村木厚子さま。立派な方だ。思わず涙が出てしまった。こういう御立派な性格の人は1000人に一人くらいしかいないだろう。
フロッピーのデータ改ざんで、大阪地検の前田恒彦が逮捕された。
地検ぐるみの犯罪の可能性もあるとして、最高検は、徹底的に捜査するといっている。しかし、検察組織の信頼失墜をおそれ、厳粛な捜査が行われるかどうかは、疑っている。
いわば、盗人に盗人をつかまえさせるようなものだ。
もし仮に、地検ぐるみの悪質な犯行だったとすると、大阪地検は信頼を完全に失う。組織がそういう悪質な体質だったとわかると、大阪地検の捜査のスタンス自体が疑われるから、今まで立件してきた事件の全てに、ちゃんとした捜査をしてきたのか、という疑惑がもたれるから、ことが厄介になる。そしてもう検察の取調べは、可視化すべきだ、という法案が国会で可決される可能性が強くなるだろう。検察としては、取調べが可視化されることは絶対、避けたいだろう。密室での取調べの方が、検察にとって、圧倒的に楽であるからだ。可視化されたら、検察は自分勝手な取調べが出来なくなり、怠けられなくなる。これを検察は絶対、避けたい。公務員の一番の特権は、怠けられることだからだ。だから今回の事件にしても、徹底的に厳粛な捜査が行われるかどうかは疑わしい。
前田恒彦はフロッピーを改ざんしたのは、「故意ではない」「上司に、フロッピーをいじくったことを報告した」などと言っているが、氏の外道さは何ら軽くならない。なぜなら、報告したのに上司が聞いてくれなかった、などという言い訳は全く通用しないからだ。一般の会社で、たとえば商品の安全性に問題があるとわかったら。そういうことは酌量の余地がある。上司に逆らったら、リストラされるかもしれない。失業してしまいかねない。直属の上司に報告したということで、責任を果たしたといってもいい。この時点で責任は直属の上司に移る。企業の目的は利潤を上げることだからだ。
しかし。検察というのは。真実を究明する。世の悪事に目を光らせる、世の悪事をなくす、という世の中の不正をなくし、治安を守るという、「正義」が検察の使命である。直属の上司に報告しても聞き入れられなかった場合は、トップの上司にまで、報告する義務があるはずだ。それに、早い時点で、フロッピーの改ざんをしておきながら、(つまりは自分達がおかしなことをしていると知りながら)それを隠して堂々と裁判をつづけていたのだから。まともな神経の人間じゃない。
検察にとって一番、おいしい権限は、誰はばかることなく、ずさんな取調べが出来るということだ。
地検ぐるみの犯罪の可能性もあるとして、最高検は、徹底的に捜査するといっている。しかし、検察組織の信頼失墜をおそれ、厳粛な捜査が行われるかどうかは、疑っている。
いわば、盗人に盗人をつかまえさせるようなものだ。
もし仮に、地検ぐるみの悪質な犯行だったとすると、大阪地検は信頼を完全に失う。組織がそういう悪質な体質だったとわかると、大阪地検の捜査のスタンス自体が疑われるから、今まで立件してきた事件の全てに、ちゃんとした捜査をしてきたのか、という疑惑がもたれるから、ことが厄介になる。そしてもう検察の取調べは、可視化すべきだ、という法案が国会で可決される可能性が強くなるだろう。検察としては、取調べが可視化されることは絶対、避けたいだろう。密室での取調べの方が、検察にとって、圧倒的に楽であるからだ。可視化されたら、検察は自分勝手な取調べが出来なくなり、怠けられなくなる。これを検察は絶対、避けたい。公務員の一番の特権は、怠けられることだからだ。だから今回の事件にしても、徹底的に厳粛な捜査が行われるかどうかは疑わしい。
前田恒彦はフロッピーを改ざんしたのは、「故意ではない」「上司に、フロッピーをいじくったことを報告した」などと言っているが、氏の外道さは何ら軽くならない。なぜなら、報告したのに上司が聞いてくれなかった、などという言い訳は全く通用しないからだ。一般の会社で、たとえば商品の安全性に問題があるとわかったら。そういうことは酌量の余地がある。上司に逆らったら、リストラされるかもしれない。失業してしまいかねない。直属の上司に報告したということで、責任を果たしたといってもいい。この時点で責任は直属の上司に移る。企業の目的は利潤を上げることだからだ。
