小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

押尾学氏になぜ反省の気持ちが起こらないか1

2010-09-18 18:14:09 | Weblog
それは、(押尾氏の視点から見ると)押尾氏は田中さんと合意した上でドラッグセックスしたのであり、さらに、これは不測の不可抗力の事故である。運が悪かったに過ぎない、という思いがあるからだろう。
田中さんも、押尾氏とのセックスを楽しみにしていたのだから、押尾氏の、相当なファンだろう。(男が女にメロメロに惚れて、その女のためになら死んでもいい、という感情になることはあるだろう。その気持ちの現実性がどの程度かは人それぞれだが、本当の恋愛なら相手のために死んでもいいと本気で思うこともありうるだろう)押尾氏の場合は、その逆だったのだろう。つまり、田中さんが、押尾氏に惚れていたのだろう。押尾氏が田中さんをどう思っていたかはわからないが、押尾氏は田中さんを、自分を慕ってくる女と見ていたのではないか。つまり男の方が上位である関係だったと思われる。つまり、仲のいい二人の男女の間に起こった不慮の事故と、押尾氏はとらえただろう。
死んだ田中さんの思いはわからない。ここで二つの仮定を立ててみる。
(1)田中さんは、押尾氏を好いてはいるが、軽いセックスフレンドの感覚であり、押尾氏のために死んでもいい、というほどの愛情は持っていなかった。本心ではセックスという遊びでの事故で死ぬなんてまっぴらであって、セックスが終われば、本当の恋をして幸せな家庭を持ち、何としても生きたいと思っていた。
(2)押尾氏は田中さんにとって、(本気で)死んでもいいほど、惚れていた相手だった。押尾氏のためになら死んでもいいと思うほど本気で惚れていた。つまり本気かつ狂気の愛だった。
と仮定してみる。
押尾氏は、田中さんの気持ちを(2)である、と、とらえてしまったのではないか。
死んだ田中さんは押尾氏にどういう思いを持ったであろう。
(1)であると、仮定するならば、田中さんは、真っ青になって、「お願い。早く救急車を呼んで。私、まだ死にたくない」と叫んだだろう。
(2)であると仮定すると、「私はもう助からないわ。あなたのために死ぬのなら幸せだわ。それより、あなたは、多くのファンのいる将来のある俳優でしょ。私はつまらない一介のホステスに過ぎないわ。こんな事がスキャンダルになったら、あなたの未来は終わりだわ。こんな事故のためにあなたの一生を棒に振るのは、私、つらいわ。私の死は隠してちょうだい」と、訴えただろう。
押尾氏は田中さんの思いを(2)であると、かってに、とらえてしまったのではなかろうか。だから死者の思いを酌む意図もあって、必死で不慮の事故の隠蔽工作に走ったのではないだろうか。(もちろん、氏の自己中心的な性格からして、死者の意図を酌む、という以上に、自分の地位を失いたくない、という自分かわいさがあったことも間違いない)
ただ、やっかいなのは、セックスの最中の事故である、ということである。セックスの最中は男女共に、日常の全てを忘れ、快楽におぼれている感覚である。落ち着いた、冷静な感覚ではない。
では、落ち着いた感覚の時、事故が起こっていたら、どうだっただろう。
たとえば、押尾氏と田中さんが、ジャンボジェット機に乗っていて、飛行機に故障が起こって、死ぬかもしれないというような事態になったら、田中さんはどう思ったであろう。
(1)の方なら、田中さんは、「死にたくない。死ぬのは怖い」と泣き叫んだだろう。
(2)の方なら、田中さんは、「あなたと一緒に死ねるのならば、私、無上の幸せだわ」と思っただろう。

