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好きになるタイプ、引かれる異性というのは潜在意識の中にインプットされているのでしょうか?

2005-11-14 05:16:24 | 恋愛・失恋・不倫・性の悩み・セクハラ


好きになるタイプ、

引かれる異性というのは

潜在意識の中に

インプットされているのでしょうか?



僕の書いた次の記事(『レンゲさんがすばらしい人とめぐり合えるように!』)にSO-NETのアヤキングさんから次のようなコメントをもらいました。


こんばんは、ayakingです。

先日、短大時代の友人に久しぶりに会いました。

その友達の歴代彼氏はだいたい知ってるのですが、いつもちょっと変わった人と出会ってしまうようです。
ちょっと女性的な感じの人。
なよなよっとした人という意味で女性の心を持ってるという意味ではないです。

2年くらい前の彼はとってもわがままで仲良く遊んでると思えばちょっとした一言で逆上するような人でした。
その彼は実家の九州に戻ると言って去っていったそうです。
友達を連れて(結婚する)戻ると思ってたのですが、独りで帰りました。

今回の彼もちょっと変わった人で友達が熱を出して寝込んでるときに
「連絡のひとつのくれないのはおかしい、他の男と会ってるんだろ?」
と言ってくるような人です。

ayakingはそれは怖いタイプの人だから別れたほうがいいと伝えました。
まだ付き合って3ヶ月って言ってたので。。。

こういった人って逆上するとなにするかわからないから怖いですよね。

好きになるタイプ、引かれる異性というのは潜在意識の中にインプットされているのですかね?

ayakingは独身時代、苗字と住所(町の名前)は絶対に男性には教えませんでした。
付き合っていってから素性が分かったら教えました。
だから家まで送ってもらうなんて絶対しなかった。
遠い駅で降ろしてもらってタクシーで帰ってました。

年齢と住んでる町が分かれば卒業アルバムからバレてしまうのです。
以前は住所と電話番号が載ってましたから。
今は載ってないみたいですよ。
苗字と住所がわかると電話帳でばれてしまうのです。

これは自分が怖い思いをしたから身に付けた防御策です。

友達は家は知られてると言っていたので心配です。

by ayaking (2005-11-12 21:48)


アヤキングさん、いつもインスピレーションを与えてくれるコメントを書いてくれてありがとう。

最近は、“公開抗議文”だとか、“ブログ削除”だとか、“公衆便所の落書き”だとか。。。
インスピレーションを掻き立てるような話題がなかったので、サビシ~思いをしていたんですよ。

そういう時に、上のようなコメントをもらったので砂漠を歩いていてオアシスを見つけたような気分です。
スキップしたくなってしまいました。


例によって全文を引用させてもらいました。
僕の理解しやすいように改行などした箇所があります。あしからず。

コメントを読んだ最初の印象は、
アヤキングさんが“石橋をたたいて渡るように”慎重な男女関係を持つ人なんだなああああ、と感心したり驚いたりでした。

しかし、考えてみれば、レンゲさんのように衝動的に“幼児的な触れ合い”を求めるようにして関係を結ぶよりも“石橋をたたいて渡る”方が失敗は格段に少ないですよね。

近頃は“出会い系の恋愛”がはやっているようですからね、10代や20代の人には、ぜひとも“石橋をたたいて渡”って欲しいですね。
これまでに出会い系で出会って、挙句の果てに殺された女性がかなり居ましたからね。

僕の個人的な経験で言えば、僕は身元の分からない女性とは付き合ったことがないですよ。
だから付き合う女性にはクラスメートだとか、同じ職場の女性が多かったですね。
また、親戚を通じた家族ぐるみの付き合いから、従妹の友達やその友達などが僕の家に遊びに来たり、また相手の家に遊びに行ったり、そういうような形で付き合いが始まりましたね。
だから相手のお父さんやお母さん、兄弟姉妹まで知った上での付き合いになる事が多かったですよ。
そういうわけで、アヤキングさんが“石橋をたたいて渡る”ような事は初めからありませんでした。

僕の妻は従妹が大学時代の友達だった女性です。

ところで、高校時代の恩師が良く言っていたんですよ。

“君たちもやがては結婚するだろう。見合いか恋愛か、それは人それぞれだろうが、一つだけ君たちのために言っておきたい事がある。”

僕は男子校の生徒でした。
普段女の話などしない先生がそういうことを言い出すものだから、クラス50人の生徒が、一瞬シーンとして先生が何を言うかと固唾(かたず)を呑んでじっとしていたのを、今でも鮮明に覚えていますよ。