しかし。検察というのは。真実を究明する。世の悪事に目を光らせる、世の悪事をなくす、という世の中の不正をなくし、治安を守るという、「正義」が検察の使命である。直属の上司に報告しても聞き入れられなかった場合は、トップの上司にまで、報告する義務があるはずだ。それに、早い時点で、フロッピーの改ざんをしておきながら、(つまりは自分達がおかしなことをしていると知りながら)それを隠して堂々と裁判をつづけていたのだから。まともな神経の人間じゃない。
検察にとって一番、おいしい権限は、誰はばかることなく、ずさんな取調べが出来るということだ。
日本語の上手い中国人。性格の真面目な中国人は日本語が上手い。これはもう法則に近い。性格が真面目だから、一生懸命、日本語を勉強するのである。もうほとんど日本人と見分けがつかないほど日本語が上手い中国人がいる。よくまあ日本語などという難しい言語を身につけたなと感心する。ある時、日本語が上手い中国人に、「日本語、上手いですね」と言ったら、咄嗟に、「でも早口で喋られると分からなくなってしまいます」と早口で喋った。そもそも咄嗟にそんな返事が出来ること自体、極めて日本語が上手い。逆に性格が真面目でない中国人は、日本語をしっかり身につけようという熱心さがないから、いつまでも日本語が下手である。
昨日、9月22日(水)のアクセス数
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見て下ってありがとうございます。
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これからは大学より国家資格の時代だと思う。
大卒なんて肩書きはもはや通用しなくなっている。(東大とか一流大学は別)
そもそも、日本の大学は、入ったら遊ぶ所である。それに。大学生は授業になんか出ないでアルバイトの毎日である。単位は過去問の一夜漬けである。講義の内容が身につくはずがない。あなた自身を振り返ってみても、大学の授業など、ほとんど全て忘れてしまっているだろう。
だから、これからは大学に進学するより、何かの専門学校に進学して、国家資格を取っておいた方がいい。あるいは、大学に進学しても、在学中に、遊ぶのではなく、何かの国家資格を取ろうと必死に勉強しておくことだ。
たとえば。自動車整備士の資格と技術を持っていれば、失業したり、転職やリストラされたりされることはないのだ。調理士、その他、どんな資格でもそうである。これからは国家資格と専門技術。
そうでないと、もう自分のやりたい仕事を選ぶことは出来なくなり、国家が必要とし、また、仕向けようとしている、介護の仕事にしか就けなくなる。介護の仕事なんて、やりがいも無いし、面白くもないぞ。
大卒なんて肩書きはもはや通用しなくなっている。(東大とか一流大学は別)
そもそも、日本の大学は、入ったら遊ぶ所である。それに。大学生は授業になんか出ないでアルバイトの毎日である。単位は過去問の一夜漬けである。講義の内容が身につくはずがない。あなた自身を振り返ってみても、大学の授業など、ほとんど全て忘れてしまっているだろう。
だから、これからは大学に進学するより、何かの専門学校に進学して、国家資格を取っておいた方がいい。あるいは、大学に進学しても、在学中に、遊ぶのではなく、何かの国家資格を取ろうと必死に勉強しておくことだ。
たとえば。自動車整備士の資格と技術を持っていれば、失業したり、転職やリストラされたりされることはないのだ。調理士、その他、どんな資格でもそうである。これからは国家資格と専門技術。
そうでないと、もう自分のやりたい仕事を選ぶことは出来なくなり、国家が必要とし、また、仕向けようとしている、介護の仕事にしか就けなくなる。介護の仕事なんて、やりがいも無いし、面白くもないぞ。
検察は、冤罪をつくることに対して感覚が鈍感になっているのだろう。
一般人だったら、人を冤罪にするなんてことは、考えただけでも恐ろしく、慎重になる。
しかし。検察は、人を疑い、人を裁こうとすることが仕事である。仕事というものは、どんな仕事でも、長くやっているうちに感覚が麻痺してくるのである。
ましてや検察は社会的地位の高い公務員であるから、なおさらである。仕事でミスをしてはいけない、などという民間のあらゆる仕事の緊張感などさらさら無いだろう。
医者の仕事でも似た面がある。医療は人の命を与る仕事である。しかしそれが職業になって、慣れてくると、そして人の死を見ることが当たり前になってくると、人の命のかけがえのなさに対して鈍感になってくるのである。
医者なんかより一般人の方が遥かに人の命の尊厳を自覚しているのである。