「押尾学氏になぜ反省の気持ちが起こらないか2」につづく

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押尾学6

2010-09-18 05:13:53 | Weblog
押尾学に懲役二年六ヶ月の判決が言いわたされた。それを不服として控訴するという。

氏は白痴である。まるでダタッ子のようである。
判決の軽重の不当性を憤って、というより
「刑務所入るのいやだー。もう拘置所くらしで疲れた。もうヘトヘトに疲れたんだから、ゆっくり、のんびりしたい」
というのが、控訴の理由だろう。
控訴して有利な判決が出ることは絶対ない。

氏が心臓マッサッージをしたであろうことは、私は証人の発言と事実関係から、99%確信している。しかし、それがなんなのだ。そんなのは119番するまでの、つなぎに過ぎない。119番と、救急車が来るまでの時間の救命措置の両方をして、はじめて、「遺棄」ではないといえるのだ。一般人の救命措置の知識は、人によって違う。だから心臓マッサージの知識に自信がなかったら、しなくても全く問題ない。たとえ救急のベテラン医が押尾氏の立場であっても、気道確保と心臓マッサージと人工呼吸だけで心肺停止の患者を蘇生させることは不可能である。119番するのが当たり前である。叙細動、ルート確保、昇圧剤投与、等等、医療器具がなくては死ぬに決まっている。

氏はクリスチャンで毎日、マリア様に、田中さんの冥福を祈っていたなどと、見え透いたしらじらしい大偽善を吐いているが、祈っていたのは、田中さんの冥福、ではなく、てめえの無罪判決だろうが。

裁判員制度は問題がある。裁判官の判決は検察に偏りがちだが、それでいいじゃないか。被告が不服なら控訴できるのだから。

今回の判決は、田中香織さんの両親、押尾被告、医師、世間、全ての人を納得させるための八方美人的判決に見える。

刑務所、入ったってロックは出来るぞ。エルビス・プレスリーの「監獄ロック」は面白いじゃないか。

何事でも、二人の人間が発言する時には、後で発言した人間の発言の方が、前に発言した者の発言より重みを持ってしまうのだ。

検察側の救急の専門医は、都心だから、色々な薬物の中毒患者の救急の事例も多いはずだ。

押尾側の証人の医者は、覚醒剤中毒については多くの症例を見て詳しいが、合成麻薬MDMAに関しては、事例が無く、文献だけを根拠に発言している。

致死、かどうかは、もっともっと多くの薬物中毒、救急医療の専門家の討論によって決定されるべきだ。医者は100人いれば100通りの意見を言うものである。

だいたい、押尾側の医者の証人は、「血中濃度はウソをつかない」とか堂々と言ってるけど、そんな致死量の三倍もの危険な量を、その薬物の危険性を全く調べないまま、ただ快感の度合いを高めるために飲ませた押尾の無責任さに罪はないのか?

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大学生の就職活動

2010-09-15 23:37:27 | Weblog
大学生の就職活動は大変である。100社も受けても一社も内定とれない学生もいる。しかもそれが大学生の平均なのだから。別に学生の方に性格的に問題があるわけではないのに。こんな日本に誰がした。今では銀行に就職しても絶対、安全とは言えない。

こうなったら、小学生のうちから親は子供に司法試験の勉強をやらせておくべきだ。そうすればまず司法試験に通る。司法試験に通れば、まず食うのに困らない。いや、司法試験でなくてもいい。弁理士、司法書士、中小企業診断士、など何でもいいから国家資格をとっておくことだ。

私が子供を産みたくないのは、私の病気遺伝子を子供に遺伝させて、子供を苦しませたくないというのが一番の理由だが、勿論、日本の雇用の問題もある。普通に生きてても職にもつけない、などという可哀想な人生を子供に送らせたくないからである。

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押尾学5

2010-09-15 23:36:13 | Weblog
押尾学に検察から懲役6年の求刑が言いわたされた。

氏はバカである。田中香織さんが異変を起こした時、119番していれば、彼女は100%近く助かっていたのである。今、彼女は生きているはずなのである。そうすれば氏は、合成麻薬所持、使用の罪だけになったから、これだけなら執行猶予がつく。たとえ田中さんが助からなく死んでいたり、後遺症が残っても、119番していれば、世間は、氏は人間としてやるべき事はやったと、そう非難しない。