“お母さんをじっくりと見ることだよ。
年を取ったら、そのお母さんのようになる。
女の子はお母さんをモデルにして育つからね、お母さんがダメだったら、やめておいたほうがいい”

“先生、母親と結婚するわけじゃあないでしょう”と茶化した奴が居たけれど、僕は“なるほど~”と感心して聞いたものでした。

従妹と僕の妻は東京の女子大で学んだのですが、僕の妻の実家は京都でした。
僕の実家は埼玉です。
従妹と一緒に2度ほど妻の実家に行ったことがありました。

その当時僕はもちろん現在の妻と将来結婚しようとは思っていませんでした。
ただし、高校時代の恩師の言葉が頭にこびりついていたんですね。
だから、僕は妻の挙動よりも妻のお母さんの方に関心が向いたわけですよ。

このお母さんがたいした女性なんですね。
僕は歴史馬鹿ですから、京都という“古都”に対する“憧れ”のようなものがどこかにある。
つまり、紫式部だとか清少納言だとか、そのような昔のすばらしい女性たちが、なんとなく京都に住んでいたというような思い込みがあるわけです。
そのすばらしい昔の女性たちと妻のお母さんを重ねているようなところがあった。

それには理由があるんですよ。
そのお母さんたるや書道が3段。
活花は免許皆伝。
お茶は表千家の免状を持っている。
しかも、和歌もたしなむ。
それで美人なんですよ。

僕は当時年上の女性、というより熟女に憧れのようなものを持っていました。
だから、このお母さんに近寄りがたいものを感じるとともに、どうしようもなく惹きつけられるものをも感じました。
このお母さんと居ると僕は緊張の連続でしたよ。

でも、この人は、もの当たりの柔らかい、例えれば38歳ぐらいの八千草薫さんという感じなんですね。
人の接し方にそつがない。
しかも京都言葉で、なんとなく品がいい。
それに、家にしろ庭にしろ京都の旧家だけあって格調がある。

こういう雰囲気の中で浅黄色の着物を着て、何やかやと僕をもてなしてくれるわけです。
一度、京都のキツネうどんを出されました。

はっきり言って薄味で“関東の濃い味”に馴染んでいる僕の舌には、実に不味いんですよ。
でも、このお母さんが作ったものだと思うから、“これが本当の上品な味というものなのかあああ~”と妙な感心の仕方をしてしまう!

(ずっと後になってから妻にボロクソに言われましたよ。
“あなたは、うちのおかあはんが作るものなら何でもおいしいおすの?
おかあはんのオナラも、きっと香水のようないい匂いがするのでしょうね?”)


従妹と僕と(独身時代の)妻の3人で喫茶店に入ります。
当然、妻は僕よりも従妹と話がはずみます。
僕は、そういう妻の横顔を見ながら、“ああ~、この人は、あのお母さんの娘なのかあああ~”
そう、しみじみと眺めた事が何度かありました。

ところで、これはあとで妻から聞いた話なんですが、
“京都のオブ”というのがあるんですよ。

つまり、関東の者が、通りがかりに京都の町屋の前で知り合いに出会ったとします。
その町屋のおばはんが“オブでもどうですか?”と言います。
お茶でも召し上がっていきませんか?と言うわけです。

関東でなら、これは、“立ち話もなんですから、どうぞ家の中に入ってお茶でも飲みながらゆっくりとお話しましょう”と言う誘いの言葉になるのです。
でも、京都ではそうならないと妻は言います。
つまり、“用事が他にもありますので、この辺で失礼させていただきます”と言う婉曲な断りの言い方だというのです。

僕は京都の女性というのは妻が初めてでした。
大阪の女性も、関東の女性も、結構ざっくばらんな人が多いものです。
つまり、率直にモノを言う人がかなり居ます。
素直で正直で率直なレンゲさんは大阪人です。

関西人でも、京都の人と大阪の人は違いますね。
僕はそんな印象を持っています。
いずれにしても、妻はレンゲさんとはかなり感じが違います。

十二単(じゅうにひとえ)を着た女。
そんな印象ですね。
つまり、1枚や2枚着物を脱がせたところで、肌を見せない。
僕は心のことを言っていますよ!へへへ。。。。

妻が言うには、僕は全くそのような世間知らずな“関東人”だったと言います。
“おかあはんは私を売り込もうと、ああしてあなたをもてなしたんやわ。普段は、あんなにニコニコする人やおまへん。実に厳しい人ですわ”

要するに世間知らずの“関東人”だった僕は、まんまとはめられたと言うわけです。

ここで、本題に立ち戻ります。

好きになるタイプ、引かれる異性というのは潜在意識の中にインプットされているのでしょうか?