人を裁くということも、一般人にとっては恐れ多いことである。だから裁判員は、「疑わしきは罰してはいけない」という感覚が強く働き、ひけ腰になるのである。
また、人を罰してやろう、社会的地位の高い人間を、どん底におとしめてやろう、というのは、愉快な行為である。検察は、国家権力を傘に国民の税金でこれを楽しんでいるのである。
また。国策捜査などというものがあるように。検察も警察と同じように暇な仕事である。暇で何もしないでいると退屈するものである。そのため、事件が無く、暇になってくると、仕事のやりがいを求めて、事件を無理につくっているのである。
一般人だったら、人を冤罪にするなんてことは、考えただけでも恐ろしく、慎重になる。
しかし。検察は、人を疑い、人を裁こうとすることが仕事である。仕事というものは、どんな仕事でも、長くやっているうちに感覚が麻痺してくるのである。
ましてや検察は社会的地位の高い公務員であるから、なおさらである。仕事でミスをしてはいけない、などという民間のあらゆる仕事の緊張感などさらさら無いだろう。
医者の仕事でも似た面がある。医療は人の命を与る仕事である。しかしそれが職業になって、慣れてくると、そして人の死を見ることが当たり前になってくると、人の命のかけがえのなさに対して鈍感になってくるのである。
医者なんかより一般人の方が遥かに人の命の尊厳を自覚しているのである。
人を裁くということも、一般人にとっては恐れ多いことである。だから裁判員は、「疑わしきは罰してはいけない」という感覚が強く働き、ひけ腰になるのである。
また、人を罰してやろう、社会的地位の高い人間を、どん底におとしめてやろう、というのは、愉快な行為である。検察は、国家権力を傘に国民の税金でこれを楽しんでいるのである。
また。国策捜査などというものがあるように。検察も警察と同じように暇な仕事である。暇で何もしないでいると退屈するものである。そのため、事件が無く、暇になってくると、仕事のやりがいを求めて、事件を無理につくっているのである。
日本の天皇制を考える場合。日本の皇室は、国民と皇室とが緊密な精神的相互関係によって出来上がっている、としかいいようがない。そして天皇制は成功している。
(もともと人間の性格は、精神的相互関係によって出来るという面は誰にでもあるが)
もちろん皇室のそれぞれの人は、(全ての人間のように)生まれつきの先天的な性格を持って生まれる。しかし。日本国民は皇室に対し、畏敬の念を持って見ている。それを皇室は逆に感じ取って、畏敬の念で見られているという自覚をして襟を正さなくては、という思いを抱かざるを得なくなっている。もし、どっちかの見方が変わったら、皇室のあり方も変わってしまうだろう。日本の皇室はそれが日本人気質から成功しているのである。これはかなり日本の平和に役立っている。もちろん日本人は日頃、天皇の事など考えない。しかし、一朝時ある時に、この精神的相互関係は大きな力を持ってくるのである。
(もともと人間の性格は、精神的相互関係によって出来るという面は誰にでもあるが)
もちろん皇室のそれぞれの人は、(全ての人間のように)生まれつきの先天的な性格を持って生まれる。しかし。日本国民は皇室に対し、畏敬の念を持って見ている。それを皇室は逆に感じ取って、畏敬の念で見られているという自覚をして襟を正さなくては、という思いを抱かざるを得なくなっている。もし、どっちかの見方が変わったら、皇室のあり方も変わってしまうだろう。日本の皇室はそれが日本人気質から成功しているのである。これはかなり日本の平和に役立っている。もちろん日本人は日頃、天皇の事など考えない。しかし、一朝時ある時に、この精神的相互関係は大きな力を持ってくるのである。
日本がどんなに住みにくい国になっても、日本で生まれた日本人が皆、海外に移住して、日本という国がなくなってしまう、ということは絶対ない。確かに日本人の中には外国に移住した人もいる。しかし大局でみると、日本人は日本を脱出しない。日本人を日本につなぎとめておくもの。それは愛国心とは言いがたい。もちろん多少はあるだろうが。日本人を日本につなぎとめておくもの。その一番のものは、言語、風習、風土と私は考える。
はたして日本という国で生まれて、20年以上、肌にしみついている、それらを脱却することが出来るだろうか。そして日本は単一民族。(たしかに日本にはブラジル、ハワイなどへの移民の歴史があるが)そして日本人気質もある。またヨーロッパと違い、国境というものがない独立した島国という地理的な特質もある。
