日々の疑問を語る。離れの館

ヤフーに同名の題名があったが無くなってしまった。はなれ版のつもりだったが。。 ツウィッターは「反哺の孝あり」で参加中。

二つの死

2013-06-12 00:26:23 | 日記
 祖母は祖父と結婚を決めたのは何だか安心出来るからだといっていた。それは大体言う通りになるということ。それから、眼のようなものがあるということ。更に、現代風に言えば表面上はクールなんだけど、実際は熱いものを持っているということだった。当時その眼という言葉が理解できなかったが(苦笑)


 祖母に何気なく聞いた言葉が今も忘れられない。


 そんなことを語って入る時の祖母は何時も素敵な表情をしていた。その表情が見たくて聞いたりしていた。


 そんなことを思うとき、自分が憧れる、こういう眼のようなものがある人が親身になって居てくれたらどうなっていただろうかと思い、考える事が多い。

 

 居ない場合の事実の一つとして、伯父達や伯母などの様に兄弟相争ったりしてしまう事もあるのだろう。


 
 そういう意味で、伯父伯母達はその様な導き手を失った結果に集約された結果なのだろうと思う。そしてそのドグマに私も嵌まり込んでしまったということである。


 
 幼いとき祖父は医者に成りたいといったらしい。祖父は戦争に行った先のそこでも医者に成りたかったと言っていたと謂う。別の人は負傷兵を見たからだろうとも。

 そして、戦後の負傷している人や、困っている人に一晩だけ、暖かい食事と篤心を示していたという。医者というのは非常時に、余計そうした対応をしたかったということだろう。

 
 
 私は帰還しても、そういう行為をしたというのは物凄い事で尊敬できることだと思う。しかし、父はそんなことは出来ない。したくも無いという。


 
 そんなことをして居られないという。だが、私から言わせれば「それがクリスチャンなのか?」と思う。


 
 父の行動や考えを見ていると、果たしてそれが聖書に書いてあることなのかと疑問に思い矛盾していることが多い。



 聖書を読んでみると良くそう思う。


 
 聖書は戦国時代は異端の書とされたのは有名だろう。そしてそれが、植民地支配の手段にされたことも恐らく有名ではないだろうか。秀吉が排除したことについて評価出来る点もあるように思う。wiki参照されたい。ガスパール・コエリョの辺り。 

 
 実際にそのことについて書かれている書もある。プロテシタンティズムの倫理と資本主義という本。実際に読んで行くと、妙なところがある。それが所謂逆転しているところ。前半を飛ばし気味にしたが、どこまで戻っても納得出来ない。

 
 だが、その納得出来ないのがソレなんだと理解したのだった。


 

 父もまた、眼が無いのかもしれない。 




 それは実際に起こった家庭内問題からでも読み取れる。



 問題が起こった場合の対応として、息子をその場に臨席させるというのはどういう事なのかと改めて思う。妹は居なかったが。というより、妹を臨席させなかったという方が正確だろう。私も始め断ったが父に強制された。


それが、中二の冬頃。父の醜態を目にし、母の悍ましさ浅ましさを見るのである。



結果中学から高校2年に心身に異常を来たし、入院。体は正直だ。だが当時はその様な場所も無い。その結果は自分が受けるしかない。そして、救うのは自分。そして眼も無かったので卒業後再びの邂逅。二つとも無くしている訳だ(苦笑)




何故こんな事を書いてしまったのだろうか。。

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別の段階の話として。


思うと自分は本当にエピソード記憶が得意だなと思う。


 普通そういうことが一般化してよく覚えていないという感覚に成る事が多いらしいが。切っ掛けがあると鮮明に思い出すことが多い。


 学習に関してもそうである。勉強した内容というより、勉強している状況の映像が像の様になって焼きつく。


だからその像に描かれていることは記憶している。そのようにして記憶していた。


 此れは成績の良かったらしい伯母と同じ脳構造の様だ。伯母も5番以内に入っていたとか何とか。何人中なのかは分からないが。



 
蛇足 だからなのか、昔見た映画でどこかおかしい女性を見た。女性たちというのに、その女性だけ違って見えたのだ。名前はビビ・アンデルセンという人だと後から知ったのが今回のオチとなるのかな(微笑)