弥生文化の始まったころ、倭という民族は九州、奄美群島から琉球、
朝鮮半島南端に広がっていた南方系海洋民族だった。
日本列島に散らばる民族もほぼ南方系を中心とする人種であった。
倭国もこの民族の国家である。
畿内に大和朝廷が築かれたころ、突然日本民族は騎馬民族にすり替わっている。
ここが危険な私の仮説である。
そのころ騎馬民族と言えばアジア北方民族であり、その影響を受けた中国である。
海を渡る手段をもてば、1万足らずの北方騎馬民族が朝鮮半島より日本に渡り、
一気に日本を征服するのは容易である。
少数民族支配はあの中国でも長い清朝が続いた事実がある。
弥生のころから、次々と半島経由の民族が日本に押し寄せ、
民族的にも征服者の受け入れ態勢はできていたと思える。
鎌倉時代の元寇は失敗したが、弥生時代のそれは成功していたのである。
冒頭、日本民族の疑問として日本語と顔つきといった。
南方系人種の瞼は二重である。ご存知の通り北方モンゴル系は一重が多い。
日本人は比率的に二重が多いと思う。
最近地デジになってテレビ画面の精彩度が急に上がって、毛穴まで見えるようになった。
そこに映る日本人の目を見ると一重瞼は少数派と見える。
整形手術の影響か・・。
瞼は別にしても日本人の顔つきは概して朝鮮系である。
しかし、東南アジアの少数民族の中に、
まさに日本人の特徴を備えたクリッとした目をもつ少女の顔をよく見る。
私の好みの期待論かもしれないが。
大和朝廷は北方民族の征服者説の一つの理由は、
万世1系の天皇家が典型的な一重瞼であるということである。
では、古事記・日本書紀の記述は何か。
これは口伝の継承伝説ではあるが、日本を征服した少数騎馬民族が融和策の意味もあって、
天皇史を横取りした。
朝鮮半島南端も倭人と言ったが、百済王国は倭人系で成り立ち、
言語も日本と共通であった。
百済が滅亡し、日本に逃げ伸び、その時の王が大和朝廷を作ったとも考えたが、
百済人が果たして騎馬民族といえたかどうかが疑問である。
朝鮮との交流は白村江の敗戦でその後途絶えた。
((続く))
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