僕は全くその通りだと思います。



僕はこれまで何度も母親の事を書いています。


僕は幼児の頃、母親に抱かれた肌のぬくもりだとか、母親のオッパイを口に含んだときの乳首の感触だとか。。。そういうものが今だにおぼろながら記憶の片隅に懐かしく残っています。
僕にとって母親との関係は、この上のジューンさんの絵のようにまさに懐かしくも思いで深い、心の温まるものなんですよ。

つまり、僕の“幼児的なふれあい”というのは幼児の時に充分に満たされているんですよ。
母親とのスキンシップを充分に感じましたからね。
だから、僕には「幼児的なふれあいへのあこがれ」と言うのはないんですよ。
もう、“幼児的なふれあい”は“たくさんです”よ、“ご馳走さんでした”と言う気持ちなんですよ。

そういう僕でしたから、18才の時に父離れ母離れして自分ひとりで暮らし始めました。
それ以来、父母と一緒に暮らした事はないんですよ。


僕がこの文章を引き合いに出して何が言いたいかと言うと、“人がふるさとを懐かしむように、母親というのは男にとって女のプロトタイプ(prototype)です”
男が母離れしても、妻の中に“母親の原型”を投影しているところがある。
このような意味で「好きになるタイプ、引かれる異性というのは潜在意識の中にインプットされている」と僕は思っています。
つまり、相手の女性の中に母親像を探している。

でも、こんな単純なものではないですよね。
それは、僕が妻の母親に惹かれたことに良く現れています。
要するに、僕は自分の母親にはないモノを妻の母親に見出したのです。
だから、その母親の娘だから、妻も同様な気質と才能と性格を兼ね備えているに違いない。
僕の高校時代の恩師の“教え”が頭にあったわけです。(しかし、現実にはズレがある!娘は母親のコピーじゃない!)

僕の母親は農家の出身でした。
高等教育は全く受けていません。
書道は無段。
活花はやった事もない!そんな暇がなかった。
苦労が多かった。
家の家計を助けるために、若い頃には女中奉公までさせられた程です。
お茶は番茶を入れるだけ。
でも、どこで勉強したのか和歌を作れるのには驚いた!
小さな頃見た母親は美人に見えることもあったけれど、
世の中には自分の母親より美人が多いのに驚いた!
でも、利巧な人です。

こういう母親を見ていただけに、心のどこかで別のタイプの女性を求めている部分もあった。
ちょうど、僕が日本を飛び出して、海外20カ国を放浪したのに似ています。
その“外国”が一言で言ってしまえば妻の母親だったと言うわけです。
そして僕の恩師の“法則”から、“そういう母親の娘なら、きっと娘も母親のように。。。”と思ったわけです。
でも現実にはズレがあった。

いづれにしても、「母親とは違ったタイプの女性を求めている、ということも潜在意識の中にインプットされている」と僕は思っています。

それでは、母親のタイプと母親とは違タイプと言う事だから、女性のタイプすべてと言うこと?。。。そう、あなたは僕に尋ねるかもしれませんね。
僕が言おうとしているのは、自分の母親のすばらしい部分と、母親にはなかったすばらしいものを求めていたと言う事です。
母親になかったすばらしいモノとは?

古都に住んでいる女性の奥ゆかしさ上品さ。。。


一口で言うなら、そのようにあいまいで、とりとめもないものです。
歴史馬鹿の僕には、それが妙に魅惑的なものに感じられるんですよ。

では、レンゲさんの場合はどうなのか?

残念ながら、レンゲさんの場合にはプロトタイプとなる母親像、父親像が小さい時に持てなかった。
幸せな家庭ではなかった。
崩壊した家庭に育った。

レンゲさん自身がそう思っているのです。

反面教師としての母親。
反面教師としての父親。
レンゲさんは、そう捉えてしまっています。
そこに問題があると僕は思っているのです。

要するに、

「好きになるタイプ、引かれる異性というのが強く潜在意識の中にインプットされていない」

では、何がレンゲさんを異性の元に追いやるのか?
小さい頃に持てなかった“幼児的な触れ合い”です。
僕は、そう理解しているのです。

あなたはこれまで僕が描いたレンゲさん像からどう思いますか?






