国際フォーラムの相田みつを美術館で作られるイベントがあって(法王事務所のHPによると2005年5月だったようです)、榎木さんのミニトークの日に行こうと思って(結局その日以外も数回通ったのですが)、事前の予約は必要か確認しようと龍村監督の事務所に緊張しながら電話をかけたら、電話に出られたのがなんと監督ご自身のお声で。「!?」となって挙動不審になった私に、気さくに答えてくださったのだった。特に予約不要とのことだったので行ってみると会場に普通に榎木さんや監督やご家族が歩いておられて、のんびりした雰囲気だったなあ。チベット仏教の声明を初めて聴いたのも、チベットのバター茶を初めて飲んだのもあの時だった(衝撃の味だった…)。

今回のもう一人のナレーションは、鶴田真由さん。鶴田さんは以前、鎌倉薪能のゲストで拝見したことがあって、お能の間ずっと姿勢を崩さずに観られていてとても好印象な女優さんでした。地球交響曲の空気とも合っておられる方のように思います。

というわけで、第九番が無事完成し、私も最後まで見届けることができたことは、とても幸福なことなのだと感じています。
でも、正直な気持ちは、やっぱり寂しいよね…。寂しくて、今日まで感想を書くことができませんでした。今もまだ、寂しいです。
でも龍村監督からいただいたものにただ感謝して終わりにするのではなく、私にできることを少しずつでも行動に移していくことが、龍村監督へのお返しになるのではないかなと思っています。

最後に、The Flintstoneというラジオ番組のサイトに掲載されている龍村監督の過去のインタビュー記事からの抜粋を載せておきます。

魂を)永遠たらしめているのは誰かっていうと、それは生きている人なんですよ。生きている人が作品に触れていろんなことを感じる、それが魂が永遠であるということで、フワフワと飛んでいる魂が永遠に実在していると言ってもいいけど、そんなことを言っても虚しいので、やっぱり生きている人間の心の状態が元気になるというか、きれいになるというか、そういうことがあって初めて魂は永遠であると言えると思うんです。だから魂の問題は、実は冥界のこととか、死んだ世界、違う次元のことではなくて、いま生きている、今一瞬のこの時のことなんです。それが『魂を語ることを恐るるなかれ』ということなんだよね。」
the flintstone 2003年8月-1

「フィンランドの神様、カレワラの中に出てくる神様というのはちょうど八百万(やおよろず)の神様と同じで、キリスト様のように絶対的に聖なる人ではないんです。ドジなところもいっぱいあって、それがまた面白いんですけど、失敗をしたり、恋をして振られて悲しんだり、いろんなことをするんだけど、ただワイナモイネンというのは、生まれたときにすでに年寄りなんですよ。何千歳かくらいで白いヒゲを生やしているんだけど、その人が、いろんな魔女との戦いとか争いの中で、究極において彼がカンテレという楽器(カマスの骨に糸を通した竪琴のような楽器)を奏でると、敵対するものも、神様、動物、岩、風、水もみんな一緒になって心が和んで、その瞬間だけは争い事が治まるんです。
 ただし、フィンランドのお話の素敵なところは、それで世の中が平和になりましたでは終わらない。それがどこかで途切れると、争いを繰り返すんです。繰り返すけど、ワイナモイネンの歌と楽器、音楽がある。ヒンドゥー教の原典には、やっぱり宇宙の根源は、バイブレーション、音なり物があって、究極においては混乱しているように見えるけど、混乱しながら秩序を作るというのかな、ゴジャゴジャしながらも、しかしその中での調和をとろうとしていくものだというのがあるんですね。
 だから、僕なんかはそれがとても良いなと思うの。こうなりさえすればすべて良くなって終わりというのはないんだよね。良くなろう、進化し続けようとする何かが、生き続ける力で大切なんです。星野はやっぱりそういうことに気が付いて、森の中で一人でテントで書いた文章に『人間が究極的に知りたいこと、なぜ生きてここに居るのか、それらを知りたいと思って求め続けるから生きている』とある。もし、その答えがハッキリ分かったらそれで生きる力を得るだろうか、答えを求め続けながらも、その答えが得られないということによって生かされているのではないか、ということなんですね。・・・だから、プロセスなのよ。要するに、僕らは結果だけ言う結果主義になりがちだけど、そんな結果なんて屁みたいなもので、より良い結果を求めていろんな努力をし続けて、少しずつ、少しずつ進化し続けてるという部分に意味がある。こうなったら失敗だったとか思う必要はないわけで、どんなに一つの基準で失敗したように見えても、そこに向かって努力していた時にどう生きたかがとても重要なことなんです。結果が最初の思惑通りにならなくても過ごしてしまった時間は確実に存在する、そして最後に意味を持つのは結果ではなくて、過ごしてしまったかけがえのない時間であるという、星野が書いた言葉でもあるんだけど、そういうことですよね」
the flintstone 2003年8月-2

「人と人。人と自然。みんなが繋がっているということは、口で言うとえらく綺麗事に聞こえるけど、僕は紛れもなく最もリアルなことだと思っているの。ただ僕達が日常の中でなかなか思い出せないという、この時代のバック・グラウンドがあるだけで、それを思い出したら多分、人は元気になると思うの。例えば小さな苦しみや、孤立していて自分は誰にも理解されないんじゃないかという不安は、人間誰でも持ちますよね。だけど、そうではなくて、例え自分が誰一人に見られていなくても、このことは素敵で、こうしたほうがいいと思って一歩踏み出していることは、実は必ずそれが残って別の人に伝わったり、あるいは時や世代を越えて、然るべき存在に繋がっていくということは確かなんだよ。そう思えると安心できるんだよね。生きていく中で選ぶ道が、実はちゃんと繋がっていて、未来の世代に関係していくということがあると、元気が出るじゃないですか。そういう風になってほしいなという思いを込めて、第五番は完成したという感じです」
the flintstone 2004年8月

「今、僕やワイルが言っていることがあって、『It's always both』という言葉があるんですよ。少し難しくなるけど、陰と陽や、男性と女性とか、善と悪とか、美と醜とか、幸と不幸など、対立すると思われているその2つが、共にあることが大事だというのが彼の基本的な考えなんですね。医学的なことでいうと、気孔だとか、マッサージとか針とか、自然の生薬みたいな、いわゆるシャーマニズムみたいなことと、現代医学の薬、これらを全部含んでいるんですね。どっちに重きを置いていくかというと、伝統医療とか生薬になって、それが自然治癒力のニュアンスになるんだけど、彼は、偏った考え方になるけれど、現代医学の最先端が到達していることも、人間が持っている1つの英知だから、その両方が大事だということで、『It's always both』というのが、彼の言葉になっているんだよね。」
the flintstone 2010年3月


『地球交響曲第九番』予告編