だから日本はどんなに経済的にどん底になっても、ハーハーゼーゼーいいながら存在しつづけるだろう。
はたして日本という国で生まれて、20年以上、肌にしみついている、それらを脱却することが出来るだろうか。そして日本は単一民族。(たしかに日本にはブラジル、ハワイなどへの移民の歴史があるが)そして日本人気質もある。またヨーロッパと違い、国境というものがない独立した島国という地理的な特質もある。
だから日本はどんなに経済的にどん底になっても、ハーハーゼーゼーいいながら存在しつづけるだろう。
検察は、怪しい人物に対して、おそらく、こうだろうというストーリーを組み立てる。(マスコミもそうだが)まず憶測のストーリーをつくることから始める。
それを悪いように言う人もいるが、それは違う。
最初にストーリーを組み立ててみるのは悪い事ではない。というより、(それしかない、と言ったら言い過ぎになるが)それが一番、立件に踏み切る確実な方法だからだ。
警察の捜査にしたって、あくまで、犯人の「動機」というものを第一に考える。し、「動機」を第一に考えるべきだ。
大切なことは。最初に検察が作ってみたストーリーは、あくまで、「仮説」であるという自覚をしっかり持っていなくてはならない、ということだ。捜査していくうちに、「仮説」でつくってみたストーリーが、どうも怪しい、と思われてきたら、最初につくった「仮説」を捨てて、あらたに、捜査によって見つかった証拠を元に、別のストーリーの「仮説」をつくらなくてはならない、ということである。
学者の研究方法というのは、これである。まずある研究対象の妥当性から、ある「仮説」を立ててみる。そして実験する。そして、実験の結果、「仮説」が間違っていたら、「仮説」を取り消し、あらたな「仮説」を立ててみる。そして実験する。この無限の繰り返しが、学問である。
私は検察官の心理はわからない。
しかし、検察の誤りは、最初に「仮説」のストーリーを立てて、捜査していくうちに、「これは違うんではないか」と気づいても、学者のように、最初に立てた「仮説」を撤回するということをしない点にある。
どうして検察は、「仮説」の撤回をしないのか。
考えられることとしては。
(1)まず、そもそも検察組織は学者ではない、ということである。
(2)検察官のプライド。検察官は、「オレ様は司法試験に通ったエリートなんだ。優秀な人間なんだ。その頭のいいオレ様の推理が間違うはずはない」というケチなプライドにしがみついている、ということが考えられる。最初につくった「仮設」を否定するということは、自分の誤りを認めることである。(人間は誰でも、自分の誤りは認めたくないものである)ましてや、司法試験に通った社会的に地位の高い検察官では、自分の誤りを素直に認めようとせず、目をそらそうとするだろう。(学者でもプライドの強いヤツは、自分のつくった仮説を否定せず、何としても、それにしがみつくのもである)
(3)正確な捜査をするのは面倒、という検察官の怠慢。検察官はプライドが高い。最初につくった「仮説」のストーリーが、捜査によって、「どうも違うんじゃないか」とわかってきても、あらためて、1からやり直すのは、面倒くさい。間違っているとわかっていても、最初に立てた「仮説」のストーリーを無理矢理、押し通してしまえ、という、いいかげんな態度になっているのではないか。これも当然、自分は検察官というプライドによる所が大きいように思う。公務員の仕事というのは、長くやっているうちに、だれてきて、惰性になりやすい。人の命がかかっている事でも、他人事だから「そんな事どうでもいいじゃないか」という怠惰な気持ちになりやすい。「公務員はサボる」これは間違いない鉄則である。
(4)検察官の人事、出世と関係しているのだろう。検察も公務員の一つの組織である。迅速に多くの事件を処理する検察官が有能な検察官として評価されて、早く出世するのだろう。たとえズサンな処理であっても。そんなことはどうでもいいことなのだろう。
要するに、検察組織というものは、傲慢で、プライドだけ高く、ずさんで、決め付け捜査をし、捜査の途中で、自分らに間違いがあることに気づいても、自分らのメンツのために無実の人間を罪人にしてしまう組織であるということである。
今回の厚生労働省の村木厚子元局長に対しても、
「どうせ官僚なんて善人ヅラしてても悪いことをしてるんだろう。むしろ善人ヅラしてるヤツに限って怪しい。性格がおとなしいヤツは正義感もたいして無いだろうから賄賂をもちかけられたら受けとるだろう、官僚が何か積極的に頑張っている裏には必ず金の見返りがあるだろう」