事件の隠蔽と、彼女の救命とを何が何でも両立させようという無理にしがみついたから両方なくしてしまったのだ。

保護責任者遺棄致死の罪では、執行猶予がつかない。氏は、執行猶予がつかないことが耐えられず、強引に、無数のウソをついている。見苦しい限りである。往生際の悪いヤツだ。とことん、自分かわいさにしがみついている。

17日の裁判官の判決も、保護責任者遺棄致死で、懲役何年かだろう。

氏が控訴するかどうか。控訴しても二審でもまず一審の判決はかわらないだろう。

アメリカ映画「陽のあたる場所」の主人公は最高に格好良く男らしかった。
やっこさんも正直に罪を認めていれば、日本版「陽のあたる場所」の主人公になれたのだ。




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今年の夏

2010-09-13 20:17:32 | Weblog
今年の夏は猛暑で眠れなかった。西瓜をよく食べた。四分の一か六分の一カットを何度も食べた。食べた回数は忘れてしまった。合計して西瓜を丸六個くらい食べたのではないだろうか。スパイシーキーマカレードリアをよく食べた。六回くらいしか泳がなかった。しかし泳ぐ時は一時間ぶっつつけに泳いだ。過敏性腸のため、夏はテニスは出来ないので、しなかった。もっと泳げばよかった。もっとビキニの女を見ておけばよかった。なぜか咽喉があんまり渇かなく、スポーツドリンクやジュースをほとんど飲まなかった。

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死んだボール。生きたボール

2010-09-13 19:41:03 | 武道・スポーツ
テニスの練習で。
今では全く見かけなくなったオートテニスのボールは死んだボールなのである。
コーチの、球出し、でのボールも死んだボールなのである。
(ただラリーを始める時、最初に相手がベースラインから打ってくるボールは、死んだボールではない)
なぜ、球出し、のボールが死んだボールかというと。
球出し、のボールは回転のかかってないフラットであり、ボールのスピードもわかるからである。だから、球出し、のボールは理想のフォームで打てる。一方、ラリーのボールは生きたボールである。ラリーとなると理想のフォームでは打てない。
ではラリーで理想のフォームで打てるようになるにはどうすればいいか。答えは簡単。ラリーの練習をするということである。ラリーを長くつづけているうちに、必ず色々な発見を感じる。そしてフォームもラリーに順応しようと変化していく。だから、生きたボールを理想のフォームで打てるようになりたい、と思ったらラリーの練習をするべきなのである。

ただ、球出し、のボールを打つ練習が全く無意味とはいえない。その一番は、初心者には、球出し、の練習は有効である。いきなりラリーをさせるより、はじめは、球出しの練習をさせた方がいい。
また中級者、上級者でも、全く新しいこと。たとえば、今まで片手打ちバックハンドだった人が、両手打ちバックハンドを新たに身につける場合などは、いきなりラリーをやると、かえって失敗する。はじめは、球出しのボールを打つ練習を十分した方がいい。またあらかじめフォームを大きく変えようと思っている場合も、球出しの練習は効果がある。

