めれんげの郎女(PART 1)
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デンマンさん...、 「めれんげの郎女(いらつめ)」ってぇわたしのことやのォ~?
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そうやがなァ~。。。
なんでぇ、唐からやって来たような格好をしてるん?
以前、わては次の記事を書いたのやでぇ~。。。 めれちゃんも覚えてるやろう?
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■『万葉のめれちゃん』
つまり、今日は万葉の話をしやはるのォ~?
そうやァ。。。 あきまへんか?
それで、わたしが「めれんげの郎女」になって登場したと言うわけやのォ~?
そうやァ。。。“万葉のめれちゃん”やんかァ~。。。 当然、当時の女の衣服は唐の影響を受けておったのやでぇ~、上のような格好でめれちゃんも出て来たと言うわけやァ~。。。
。。。で、どうして急に、わたしがけったいな格好で出てこなァあかんのォ~?
あのなァ~、わては夕べ『読める年表・日本史』を読んでいて次の箇所に出くわしたのやがなァ。
石川郎女
(いしかわのいらつめ)
二人の皇子に愛された佳人
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石川郎女は名を大名児(おおなこ)ともいい『万葉集』に数首の歌を残している。
皇位をめぐって対立関係にあった草壁(くさかべ)皇子・大津皇子はともに石川郎女に想いをよせて歌を贈った恋仇の間がらでもあった。
「大津皇子のひそかに石川郎女に婚(あ)ひし時、津守連通(つもりのむらじとおる)その事を占ひ露(あら)はしつ。 皇子の御作歌一首」という前書につづいて
「大船の津守の占(うら)に告(の)らむとはまさに知りてし我が二人寝し」という大津の歌があり、結局、石川郎女は大津の方になびいたようである。
大津皇子の死後も郎女は大伴田主(たぬし)、その弟の宿奈麻呂(すくなまろ)にも自ら求愛の歌を贈っている。
「容姿佳絶、風流秀麗」といわれた田主になんとか近づこうとして、老女に変装し夜中に鍋をさげて火を借りるふりをして田主邸に入りこんだが失敗に終わったということが『万葉集』に載せられている。
石川郎女の歌は機智的、諧謔的な点に特色があり、売笑婦的存在ではなかったかという説もある。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
106ページ 『読める年表・日本史』
2012年7月21日 改定11版第1刷発行
発行所: 株式会社 自由国民社
つまり、わたしの詩や短歌は石川郎女の歌のように機智的、諧謔的な点に特色があり、売笑婦的だと、あんさんは言わはるのォ~?
うへへへへへ。。。 めれちゃんは、そのように思い込んでしもうたのかァ~?
そやかて、あんさんはそのように思わせよとして上の小文を引用しやはったのやろう。
いや。。。 ちゃうねん。。。 実は、めれちゃんが7月26日に投稿した次の詩を読んだのやがなァ。
ふたりの未来へ
連れて行って
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あなたはわたしの彼氏でしょ!
もっと彼女の気持ちを
わかるようになりなさい!
じゃないとわたしは
どこかに行っちゃうかもよ。
あなたはわたしにとって
たったひとりの
特別な人なんだから
忘れないでいてね。
遠くにいるときも
会えないときにも
わたしのことばっかり考えてほしいな。
そんなこと言わなくたって
わたしの気持ちをわかってるから
不安にさせないようにしてくれてるね。
わたしを泣かせないように
つらい思いをさせないように
あなたはやさしさを全開にして
守ってくれてるね。
わたしに聞かせたくない話は
黙っている分、想像に苦しめられるけど。
あなたを好きになったのは、
泣くためなのかなあと思う時もある。
あなたのくれた指輪にふれれば、
この涙がとまればいいのに。
わたしが泣くたびに
あなたはごめんと言うね。
いっしょにいるのに
泣くなんておかしいよね。
ふたりのせつない場面。
せつないことって
いつまでつづくのかな。
あなたの笑顔を
わたしも笑顔で返すから。
見つめ合うふたりの
笑顔を未来でも見られるように
祈るみたいに恋してる。
現実があなたの言ったとおりに
なる日は、きっと来るよね。
わたしたちは、いっしょに生きて
いっしょに年をとっていけるよね。
わたしの本当の気持ちは、
死ぬ前の一日だけでもいいから、
誰にも邪魔されずに、
あなたといられたら、
それでいい。
by めれんげ
2013年07月26日 23:37
『即興の詩』
『ふたりの未来へ連れて行って』
つまり、上の詩が石川郎女の歌のように機智的、諧謔的な点に特色があり、売笑婦的だと、あんさんは言わはるのォ~?