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■ 『レンゲの悩みの数々。。。本当にわたしは悩みの宝庫です』

■ 『愛の正体とレンゲのテーマ』

■ 『不倫の悦びと苦悩』


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コメントを書くなら、しっかりと内容のある文章を書いてくださいね。

2005-11-14 05:14:42 | 健全な批判


コメントを書くなら、

しっかりと内容のある文章を書いてくださいね。


『あるビジネス・ブログのプロバイダーが次の下着の写真を取り除かないとブログを削除すると言います』

僕が書いた上の記事に対して3つのコメントをもらいました。
そのうちの2つは同一人物の書いたものです。
次のようなものでした。


きもいって

by あ at 2005-11-10 (Thu) 23:07



消えてくれ

by あ at 2005-11-10 (Thu) 23:08


本人は身元が分からないと思って、こういういい加減で無責任な事を書いているんですよね。
でもね、この稚拙で幼稚な公衆便所の落書きを書いた人物のIPが分かり、身元が判明したらどうする気なんですかね。
ところで、この愚か者の身元を突き止めるのは難しい事ではないんですよ。


どうだい、お父さんはね、オマエと同じ年頃の頃、こういう愚かな事を書いていたんだよ。

だから分かるだろ、オマエもお父さんと同じで愚かな子供なんだよ。



そうだね、お父さんも、こういう馬鹿なことを書いていたんだね。

どうして僕が馬鹿だか、これを読んで初めてよく分かったよ。

“この親ありてこの子あり”

学校の先生がそういうことを言っていたよ。

この事だったんだね。


こういうメールがあなたのパソコンに送られないためにも、
1行じゃなくて、せめて高校生程度の文章を書いてくださいね。
これでは小学校1年生と言われても仕方が無いですよね。へへへ。。。

ところで、あなたはどのようにピカソを批判しますか?

あなたはこれまでに絵を書いたことがあるでしょう?
小学生の時には「図画」とか「図工」と呼ばれた時間がありましたよね。
時には学校の近くの小川や野原に写生に出かけたことを僕は良く覚えていますよ。
僕は絵を書くことが好きでした。
あなたはどうでしたか?

絵を書いたことなら誰でもあると思いますから、分かりやすいので絵を取り上げて話します。
絵を書いてみると、なかなか思ったように書けないものですよね。
目の前の木や花や石や動物が自分で描きたいように、なかなか描けない。
もう、じれったくなる事があるでしょう。
つまり、自分ではこのように描きたいと思っているのに、思った色がなかなか出てこない。
どうしても、家の形が目の前の家と違っている。
奥行きが表せなかったりして、いい加減イヤになってしまう事もあるでしょう。

つまり、図画用紙に書かれている物は描いている人の頭の中にあるものとは違っている。
もちろん、現実の家や、木や、花とも違っている。

ところで、あなたが友達の描いた絵を見るとき、
上手いとか、へたくそだとか、あなたは言葉で技量を言い表しますよね。
また、描いてある物の意味をさぐろうとします。
馬とか犬が描いてあれば、その馬が生き生きと描いてあるとか、
馬の耳が長すぎるとか、かなり具体的に批評が出来ます。
しかし、その馬とか犬の感情となると、見る人によってだいぶ違ってきますよね。

写生画の場合、批評する事は比較的簡単ですが、
抽象画となると、これはなかなか難しい。
なぜなら、具象的でない絵画を見るとき、
見るという行為は個性と文化的バックグラウンドを通してしか見ることができない。

例えば、ピカソのグロテスクな人物画を見るとき、
スペイン人、アメリカ人、日本人、アメリカインディアンの見方はまず違いますよ。
なぜなら、文化的バックグラウンドが違っているからです。
同じ絵を見ているのに日本人の受け止め方とアメリカ人の受け止め方が違うのは、
あなたにも良く理解できると思います。

つまり、生まれも育ちも全く違う。話す言葉さえ違う。
つまり文化が違うんだから、見方が違っても当然です。
でも、全く同じピカソのグロテスクな人物画を見ているのに、
受け止め方がアメリカ人と日本人では全く違うと言う事を考えてみてください。

これは文化的なバックグラウンドが違うと言う事で理解できます。
では、同じ日本人同士ではどうか?
文化的バックグラウンドはほぼ同じです。あまり大きな違いはありません。
同じ日本語を話します。同じ風土で育ってきています。

でも、あなたと僕がピカソのグロテスクな人物画を見たら、
感想はだいぶ違うと思いますね。
なぜか?
個性が違います。

つまり、全く同じ絵が、見る人によって違ってしまう。
つまり、ピカソの絵を見るとき、個性と文化的バックグラウンドを前提としてしか絵を見ることができません。
あなたの心の中にある印象とか、感想とか批判というのは、絵そのものではありえない!
絵とあなたの頭がベッドインして作った子供みたいなものです。そう思いませんか?