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押尾学4

2010-09-13 19:10:51 | Weblog
今日は、チンカス野郎、押尾学の被告人質疑が行われた。

あきれて物も言えん。てめえは一体、何様だ。

私が傍聴席にいたら、隙を狙って飛び出して、あのハンチク野郎をぶん殴っていたかもしれない。

いや。あんなカス野郎、殴ると手が腐る。
まあ、せいぜい最高裁まで頑張ってウソつき続けな。

氏の病気=誇大妄想。自己中心的人格障害。

ただ私が氏の立場だったら、とっくの昔に発狂してるか、自殺してるかのどっちかだから、弱音を吐いても生きて裁判を続けている氏の度胸だけは認める。

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押尾学3

2010-09-11 21:07:52 | Weblog
押尾学の裁判が行われている。氏は何を考えているのだろうか。日本は三審制だから、最高裁までねばればいい、そうすればその間の時間は自由だ、等々と弁護士が色々と入れ知恵しているのではないだろうか。弁護士も弁護しているかぎり金が入って儲かる。保護責任者遺棄致死の有罪となったら懲役は5年以上であり、何年かは決まっていない。何年にするかは、裁判官の決める所である。裁判官の気持ち次第である。だから、反省の意思や罪悪感が無くても、涙を流して、反省の意思を表し、裁判官の心証を良くしておくべきだ。そこは押尾氏も役者であり、演技は上手く出来るだろうに。なのに氏はそれをしない。氏がどう思っているのか考察してみたい。

そもそも心臓マッサージをし、人工呼吸をした、というが、「した」というのは、本人が言っているだけで、それを見て確認している人はいない。私には、あれほどアコギな人間が、心臓マッサージや人工呼吸をしている姿は、どうしても思い浮かばない。心臓マッサージと人工呼吸を、「した」というのなら、「した」ことを証明する義務があるのではないか。

そして痙攣や白目をむく、などの異変が起こった時、氏は何を考えただろう。そういう異変が起こったら一般の人も氏も、まず気が動転するだろう。そして氏の場合、何をしたか?
何よりスキャンダルの発覚を恐れる氏にとっては、症状がおさまるかもしれない、と待った可能性も高いと思う。私は法律はよく知らないが、本人の供述だけで、氏が、心臓マッサージと人工呼吸を懸命にした、と決めてしまっていいのか?

何か一つウソをつくと、そのそのウソを正当化するために、さらにウソをつかなくてはならなくなってくる。

氏には、反省する態度が全くない。裁判中、居眠りするほどなのだから。これはどうしてか。
氏の心境をこうも考える。セックスでは女のエクスタシーは激しい。エクスタシーの時、女は、「いく」とか、「死ぬ」とか叫ぶ。快感と死は隣り合わせなのである。ドラッグを使っていれば、そのエクスタシーの度合いは、より一層、激しくなるだろう。というより激しくするためにドラッグを使ったのである。女には射精がないからセックスの快感は男より遥かに激しい。女にとっては最高の快感である。氏は、傲岸不遜な性格である。氏はツラの印刷もいい。だから、女のファンも多いのではないだろうか。オレに抱かれて死ぬのなら、女も幸せだろう、という不遜な考えも持っていた可能性もあると思う。女もセックスしている時は、「ああ。いいわ。このまま死にたいわ」という気持ちも起こりうるだろう。それを押尾氏は逆手にとって、女も最高に幸せな状況で死んでいったのだから本望だろう、という気持ちがあるのではないだろうか。だから反省する気が起こらないのではないだろうか。むしろ、オレは女を幸せにしてやった。そのオレが何で非難されなきゃならないんだ、という気持ちになっているのではないだろうか。

宗教の殉教者の心理にも似ている面もあると思う。宗教の信者にとっては、絶対者(神)のために死ぬ事が、つまり殉死することが、最高の幸せなのである。
氏は、自分は絶対者(神)であり。氏を慕う女のファンの中には、氏のために死にたいとまで思っているような女もいるのではないだろうか。そして、そういう女達を見てきているのではないだろうか。そして氏は、そういう女達の心理をしっかり感じとっていたのではないだろうか。だから自分は、女にとって良い事をこそすれ、どうして反省しなくてはならないのか、という心境なのではなかろうか。

私は氏をよく知らない。氏のドラマも一度も見た事はない。しかし氏は傲岸不遜な性格だったとある。宗教においては、絶対者(神)は、傲慢でなくてはならないのである。(キリストを見よ)頼りないとか、へりくだったとか、おとなしい性格の人間は絶対者とは成り得ないのである。傲慢な性格の氏と、氏を熱烈に慕う女のファンとの精神的な関係は、絶対者(神)と、絶対者に命まで奉げ尽くしたいと思う信者の関係に似ていたのではなかろうか。

