世間では、松岡修造は、熱血漢と思われているようだが。
私は、彼を、バカというか、アホだと思っている。
(私は、100億人がYES、と言っても、自分の考えが違えば、NOと言う性格の人間である)
氏は、やたら、「世界、世界」、と言って、世界のレベルでなければ、無意味で、逆に、世界のレベルに達した人を誉め、(というか、へつらっているが)私は、氏とは、価値観が正反対である。
スポーツは、何も、世界のレベルでなくても、いいじゃなかい、と思うのである。
基本の技術が、しっかり、身についていれば、それで、私は、十分だと思うのである。
世界とか、プロとかに、なると、肉体を極限まで酷使するから、世界記録(や金メダル)の獲得と、怪我の、繰り返しの毎日になるのだ。
実にバカげている。
水泳なんか、たった、0.1秒の差で、金メダル、銅メダルの違いになる。
もう一度、やれば、そんな、勝ち負けは、簡単に、ひっくり返る。
たった、0.1秒の差で、勝ったことが、そんなに、価値のあることなのか?
しかも、世界一になった、ということは、その時代に、その人、以上の実力のある人がいなかった、というだけに過ぎない。
ウサイン・ボルトは、明らかに、世界一の実力があり、何度、やっても、彼が一番になるだろう。
あれは、すごい。(私も彼は、すごいと思う)
そして、そもそも私は、オリンピックの金メダルなんて、くだらない、と思っている。
なぜなら、オリンピックは、選抜競技だから、相手(敵)との、比較で、金メダルは、決まるのだから、相手が、失敗したり、怪我したりしたり、してくれたら、自分が、金メダルをとれるのだから、相手の失敗を、願うようになってしまう。
実にバカげている。
相手を蹴落として、合格して、喜んでいる、受験生と全く同じである。
そして、世界一になるには、自分の一つの競技の訓練だけが、人生の全てになってしまう。
特に、幼少の頃から、一つのスポーツに専念した人は、上達の理論や、プロセスが、チンプンカンプンのバカになってしまうのである。
幼少の、一つのスポーツの、天才少女とか、天才少年とかは、例外なく、単なるバカである。一芸を仕込まれた、猿回しのサルに過ぎない。
それを、とったら、何も残らない。
特に、女子体操などは、柔軟性、や、体の軽さ、から、10代で、選手生命のピークに達し、それを過ぎたら、人生、終わりである。
それ以上、歳をとると、勝てないからである。
あとの、残りの人生は、お決まりの、おまけの、後進の指導、か、有名人であることから、芸能界の、バラエティー番組の出演者の人生である。
もう、10代で、金メダルをとって、人生の目的を果たしたら、その後は、死んだ方がいいんじゃないの。
これは、私の考えでも、あるが、ちゃんとした、スポーツ論でも、述べられていることでもあるのである。
「スポーツ上達の基礎理論」(自由現代社)でも、述べられていることである。
要するに、怪我と勝利のためのスポーツ。か。健康と生活向上のためのスポーツ。か。という問題である。
三島由紀夫は、「スポーツはバカがやるもの」、と言っているが、その考えには、私は反対である。
スポーツには、ちゃんとした、理論があるのである。
しかし、それをのぞけば、私は、三島由紀夫の、スポーツ観に、ほとんど共感する。
以下、三島由紀夫の「実感的スポーツ論」を抜粋する。
「私は目下、剣道をやっており、やっと最も自分に適したスポーツを見出して、そこに安心立命の境地を得た感じがしている。私の師は吉川正実七段だが、氏の人柄に惹かれて、私は氏の転勤先へついてまわり、それまでの東調布警察署から、渋谷警察署へ移ってきた。氏のまわりには、つねに人の和があり、剣道家にありがちな小うるさい空威張りを、氏ほど免れている人はめずらしい。実際、剣道家独特の臭味、妙に様子ぶった、妙に謙虚ぶった、あるいは剣道臭の強い、あるいは事大主義のつよい・・・そういうもろもろの臭味がイヤになって、剣道そのものが嫌いになってやめていく人も多いのである」
「もう一つは、社会人のスポーツの問題である。社会人のスポーツというと、見るスポーツだけ、行うスポーツはゴルフだけ、というのが現状であって、三十代で、早くも老化現象を起こす人達がますます増加する。皮下脂肪の沈着が、あるいはコレステロールを増し、あるいは心臓を弱める。多飲が肝臓障害を惹き起こし、神経の酷使が胃潰瘍を招来する。それを防ぐために、薬屋の店先で、薬壜からストローを啜っている姿は、情けない眺めである。スポーツが、これらのものをみんな救うことは目に見えているのに、社会人は、暇もなければ、その機会もない。三十代のスポーツがいかに必要であるかは、私が身をもって体験したところである」
「スポーツは行うことにつきる。身を起こし、動き、汗をかき、力をつくすことにつきる。そのあとのシャワーの快さについて、かつてマンボ族が流行していたころ、「このシャワーの味はマンボ族でも知らねえだろ」と誇らしげに言っていた拳闘選手の言葉を私は思い出す。この誇りは正当なもので、何の思想的な臭味もない。運動のあとのシャワーの味には、人生で一等必要なものが含まれている」
私は、彼を、バカというか、アホだと思っている。
(私は、100億人がYES、と言っても、自分の考えが違えば、NOと言う性格の人間である)
氏は、やたら、「世界、世界」、と言って、世界のレベルでなければ、無意味で、逆に、世界のレベルに達した人を誉め、(というか、へつらっているが)私は、氏とは、価値観が正反対である。
スポーツは、何も、世界のレベルでなくても、いいじゃなかい、と思うのである。
基本の技術が、しっかり、身についていれば、それで、私は、十分だと思うのである。
世界とか、プロとかに、なると、肉体を極限まで酷使するから、世界記録(や金メダル)の獲得と、怪我の、繰り返しの毎日になるのだ。
実にバカげている。
水泳なんか、たった、0.1秒の差で、金メダル、銅メダルの違いになる。
もう一度、やれば、そんな、勝ち負けは、簡単に、ひっくり返る。
たった、0.1秒の差で、勝ったことが、そんなに、価値のあることなのか?