いや。。。 ちゃうねん。 実は更に次の詩を読んだら、めれちゃんは、もしかしたら石川郎女の生まれ変わりやないかと思うてなァ~。。。 (微笑)
あふれ出すしずく
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あふれだすしずく
夜に咲くはなびらは濡れる
花園に迷い込んだあなた
どうかわたしを見つけて
あなただけのために
美しく光を放つから
あなただけを呼んでいるの
この声が届いたら
あふれだすしずくを
すくいとってください
そしてまだ知らぬ国へと
わたしを連れ去ってください
by めれんげ
2013年07月10日 11:59
カテゴリ詩恋愛詩
『即興の詩』
『あふれ出すしずく』
『即興の詩』に掲載
(2013年7月11日)
要するに、わたしが売笑婦的やと、あんさんは言いたいねんなァ~?
ちゃうねん。。。 あのなァ~、実は石川郎女という女性は謎に満ちた女性なのやがなァ。
どないな謎に満ちてるん?
ウィキペディアには次のように書いてあるねん。
石川 内命婦(いしかわ の うちみょうぶ、生没年不詳)は、万葉歌人。
大伴安麻呂の妻で、坂上郎女、大伴稲公の母。
また『万葉集』には石川郎女という人物もみえており、石川 女郎(いしかわ の いらつめ)大名児(おおなこ)とも書く。
この石川内命婦と郎女が同一人物であるかどうかには議論があり、いまだ定説を得ていない。
このうち石川郎女については複数の男性との交際を思わせる歌が残されていることから、橘守部のように「遊行女婦也」(『万葉集檜褄手』)として、遊女とみる理解も古くはあったが、現在では古代豪族の石川氏出身の女性とみる見方が有力である。
石川氏は蘇我氏の傍系、大和高市郡石川に本拠を有する。
大津皇子や草壁皇子と交流があったのも、このふたりが母方で石川氏と関係があったからであろうと思われる。
ふたりの母は蘇我倉山田石川麻呂の娘である遠智娘と天智天皇との間の皇女。
おそらく父は蘇我馬子の孫、蘇我倉山田石川麻呂・蘇我赤兄・蘇我連子・蘇我果安のうち誰かであると考えられるが、「郎女」とは貴族の女性の対する敬称であって、誰であるかを特定するのは困難である。
石川内命婦については、安麻呂と結婚し、稲公、坂上郎女を産んだこと以外はあまり多くのことはわからない。
和銅7年(714年)に安麻呂が死去し、そのあとは大伴家の大刀自(おおとじ。一家の長としての女性)として家を取り仕切ったものと思われる。
天平7年(735年)の坂上郎女の歌(『万葉集』巻3-461)の左注に「大家石川命婦依餌藥事往有間温泉」とあり、この時温泉に病気療養に出掛けた記録があり、また天平勝宝5年(753年)に元正天皇の詔にこたえる歌が残されており(『万葉集』巻20-4493)、これを同一人物とみてよければ、少なくともこの時までは存命であったと考えられる。
つまり、石川郎女・内命婦は天智天皇の時代から、元正天皇の時代まで、おおよそ70年にわたって姿をみせており、これを同一人物とみるのはほとんど不可能ということになる。
出典: 「石川内命婦」
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
どないなわけで「万葉集」は石川郎女が特定できないように、あいまいにしてはるねん?