氏を熱烈に慕うファンは男より女の方が多いのではないだろうか。
氏は今でも、自分は彼女らの絶対者である、というプライドを持っているのではないだろうか。そしてそのプライドは、氏にとって絶対的に大切なものであって、それは絶対、守り抜かねばならない、と思っているのではないか。氏はエエカッコシイの性格があるように感じる。たとえ実刑判決を下されようと、氏にとっては、そのプライドの方が大切なのではなかろうか。

また氏は、精神的に相当に強いとも感じる。(私のような)気の弱い人間だったら、とっくの昔に精神に変調をおこしているか、自殺しているか、裁判官に全てを正直に話しているか、彼女の両親に土下座して謝罪しているだろう。人間の精神的な強さ、弱さ、というのは先天的なもので変わることはないのである。

以上、私は、氏を絶対者(神)と言い、氏を慕う女を、信者と言った。
しかし私は勿論、現実には、全くそんなことは思っていない。押尾氏が女とセックスしている時にだけ、そのような関係に似ている面があると思っているだけである。つまり極端に喩えただけである。

女は確かにセックスしている時、「このまま死にたい」という快感の願望が起こっている場合もある。しかし、それはあくまでセックスという遊びの最中にだけ起こる、非現実的な遊戯的な願望に過ぎない。セックスが終わって、普段の生活に戻れば、女は絶対、「あのまま死にたかった」などとは、思わない。「何としてでも生きたい。仕事をし、人生を楽しみ、子供を産み、幸福な家庭生活を送りたい」と現実の感覚に戻るはずである。

私も、非常に好きな女性に対しては、「あの人のために死にたい」というような、空想を楽しむ事はある。しかし、それは空想という遊びの中だけである。
私は、現実には、その人のためになら死にたいなどと本気で思った女性など一人もいない。
セックスは、「愛」などという高尚な代物では、さらさらない。単なる快感を得る遊びに過ぎない。
押尾氏は、セックスという遊びと現実の愛との区別がつかなくなってしまったのではなかろうか。
というのが私の推測である。

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司法の理念

2010-09-11 21:03:16 | Weblog
「疑わしきは罰せず」が、戦後の司法の基本精神であるべきはずだ。しかし、この「疑わしきは罰せず」という言葉は間違っている。と思う。というより言葉が足りない。正しくは、「十分な証拠なく疑わしき場合は罰せず」とすべきだ。そして、「十分な証拠ありて、かつ疑わしき場合は罰してもよし」とすべきだ。そうしないと日本は犯罪天国になってしまう。

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弁護士

2010-09-11 20:59:08 | Weblog
弁護士というのは、社会的地位が高い職業である。しかし弁護士は悪質な商売に見える。裁判に勝てば自分の実績が高まり、有能な弁護士ということになる。そして高額な報酬のため、明らかに弁護する人間が悪いとわかっていても、法律の知識を総動員して、黒を白と言いくるめる仕事なのだから。弁護士は金のために良心を捨てた人間としか言いようがない。というよりも、日本の司法制度に根本的な間違いがある。としか言いようがない。