つまり、批判や批評をする時というのは絵の本質は、絵そのものからあなたの頭の中に移動してきますよね。
ピカソはどうしてこのようなグロテスクな人物を描いたのだろうか?
と、あなたは考える。
なんでこんな作品を作ったのだろう?
あなたは、一生懸命にあなたの頭で考える。
あなたの個性と、文化的バックグラウンドを基にして。

じっくり見ながら考えて、あなたはその絵の意味する事をあなたなりに分かったような気がする。
絵の本質に迫った気がしてくる。
でも、あなたは知っているはずです。
描いたのはピカソなんだから、いくら考えたって、ピカソがどのような気持ちで、
どのような目的で描いたか?なんて分かりっこない!
でも、見て考える、という行為は、ちょうど好きな音楽を聴くように、
作者がどのような気持ちで作ろうが、関係ないんですね。
つまり、音楽を聴いて作曲家になったような気分が味わえて
いい気持ちで聞けたらそれで充分満足できる。

つまり、絵の本質も音楽の本質も、見る人聴く人の方に移ってゆく。
それでいいと思うんですね。
でも中には作者、作曲家の本質にこだわる人も居る。
そういう人はどうするのか?
インタビューするわけですよね。
ピカソに尋ねるわけです。

それで「批評」を書く。
こういう人たちの事を「批評家」「評論家」というんでしょうね。
作品の本質を「あちらがわ」、つまり作者の方に求める。

でも「批判」するというのは、つまり、作品を語るということは、
つねに自分のバックグラウンドと自分の個性、自分自身を語るということです。

例えば、ヒトラー総統の前を行進するドイツ軍のパレードを映画で見るとします。
一糸乱れぬ軍隊行進。
制服もパリッとして、なかなかかっこいい!
旧ドイツ軍、凄い!

しかし、現在、自由主義に生きている我われがあんな行進をしたいか?
見るのはいいけれど、やるのはめっそうもない、というのが答えではないですか?
全体主義や旧日本帝国のような軍国主義には戻りたくない。
どうしても窮屈な感じで、あんなロボットのような行進など
やれ、と言われてもやりたくないでしょう。

つまり、あの第三帝国のすばらしさを伝えようとして作ったドイツ軍パレードの映画の監督は
テーマを現在の我われには届けることが出来ない。
私たちは、まずそのテーマに到達できない。そうすることの意味を見出せないかもしれない。
つまり、感想、印象、批判は作った人間とは全く無関係ということを知らざるを得ない。

絵を描いたり、絵を見たり、映画を作ったり、映画を観たりするということは孤独な行為です。
なぜか?
作り手や隣で見ている人と感想を共有できないからです。
突き詰めて言えば、個性や文化的バックグラウンドは一人一人皆違うからです。

でも、その孤独な行為をがまんできず、言語化して他の人と共有しようとする。
それが作者に向いている場合、批判、
観客に向いている場合、批評と呼ばれるわけです。

自分が思ったことが自分だけのものだと無意識的に気づいているので、
他の人と一般化する時に批評という言葉が使われます。
だから、批評家とか評論家と呼ばれる人たちが居ます。

そういうわけで、批判すると言う時、あなたは自分の文化的バックグラウンドと自分の個性、
自分自身を語らなければならない。
そうでない限り批判とは言えない。

この上で示した1行のコメントは批判じゃなくて、公衆便所の落書きです。

これはどうした事か?
つまり、語るべき文化的バックグラウンドと自分の個性がないのではないか?
あるのなら、そのことが語れないのではないか?
語り方を知らないのではないか?
欧米のサイトで18年やってから、日本のサイトで3年ほどですが僕は、そう、しみじみと感じましたね。

じゃあ、オマエはどうなのか?
とあなたは僕に尋ねるかもしれない。

僕のブログの記事を見てください。
どれも長い。
なぜか?
僕は自分の文化的バックグラウンドと自分の個性、
自分自身を語っているからですよ。

出来たら、あなたもそうしてください。
1行から3行の文章で
あなたは自分自身を語ることができますか?






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面白い話がたくさん詰まっていますよ。

http://barclay.worldfreeweb.com/renge/tree.php?all=1602


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