とアホ検察は決め付けたのだろう。
検察の問題は、検察に対してブレーキをかける公的機関が無いということである。
それを悪いように言う人もいるが、それは違う。
最初にストーリーを組み立ててみるのは悪い事ではない。というより、(それしかない、と言ったら言い過ぎになるが)それが一番、立件に踏み切る確実な方法だからだ。
警察の捜査にしたって、あくまで、犯人の「動機」というものを第一に考える。し、「動機」を第一に考えるべきだ。
大切なことは。最初に検察が作ってみたストーリーは、あくまで、「仮説」であるという自覚をしっかり持っていなくてはならない、ということだ。捜査していくうちに、「仮説」でつくってみたストーリーが、どうも怪しい、と思われてきたら、最初につくった「仮説」を捨てて、あらたに、捜査によって見つかった証拠を元に、別のストーリーの「仮説」をつくらなくてはならない、ということである。
学者の研究方法というのは、これである。まずある研究対象の妥当性から、ある「仮説」を立ててみる。そして実験する。そして、実験の結果、「仮説」が間違っていたら、「仮説」を取り消し、あらたな「仮説」を立ててみる。そして実験する。この無限の繰り返しが、学問である。
私は検察官の心理はわからない。
しかし、検察の誤りは、最初に「仮説」のストーリーを立てて、捜査していくうちに、「これは違うんではないか」と気づいても、学者のように、最初に立てた「仮説」を撤回するということをしない点にある。
どうして検察は、「仮説」の撤回をしないのか。
考えられることとしては。
(1)まず、そもそも検察組織は学者ではない、ということである。
(2)検察官のプライド。検察官は、「オレ様は司法試験に通ったエリートなんだ。優秀な人間なんだ。その頭のいいオレ様の推理が間違うはずはない」というケチなプライドにしがみついている、ということが考えられる。最初につくった「仮設」を否定するということは、自分の誤りを認めることである。(人間は誰でも、自分の誤りは認めたくないものである)ましてや、司法試験に通った社会的に地位の高い検察官では、自分の誤りを素直に認めようとせず、目をそらそうとするだろう。(学者でもプライドの強いヤツは、自分のつくった仮説を否定せず、何としても、それにしがみつくのもである)
(3)正確な捜査をするのは面倒、という検察官の怠慢。検察官はプライドが高い。最初につくった「仮説」のストーリーが、捜査によって、「どうも違うんじゃないか」とわかってきても、あらためて、1からやり直すのは、面倒くさい。間違っているとわかっていても、最初に立てた「仮説」のストーリーを無理矢理、押し通してしまえ、という、いいかげんな態度になっているのではないか。これも当然、自分は検察官というプライドによる所が大きいように思う。公務員の仕事というのは、長くやっているうちに、だれてきて、惰性になりやすい。人の命がかかっている事でも、他人事だから「そんな事どうでもいいじゃないか」という怠惰な気持ちになりやすい。「公務員はサボる」これは間違いない鉄則である。
(4)検察官の人事、出世と関係しているのだろう。検察も公務員の一つの組織である。迅速に多くの事件を処理する検察官が有能な検察官として評価されて、早く出世するのだろう。たとえズサンな処理であっても。そんなことはどうでもいいことなのだろう。
要するに、検察組織というものは、傲慢で、プライドだけ高く、ずさんで、決め付け捜査をし、捜査の途中で、自分らに間違いがあることに気づいても、自分らのメンツのために無実の人間を罪人にしてしまう組織であるということである。
今回の厚生労働省の村木厚子元局長に対しても、
「どうせ官僚なんて善人ヅラしてても悪いことをしてるんだろう。むしろ善人ヅラしてるヤツに限って怪しい。性格がおとなしいヤツは正義感もたいして無いだろうから賄賂をもちかけられたら受けとるだろう、官僚が何か積極的に頑張っている裏には必ず金の見返りがあるだろう」
とアホ検察は決め付けたのだろう。
検察の問題は、検察に対してブレーキをかける公的機関が無いということである。