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菅直人

2010-09-10 17:15:03 | Weblog
民主党の代表選挙が近づいている。菅直人か小沢一郎か。私としては菅直人の続投に期待したい。菅直人も、ようやく野党感覚ではなく、与党の責任を感じて現実を見据えているからだ。そもそも日本の総理大臣というものは、自民党の時代から、先発ピッチャーがノックアウトされた後に、何とか与党を維持するために出すリリーフなのである。国民は、この人になら、と一縷の望みを託す。ので、就任直後の支持率は高い。そして、だんだん支持率が低下していき、この人では与党の維持が出来ないと、別の人に切り替わる。そして、一度、総理大臣をやると、この人では政治力がない、という正体が国民にばれて、国民は幻滅する。だから日本では総理大臣は一度きりしか出来ないのである。氏は政治生命をかける、と言っているし、それは氏の本心であるし、望みを託したい。菅直人は、まだ、総理になってからの期間が短く、氏の正体や実行力がわかっていないではないか。菅直人ではダメだとわかったら、他の人にすればいいではないか。
それにしても、菅直人は、若い時は、すごいハンサムだった。氏は政治家ではなく、俳優を目指した方が良かったのではないか。きっと人気のある俳優になれただろう。政界なんてドロ沼の世界に入って、野党議員として批判ばっかりしてきたから、性格もイヤミになったようにも少しは感じる。やっと悲願の総理大臣になれた時には、63歳と歳をとってしまって、赤鼻テカテカのピエロみたいになってしまったのは、極めて遺憾である。また氏は世襲議員ではなく、タタキアゲでもあるから、粘り強さもあると思う。もっと菅直人にやらせるべきだ。それに総理大臣が短期間にコロコロ変わりつづけると日本は世界の国々から馬鹿にされるそ。




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愛と誠

2010-09-10 15:28:28 | Weblog
梶原一騎の漫画、「愛と誠」のラストはハッピーエンドとは言えない。太賀誠は、砂土谷峻にナイフで刺され、漫画では、その後が分からないまま終わるが、まず助かる見込みなく、太賀誠は死ぬだろう。これは梶原一騎の感性からして、そうせざるを得ないラストである。もし、太賀誠が死なずに、早乙女愛と幸福になるような結末は、梶原一騎にとっては、耐えられないだろう。梶原は、ひたすら命がけで突き進む若さのエネルギーにのみ美しさを認めているのであり、のんびりとした安逸な幸福な生き方など嫌悪しているからだ。もし太賀誠が死なないのなら、16巻で終わりには出来ず、もっと話をつづけて太賀誠に、さらなる困難を与えなくてはならないことになる。

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鈴木宗男

2010-09-10 14:58:48 | Weblog
鈴木宗男が有罪になったのは仕方なかろう。氏は斡旋収賄という罪を知らず、それをやりまくってきたのだから。まあ、一年半くらいの懲役は氏にとって何でもなかろう。それより5年、選挙に立候補できないという事の方が可哀想に思える。立候補できるのは70歳近くになってしまう。まあ、まあ、法改正され今では10年になったのが、氏は改正以前で5年というのは、かなりの救いである。しかし、氏はバイタリティーがありあまっている人間だから出所すれば、テレビ出演や討論、講演などの依頼はあるだろう。
氏の功績は、検察の悪質な実態を世間に知らしめた事が大きいだろう。それまでも検察は悪質であることは世間に分かっていたが、大きな声で公的立場で、熱弁を奮って訴える(訴えれる)人はいなかった。氏は用意周到で、精神的にタフで、明快で、寛大で、ねちっこさが無く、ちょっと演技もし、親分気質で恐い面もあり、田中角栄の政治手法を使った政治家である。

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押尾学2

2010-09-10 14:05:11 | Weblog
押尾学が保釈された後、何の反省の色も見られず、あっけらかんとした氏の態度は全く理解できなかった。それでその理由を考えてみた。