あいまいにしておかねばならない訳があるというこっちゃァ。
どのような。。。?
それは次の事件を読むと解るねん。
大津皇子の変
“謀反”が発覚する
天武天皇は、皇后鸕野(うの)皇女(後の持統天皇)と皇太子の草壁皇子に後事を託して、686年に世を去った。
それからまもない10月2日、大津皇子が謀反のかどで一味30余人とともに捕らえられ、翌日には死を賜って自殺した。
時に24歳であった。
この時、妃の山辺(やまべ)皇女は髪をふり乱し、はだしのままで駆けてきて、遺体にとりすがって殉死したという。
孤立した大津皇子の立場
天武天皇は皇后所生の草壁皇子を皇太子に立てたけれども大田皇女所生の大津の才能を愛し、草壁と並んで政治に参画させた。
しかし大津は、父天皇の死によって最大の庇護者を失い、かわって権力の座に着いた皇后の敵意をまともに受けることになった。
皇太子草壁は大津とは反対に、凡庸で健康にも恵まれなかったらしいので、皇后にしてみれば、大津は我が子の招来の安全にとって、もっとも危険な存在であった。
事件の真相
天皇の死後、大津は唯一の肉親である同母姉の大伯(おおく)皇女を伊勢神宮に訪ねている。
その訪問がどのような目的であったかは明らかでないが、大津の剛毅な性格や大きな声望からみて、大津自身に謀反の気持ちが皆無であったとはいえまい。
ただし、謀反の形跡らしいものはほとんどない。
この事件は皇太子草壁の皇位継承を安全にするために、皇后が仕組んだ陰謀であろう。
というのは、皇子の逮捕から処刑までの処置があまりにも手際よく運ばれていること、共謀者に対する処分も寛大で、その中には高官や大物は一人も含まれていないからである。
大津の死後、姉大伯皇女は斎宮(いつきのみや)を解かれて伊勢から大和へ帰り、弟を偲ぶ歌を『万葉集』に残している。
非常手段でもって大津を倒したものの、肝心の草壁は翌々年に即位することなく早世した。
(注: 赤字はデンマンが強調。
読み易くするために改行を加えています。
写真はデンマン・ライブラリーより)
106ページ 『読める年表・日本史』
2012年7月21日 改定11版第1刷発行
発行所: 株式会社 自由国民社
この事件と石川郎女がどのように関係していると、あんさんは言わはるのォ~?
あのなァ~、『万葉集』は単に文学の書ではあらへん。 大伴家持が『万葉集』に藤原政権に対する政治批判の意味を込めて編纂したのやがなァ。
そやから、どうやと言うのォ~?
つまり、石川郎女の歌と大津皇子の歌のやり取りを取り上げて、大津皇子の方が人間的にも素晴らしい。 次の天皇になるのにふさわしい人物やァ! そやから、結局、石川郎女は大津の方になびいたようであると言う事を読む人に解ってもらいたかったのやがなァ。 要するに、大津皇子の変は、後の持統天皇が仕組んだ陰謀だということをそれとなく『万葉集』の中に書きとめたというわけやァ。
そやけど、そないな話、学校の国語の時間にも、歴史の時間にも聞いたことあらへんでぇ~。。。
そうかもしれへん。。。でもなァ~、『万葉集』というのは単なる長歌と和歌を集めて後世に伝えたものではあらへん。 歴史の真実を伝えようと編者の大伴家持は考えたのやがなァ。
。。。で、「めれんげの郎女」のわたしが、どないなわけで、この記事に顔を出さねばならへんのォ~?
そやから、めれちゃんもこれから『即興の詩』サイトに、仰山(ぎょうさん)、愛の詩や短歌を投稿して、歴史の真実を後世に伝えるのやがなァ~。。。 解ったやろう?
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