民主主義、自由主義経済。自由主義経済の国というのは、ある意味、恐ろしい。国家と国民の関係を、国家=親。国民=子。と、たとえると、親は子に、全く自由に生きることを許しているようなものだ。親は子に何の拘束力も、何の権限も持たない。というより、それを自分の意志で捨ててしまっているのである。躾というものがない。しかし親(国家)は子(国民)が幸せになってくれる事を心の底から願っている。そして親孝行もして欲しいと思っている。そんな変な家庭である。それで親(国家)の役割といったら、必死で、「こっち(日本)の水は甘いよ」と、色々な手を打ち、子(国民)が、自分の意志で、日本のために一生懸命、働く意志を持つ人間になるよう仕向けているような政治形態である。しかし子は親の色目に従うとは限らない。実に恐い。
鎖国をしていた徳川260年の方が、遥かに安定した経済体制である。何と260年も政権が安定し、他国に依存せず、自給自足の生活が出来ていたのだから。(もっとも、百姓の生活は悲惨を極めたし、一揆や、打ち壊しなども、無数にはあったが)しかし政権も経済も安定した国家であったことは間違いない。ジャッキーチェンは、「完全な自由は危ない」という発言をして、アジアでは顰蹙をかったらしいが、かなり政治を見る目がある。「人間の自由は決して奪ってはならない。たとえ、その結果、野垂れ死にしようとも」というのが、民主主義、自由主義経済の根本思想だが。しかしその結果、何が起きたか。バブル崩壊で日本の経済はガタガタになった。企業は、安い労働力を求め海外進出し、国内の産業は空洞化した。もはや日本一国では独立して生きられず、外国に依存し、外国との狡猾な関係を、絶えず無い知恵絞って考え続けなくてはならなくなった。実に、日本という国家を維持するのに、ややこしくなった。自由主義経済は綱渡りのような危険な状態に絶えずさらさられている。明治維新の時、開国か攘夷かをせまられて、日本は開国の道を選んだが、はたして、あらゆる面でそれがよかったか、と言えるであろうか。人間は自由になると、やりたい放題のことをやり、怠け、自分の利益になることだけを考えて行動する。世界と隔絶された未開の土地の、文明化されていない一部の部族には、生活は不便であっても衣食住の生活や、その部族の団結、維持が壊れることはないのだ。あるいは。サル社会を見よ。何と役割分担がしっかり、なされていることか。ギリシャはとうとうサル以下になった。はたして日本もサル以下になるか。少なくとも、なる可能性は十分ある。なぜなら。維新の志士達にとっては、日本の安泰が自分の命以上に大切なものだったからだ。しかし、今の日本の政治家に、そんなヤツが一人でもいるだろうか。世襲議員が大半を占める今の政治家にとっては、選挙に立候補するということは、地盤、看板、カバンを親から引き継げるから、非常に有利な上級公務員に就職してみようという就職口の選択肢の一つに過ぎない。
鎖国をしていた徳川260年の方が、遥かに安定した経済体制である。何と260年も政権が安定し、他国に依存せず、自給自足の生活が出来ていたのだから。(もっとも、百姓の生活は悲惨を極めたし、一揆や、打ち壊しなども、無数にはあったが)しかし政権も経済も安定した国家であったことは間違いない。ジャッキーチェンは、「完全な自由は危ない」という発言をして、アジアでは顰蹙をかったらしいが、かなり政治を見る目がある。「人間の自由は決して奪ってはならない。たとえ、その結果、野垂れ死にしようとも」というのが、民主主義、自由主義経済の根本思想だが。しかしその結果、何が起きたか。バブル崩壊で日本の経済はガタガタになった。企業は、安い労働力を求め海外進出し、国内の産業は空洞化した。もはや日本一国では独立して生きられず、外国に依存し、外国との狡猾な関係を、絶えず無い知恵絞って考え続けなくてはならなくなった。実に、日本という国家を維持するのに、ややこしくなった。自由主義経済は綱渡りのような危険な状態に絶えずさらさられている。明治維新の時、開国か攘夷かをせまられて、日本は開国の道を選んだが、はたして、あらゆる面でそれがよかったか、と言えるであろうか。人間は自由になると、やりたい放題のことをやり、怠け、自分の利益になることだけを考えて行動する。世界と隔絶された未開の土地の、文明化されていない一部の部族には、生活は不便であっても衣食住の生活や、その部族の団結、維持が壊れることはないのだ。あるいは。サル社会を見よ。何と役割分担がしっかり、なされていることか。ギリシャはとうとうサル以下になった。はたして日本もサル以下になるか。少なくとも、なる可能性は十分ある。なぜなら。維新の志士達にとっては、日本の安泰が自分の命以上に大切なものだったからだ。しかし、今の日本の政治家に、そんなヤツが一人でもいるだろうか。世襲議員が大半を占める今の政治家にとっては、選挙に立候補するということは、地盤、看板、カバンを親から引き継げるから、非常に有利な上級公務員に就職してみようという就職口の選択肢の一つに過ぎない。