押尾学は、田中香織さんの体に異変が起きた時、119番するどころか、何とか救急車を呼ばないよう考えていた。事件を隠蔽することに全力をあげていた。他人に自分の身代わりになれ、とまで言った。これはまともな人間の感覚ではない。外道、凶悪犯の犯人の心理である。どうして、こういう狂ったことを真っ先に考えたのか。私は、それに二つの理由があると思う。私は氏を今まで知らなかった。テレビドラマなど全く見ないので。一つは、氏は傲慢でワガママな性格だったらしい。それが、そういう行動をとった理由の一つではないかと推測する。もう一つは。芸能人、アイドルのVIP意識である。氏は俳優であり、多くのテレビ番組に出ている。主演の映画も製作された。歌手でもある。多くのファンがいる。自分は、世間に必要な人間だ、大切な人間だ、芸能界もファンもテレビ局もオレを必要としている。スキャンダルでオレを失墜させてはならない。という俳優の特権意識だったのではなかろうか。その意識にも二つの要素があって、一つは芸能界、俳優としてもっと活躍したい、のしあがりたい、天下を取りたい、もっと名声をあげたいという自分の欲望。もう一つは、自分には多くのファンもいる、テレビ局も世間もオレを必要としている。だからオレは生きなくてはならない、生きる資格がある、という特権意識ではないだろうか。一方、死んだ田中香織さんは、無名の一般人である。無名の一般人一人が死んだからといって、世の中がどうこうなるわけではない。オレは大切な人間で生きなくてはならないが彼女が死んでも、別にどうということはない、オレは生きなくてはならない大切な人間だが、田中香織という無名の一人の女の死など、どうでもいいことだ、というような命の重さに対する差別意識があったのではなかろうか。それが理由と私は推測する。

とんねるずの石橋貴明も以前、「オレ様は天上人で、お前ら(無名人)なんてゾウリムシだ」と言っていたが、芸能人の中には、自分を特別な人間だと思っているタレントが、性格が傲慢だといるものである。

だいたい私はタレントや俳優などに興味がない。ドラマや映画の役者なんて、ちょっと練習すれば、ほとんどの人が出来る。特別な能力ではない。タレントなんて、テレビにしゃしゃり出たがる性格の人間にしか過ぎない。

西川史子にしても、テレビにしゃしゃり出る決断をしたからミス日本に選ばれただけのことだ。私が医学生の時、同じクラスの女子で、どう見ても彼女よりずっと綺麗で魅力的な人がたくさんいた。彼女らがミス日本でないのは、慎ましい控えめな性格でテレビにしゃしゃり出る決断をしなかっただけに過ぎない。

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押尾学

2010-09-03 23:14:06 | Weblog
押尾学の初公判が開かれた。もちろん私は押尾学という人は知らない。私が疑問に思うのは、氏は心臓マッサージをして、やるべきことはやったといっている点である。氏は正しい心臓マッサージの仕方を知っているのだろうか?救命の時、心臓マッサージをしなくてはならない。この心臓マッサージの仕方は、肘を完全に伸ばしきって体と一体とした棒とし、体の体重全部をかけてやらなくてはならない。肋骨が折れてしまうほどの力を入れてやらなくてはならないのである。相当な力を加えてやらなくてはならないのである。オウムの時など、いくつかの映像でも見たが、一般の人は、正しいやり方で心臓マッサージはやっていない。肘を曲げて手で押しているだけである。こんなおやさしいやり方ではダメなのである。心臓マッサージは腕の力ではなく、肘を突っ張って掌を重ね合わせ、背中の体重をかけてやらなくてはならないのである。肋骨など折れてもいいのであり、また肋骨が折れるほどの力をかけてやらなくてはならないのである。
だいたい、一般の人が救急で心臓マッサージをする機会など一生に一度もないだろう。だから、正しい心臓マッサージの仕方を知ってる人など、極めて少ないだろう。

強すぎる力を加えては危険、という気持ちが起こりやすい。
私が研修医の時、三人目の指導医は、元、外科医だった。師は非常に深みのある事を言った。

「治療はアグレッシブ(暴力的)にやれ」

もっとも私はそれは聞く前から、そうあるべきだとは思っていた。しかし、医者は、ことなかれ主義の人が多いから、本当のことは、なかなか言ってくれないものである。本音を言ってくれる先生こそがいい先生である。つまり医療行為による副作用を恐れて、研修医は薬の投与しすぎを恐れやすい。そんな、おやさしい治療では、患者は死んでしまう。治療によって患者を殺すことを恐れるな、治療は堂々とやれ、という意味である。

大学の時の口腔外科の教授も非常に重いことを言った。

「医者に一度目の失敗は許される」

実に意味深い。

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