我が血には博徒に山師曼珠沙華 阿部宗一郎
阿部宗一郎は関東大震災があった大正十二年生まれ。個性派揃いの小熊座にあっても、ことに異彩を放つ。十六歳で戦地に赴き、四年六ヶ月のシベリア捕虜生活を経験してもいる。そうした青年期に築き上げた精神性は、鬼房や六林男など大正八年組と呼ばれた戦中派に相通ずるものといっていい。それにしても、宗一郎の八方破れの反骨精神には、感嘆しながら時折辟易しそうになる。たぶん、それは私に、平和な時代のみを安閑と生きてきた戦後生まれの脆弱さがあるからだろう。
しかし、掲句のような向日的開き直りに出会うと、まさに喝采を送りたくなってくる。「博徒」に「山師」と並べながら、けっして卑下しているのでも恥じているのでもない。
むしろ、誇ってさえいるわけだ。開き直りと不用意に言ったが、これは根拠のない開き直りではない。もともと俳句作りなどは、一か八かの天任せ。しかも名句になるなど金塊を掘り当てるよりも難しい。現にこれまで気が遠くなるほどの数の句が生まれ出ている。にも関わらず自分だけにしかない言葉の世界が存在すると固く信じて俳句を作り続けるのだから、実は俳人は博徒以上の博徒、山師以上の山師というべきかもしれない。
またの世は旅の花火師命懸 佐藤鬼房
という句も、同じ思いから生まれたと思っている。俳諧師も、博徒や山師と同じように諸国を流浪して歩く旅人であったことはいうを待たないであろう。この句に配合された曼珠沙華が、流浪、疎外に相通ずるのは、「長崎物語」のじゃがたらお春、それに渡辺白泉の〈まんじゅしゃげ昔おいらん泣きました〉など先行作品のせいだろうか。それもあるが、捨子花、死人花と呼ばれるこの花が、もともと異界のイメージを醸し出しているせいだろう。
ついでに記しておくというわけでもないのだが、たまたま名古屋に所用があって出かけた。その折、岐阜まで足を伸ばし、岐阜城を下って公園に降りてくると「狂俳発祥之地」という碑と出会った。そういえば名古屋は狂俳が盛んだったと今更ながら思いあたった。
狂俳とは、いわゆる冠付け。題として出された上五に中七下五を付けるという遊戯性の高い俳諧の一種で、江戸時代後期に流行った。内容は通俗的なものが多い。しかし、庶民のエネルギーにあふれている。そうした精神を上田三四二の言葉に倣えば「底荷」としたところにこそ現在の俳句ありとも思った。底荷としながら高い詩性を積み上げた巨船を、これからの俳句は目指すべきなのである。
〈高野主宰の好句鑑賞〉
フィギュアスケートの選手たちはみな水鳥のようだ 羽生くんはもう10年ほど見ているのだが やはり白鳥としか思えない すでに27歳か 北京五輪ガンバってほしい🐁