食欲の秋である。私はあんまり食欲ないけど。
焼き肉を安くうんと食べる方法。
食べ放題の、焼き肉屋では、90分以内に食べなくてはならない、というルールがあるところがほとんどである。90分では、食べられる量が限られているし、急いで食べると満腹中枢が刺激されて、おいしく食べられない。
では、安く思う存分食べるにはどうすればいいか。
それは、時間制限の無い普通の焼き肉屋に行って食べるのである。肉はロースを一皿だけ注文する。そして、あらかじめスーパーで、ロースをたくさん買っておいて、カバンに入れておき、ロースを食べ終わったら、カバンからスーパーで買ったロースを店員に見つからないように、そっと出し、店の七輪で焼いて食べるのである。スーパーの冷凍の焼き肉なら、安い。今度、これをやってみようかしらん。店員に見つかったら、怒られるだろうな。
焼き肉を安くうんと食べる方法。
食べ放題の、焼き肉屋では、90分以内に食べなくてはならない、というルールがあるところがほとんどである。90分では、食べられる量が限られているし、急いで食べると満腹中枢が刺激されて、おいしく食べられない。
では、安く思う存分食べるにはどうすればいいか。
それは、時間制限の無い普通の焼き肉屋に行って食べるのである。肉はロースを一皿だけ注文する。そして、あらかじめスーパーで、ロースをたくさん買っておいて、カバンに入れておき、ロースを食べ終わったら、カバンからスーパーで買ったロースを店員に見つからないように、そっと出し、店の七輪で焼いて食べるのである。スーパーの冷凍の焼き肉なら、安い。今度、これをやってみようかしらん。店員に見つかったら、怒られるだろうな。
家畜人ヤプーはマゾヒズム小説ではない。
確かに、家畜人ヤプーはマゾヒズム小説である。しかし、私は氏の感覚の根本の重要な部分をマゾヒズムだとは思っていない。もっともマゾヒズムという言葉が適切かどうかは思わないが。私流の感覚では。現実を変える、というのは、能動的行為である。たとえ小説という空想の世界でも。サディストは能動的行為をとる。自分の理想の世界で、性器を鼻につけるなどという現実を無視した行為は、能動の極地である。私流の感覚では。マゾヒズムとは、絶対的に現実を受け入れなくてはならない、と思うからである。どんなに受け入れたくないものでも。あくまで現実の条件の中で、空想の世界を構築しなくてはならない、と私は思うからである。この苦悩にエロティシズムもある。もちろん私は、女の生理を嫌う。生理などというものはなければいいと思う。また女の成長、加齢を私は嫌う。しかし私は、空想においても、女に生理がなかったり、加齢しなかったりする世界に私は満足することが出来ない。それは非常な苦しみだが、それをしたら、女が女でなくなってしまうからだ。それは安直な手法だ。嫌なものは見なければいい。嫌な部分は描かなければいい。私は最終的に、自分の世界を、行動ではなく、自分の認識を限界まで変えることによって変えなくてはならない、と思っている。
確かに、家畜人ヤプーはマゾヒズム小説である。しかし、私は氏の感覚の根本の重要な部分をマゾヒズムだとは思っていない。もっともマゾヒズムという言葉が適切かどうかは思わないが。私流の感覚では。現実を変える、というのは、能動的行為である。たとえ小説という空想の世界でも。サディストは能動的行為をとる。自分の理想の世界で、性器を鼻につけるなどという現実を無視した行為は、能動の極地である。私流の感覚では。マゾヒズムとは、絶対的に現実を受け入れなくてはならない、と思うからである。どんなに受け入れたくないものでも。あくまで現実の条件の中で、空想の世界を構築しなくてはならない、と私は思うからである。この苦悩にエロティシズムもある。もちろん私は、女の生理を嫌う。生理などというものはなければいいと思う。また女の成長、加齢を私は嫌う。しかし私は、空想においても、女に生理がなかったり、加齢しなかったりする世界に私は満足することが出来ない。それは非常な苦しみだが、それをしたら、女が女でなくなってしまうからだ。それは安直な手法だ。嫌なものは見なければいい。嫌な部分は描かなければいい。私は最終的に、自分の世界を、行動ではなく、自分の認識を限界まで変えることによって変えなくてはならない、と思っている。