しかも、世界一になった、ということは、その時代に、その人、以上の実力のある人がいなかった、というだけに過ぎない。
ウサイン・ボルトは、明らかに、世界一の実力があり、何度、やっても、彼が一番になるだろう。
あれは、すごい。(私も彼は、すごいと思う)
そして、そもそも私は、オリンピックの金メダルなんて、くだらない、と思っている。
なぜなら、オリンピックは、選抜競技だから、相手(敵)との、比較で、金メダルは、決まるのだから、相手が、失敗したり、怪我したりしたり、してくれたら、自分が、金メダルをとれるのだから、相手の失敗を、願うようになってしまう。
実にバカげている。
相手を蹴落として、合格して、喜んでいる、受験生と全く同じである。
そして、世界一になるには、自分の一つの競技の訓練だけが、人生の全てになってしまう。
特に、幼少の頃から、一つのスポーツに専念した人は、上達の理論や、プロセスが、チンプンカンプンのバカになってしまうのである。
幼少の、一つのスポーツの、天才少女とか、天才少年とかは、例外なく、単なるバカである。一芸を仕込まれた、猿回しのサルに過ぎない。
それを、とったら、何も残らない。
特に、女子体操などは、柔軟性、や、体の軽さ、から、10代で、選手生命のピークに達し、それを過ぎたら、人生、終わりである。
それ以上、歳をとると、勝てないからである。
あとの、残りの人生は、お決まりの、おまけの、後進の指導、か、有名人であることから、芸能界の、バラエティー番組の出演者の人生である。
もう、10代で、金メダルをとって、人生の目的を果たしたら、その後は、死んだ方がいいんじゃないの。
これは、私の考えでも、あるが、ちゃんとした、スポーツ論でも、述べられていることでもあるのである。
「スポーツ上達の基礎理論」(自由現代社)でも、述べられていることである。
要するに、怪我と勝利のためのスポーツ。か。健康と生活向上のためのスポーツ。か。という問題である。
三島由紀夫は、「スポーツはバカがやるもの」、と言っているが、その考えには、私は反対である。
スポーツには、ちゃんとした、理論があるのである。
しかし、それをのぞけば、私は、三島由紀夫の、スポーツ観に、ほとんど共感する。
以下、三島由紀夫の「実感的スポーツ論」を抜粋する。
「私は目下、剣道をやっており、やっと最も自分に適したスポーツを見出して、そこに安心立命の境地を得た感じがしている。私の師は吉川正実七段だが、氏の人柄に惹かれて、私は氏の転勤先へついてまわり、それまでの東調布警察署から、渋谷警察署へ移ってきた。氏のまわりには、つねに人の和があり、剣道家にありがちな小うるさい空威張りを、氏ほど免れている人はめずらしい。実際、剣道家独特の臭味、妙に様子ぶった、妙に謙虚ぶった、あるいは剣道臭の強い、あるいは事大主義のつよい・・・そういうもろもろの臭味がイヤになって、剣道そのものが嫌いになってやめていく人も多いのである」
「もう一つは、社会人のスポーツの問題である。社会人のスポーツというと、見るスポーツだけ、行うスポーツはゴルフだけ、というのが現状であって、三十代で、早くも老化現象を起こす人達がますます増加する。皮下脂肪の沈着が、あるいはコレステロールを増し、あるいは心臓を弱める。多飲が肝臓障害を惹き起こし、神経の酷使が胃潰瘍を招来する。それを防ぐために、薬屋の店先で、薬壜からストローを啜っている姿は、情けない眺めである。スポーツが、これらのものをみんな救うことは目に見えているのに、社会人は、暇もなければ、その機会もない。三十代のスポーツがいかに必要であるかは、私が身をもって体験したところである」
「スポーツは行うことにつきる。身を起こし、動き、汗をかき、力をつくすことにつきる。そのあとのシャワーの快さについて、かつてマンボ族が流行していたころ、「このシャワーの味はマンボ族でも知らねえだろ」と誇らしげに言っていた拳闘選手の言葉を私は思い出す。この誇りは正当なもので、何の思想的な臭味もない。運動のあとのシャワーの味には、人生で一等必要なものが含まれている」