「押尾学氏になぜ反省の気持ちが起こらないか1」のつづき。
さて、1では、まわりくどく考察してみた。しかし、これは結果として押尾氏に非常に有利な言い訳のヒントを与えてしまったようなものである。公平を期すため、そういう仮説も立ててみる必要があると思ったからである。
ともかく、押尾氏と田中さんが、どういう関係だったか、ということは非常に重要なことだと思う。
ぶっちゃけた話、私は押尾氏が田中さんの意思を酌んで隠蔽工作した、などとは全く思っていない。あんな下等な軽率児にそんな気持ちが起こるはずはないと思っている。
押尾氏は不慮の事故で、自分の将来を失うのが死ぬほど嫌だったから、何としても隠蔽工作しようとしたのだと私は思っている。つまり100%自分の保身のためである。
「こんな一介のセックスフレンドに過ぎない女のために、俳優としての自分の将来を失いたくない」
というのがプレイボーイ押尾の本心だと確信している。自分は人気があり、これからも人気が伸びる俳優であり、田中香織は、名もない一介のホステスに過ぎない。オレの命の方が大切だ、こんなヤツ(田中香織)は死んでもたいした事はない、という命の重さに対する差別意識が圧倒的に強くあったと私は確信している。
ではなぜ田中香織はそんなヤツを好きになったか。
女はどんな男に惚れるだろう。もちろん人によって違う。しかしメガネをかけた痩せた東大出の青白いインテリ官僚に女は惚れるだろうか。たとえ彼が真面目で純粋な性格であったとしても。惚れる場合もあるだろう。しかし、やはり女は学歴やつまらない真面目さより、イケメンで、体格が逞しく、垢抜けていて、話が面白く、みてくれが格好いい男の方に惹かれるのではないか。傲慢でワルッぽい性格も、逞しくて、不屈の強い性格と見えるのではないか。誠実で弱っちろい性格より、ワルっぽい性格には不敵なワイルドさを女は感じるのではないか。傲慢さにも魅力はある。そして、実際、押尾は精神的に強い。真面目一本やりな性格より、チャランポランな性格の方が、女は悪ガキの魅力を感じて母性本能をくすぐられるのではないか。
押尾についてるカス弁護士も、まあせいぜい頑張りな。押尾は自然体でいいかげんなのである。それが一部の女にとって押尾学の魅力になっているのである。
と私は推測する。
さて、1では、まわりくどく考察してみた。しかし、これは結果として押尾氏に非常に有利な言い訳のヒントを与えてしまったようなものである。公平を期すため、そういう仮説も立ててみる必要があると思ったからである。
ともかく、押尾氏と田中さんが、どういう関係だったか、ということは非常に重要なことだと思う。
ぶっちゃけた話、私は押尾氏が田中さんの意思を酌んで隠蔽工作した、などとは全く思っていない。あんな下等な軽率児にそんな気持ちが起こるはずはないと思っている。
押尾氏は不慮の事故で、自分の将来を失うのが死ぬほど嫌だったから、何としても隠蔽工作しようとしたのだと私は思っている。つまり100%自分の保身のためである。
「こんな一介のセックスフレンドに過ぎない女のために、俳優としての自分の将来を失いたくない」
というのがプレイボーイ押尾の本心だと確信している。自分は人気があり、これからも人気が伸びる俳優であり、田中香織は、名もない一介のホステスに過ぎない。オレの命の方が大切だ、こんなヤツ(田中香織)は死んでもたいした事はない、という命の重さに対する差別意識が圧倒的に強くあったと私は確信している。
ではなぜ田中香織はそんなヤツを好きになったか。
女はどんな男に惚れるだろう。もちろん人によって違う。しかしメガネをかけた痩せた東大出の青白いインテリ官僚に女は惚れるだろうか。たとえ彼が真面目で純粋な性格であったとしても。惚れる場合もあるだろう。しかし、やはり女は学歴やつまらない真面目さより、イケメンで、体格が逞しく、垢抜けていて、話が面白く、みてくれが格好いい男の方に惹かれるのではないか。傲慢でワルッぽい性格も、逞しくて、不屈の強い性格と見えるのではないか。誠実で弱っちろい性格より、ワルっぽい性格には不敵なワイルドさを女は感じるのではないか。傲慢さにも魅力はある。そして、実際、押尾は精神的に強い。真面目一本やりな性格より、チャランポランな性格の方が、女は悪ガキの魅力を感じて母性本能をくすぐられるのではないか。
押尾についてるカス弁護士も、まあせいぜい頑張りな。押尾は自然体でいいかげんなのである。それが一部の女にとって押尾学の魅力になっているのである。
と私は推測する。