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愛なき批判は空虚にして、批判なき愛は盲目なり PART 1

2006-05-14 12:28:15 | 健全な批判
愛なき批判は空虚にして、

批判なき愛は盲目なり (PART 1)


 


(kamata01.jpg)

 




(kato3.gif)

これはかなり血なまぐさい絵ですよね。
実は、この絵は板蓋宮(いたぶきのみや)における蘇我入鹿(そがいるか)の暗殺の場です。

この暗殺によって、現代の日本の“基礎”ができあがった!
。。。と言っても決して言い過ぎではない程の事件なのです。

なぜか?

太刀を振り上げているのが中大兄皇子(後の天智天皇)、
弓を手にしているのが中臣鎌足(後の藤原鎌足)です。

この鎌足こそ藤原不比等の父親なのです。
この不比等は日本史ではもちろんのこと、世界史でも他に例がないほどの“とんでもないこと”をやり遂げた人物なのです。
それは次の系図を見ると実に良く分かります。

 


(keizu03.gif)

 



この藤原不比等が日本史上で、世界史上でも他に類を見ないような無茶苦茶なことをやったわけです。
男で皇位を継ぐ人が天武天皇の息子の中に居たにもかかわらず、不比等は女帝を立てて天智天皇との関わりを温存したのです。

系図の中の番号は継承順を示すものです。
持統天皇から孫の文武天皇に皇位が移っています。
まあ、それはいいとしても、文武天皇が若くして亡くなると、
今度は文武の母親の元明女帝に移っているわけです。
これなどは、無茶苦茶ですよね。
後継者にふさわしい男が居ないのならともかく、天武天皇の息子たちが居るのに、誰が考えても“ごり押し”と思えるような皇位の継承順になっています。


(konoe01.gif)

この過程で、不比等は太平洋戦争前の近衛首相や、1993年8月に就任した細川護煕(もりひろ)首相まで続く藤原氏の家系の基礎を築いたわけです。
つまり、この時期は、藤原氏が天皇家を抱き込んで日本を私物化していった歴史に他ならないんですよね。

このような藤原氏の横暴を苦々しく思っていたのが大伴家持です。
“新参者の藤原氏”と比べれば“大伴氏”は名門中の名門だと言っていい。
すでに、氏族としては落ちぶれてはいるけれども過去の栄光のことについては充分に承知している。
大伴氏は、もともとは天皇の親衛隊のような役目を持っていた氏族です。

家持の目から見ても、不比等が天皇家を抱き込んで無茶苦茶なことをやろうとしていたのが見えていたでしょうね。
当然のことですが、日本を“私物化”しようとしている藤原氏に対して良い印象を持っているわけがない。
家持の反骨精神が額田女王や名もない防人の妻の歌を万葉集に載せたと僕は思いますね。

日本を私物化する藤原氏に対する反発。
非情な政治を行った天智天皇政権に対する批判。

大伴家持が万葉集を編纂した本音はこの2つの動機だと僕は思いますね。
詳しいことは次の記事に書きました。読んでください。
『万葉集の中に隠された真実』

実は、藤原家に盾突いた人は大伴家持以外にもたくさん居ます。
ただ、面と向かって盾突くわけには行かない。
何しろ、不比等をはじめ藤原氏は実権を握っている。
そういう訳で、大伴家持がやったように、本音と建前をうまく使い分けながら、藤原氏に反抗しています。

大友家持の他にいったい誰が?

実は名もない役人たちです。
藤原不比等に反抗して『古事記』や『日本書紀』の中に、はっきりとその足跡を残しているのですよ。

両方の史書を藤原不比等【659(斉明5)~720(養老4)】が編集長として目を光らせていたと思います。
名目上の編集長は天武天皇の息子の舎人(とねり)親王です。
しかし彼はむしろ発行人です。
当然のことながら、編集者同士の確執だとか、縄張り意識とか、ファクショナリズムとか、官僚主義だとか、そういった、もろもろのことが関係して、そういうことが史書の内容にまで影響したはずです。
従って,両書をよく読んでゆくと矛盾が、ところどころ顔をのぞかせます。

これは、いわば当然のことです。
先ず何よりも、天武天皇は自分の王朝が正統である事を書いて欲しい。
藤原不比等は、藤原氏が日本古来からの古い氏族であることをこの両書に書き込もうとする。
しかしあまり無茶苦茶なことはできない。
なぜなら当然、編集者の中には、新羅とかかわりのある者、高句麗とかかわりのある者、百済と強い関係がある者、それぞれの思惑を抱えている者が混じっています。

何よりも、不比等が親の七光りで編集長になっていることを、内心、面白く思っていない連中がほとんどでしょう。
この編集者たちは、当然のことながら、当時の知識人、つまり、渡来人や帰化人、またその子孫が多かったはずですから、不比等の生い立ちもよく知っています。
このような状況の中で成り立った史書であれば、当然ながら矛盾する点も出てくるでしょう。

もちろん、わざとこの“矛盾”を書き込んだ人もいるでしょう。
つまり、“真相”が分かるようにと“可笑しなこと”を紛れ込ませておく。
読者がその事に気づいて“真相”に迫ろうとする---僕の考えすぎでしょうか?

でも、これから述べるように、そのような“苦心”がこの両書に込められている、と僕には思えるのです。
要は、そういうことを考慮に入れて読めば、嘘や虚飾を真実からより分けることができるはずです。

『日本書紀』に隠された真実の声

このページに掲げた血なまぐさい事件は日本史上、“乙巳の変(いっしのへん)”と呼ばれています。
現場に居合わせた古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)は人に語っています。

「韓人(からひと)、鞍作臣(くらつくりのおみ)を殺しつ。吾が心痛し」

つまり、「韓人が入鹿を殺してしまった。ああ、なんと痛ましいことか」 
しかし、「韓人」とは一体誰をさして言ったのか、ということでこの事件に関する研究者の間では、いろいろな説が出ています。
入鹿を殺したのは、中大兄皇子です。
その計画を立てたのが中臣鎌足。
それに手を貸したのが佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田です。

ところが、この中には従来の古代史研究者の間で「韓人」と信じられている人は居ません。

 


(korea03.gif)

 



「韓人」とは、もちろん韓(から)からやって来た人のことです。
上の地図で見るとおり、紀元前1世紀の朝鮮半島には馬韓・辰韓・弁韓という3つの「韓国」がありました。

これらの国は、国といっても部族連合国家のような連合体です。
大まかに言えば、このうち辰韓と弁韓は紀元前57年に融合して新羅になります。
一方、馬韓は百済になります。

要するに「韓人」とは朝鮮半島の南部からやって来た人をそのように呼んだわけです。
従って、この当時で言えば百済か新羅からやって来た人のことです。

実は、中臣鎌足は百済からやってきたのです。
少なくとも、彼の父親の御食子(みけこ)は、ほぼ間違いなく百済から渡来した人間です。
中臣という姓は日本古来の古い家系のものですが、この御食子は婚姻を通じて中臣の姓を名乗るようになったようです。
藤原不比等は当然自分の祖父が百済からやってきたことを知っています。
しかし、「よそ者」が政権を担当するとなると、いろいろと問題が出てきます。
従って、『古事記』と『日本書紀』の中で、自分たちが日本古来から存在する中臣氏の出身であることを、もうくどい程に何度となく書かせています。

なぜそのようなことが言えるのか?という質問を受けることを考えて、
次のページを用意しました。ぜひ読んでください。
『藤原氏の祖先は朝鮮半島からやってきた』

『日本書紀』のこの個所の執筆者は、藤原不比等の出自を暴(あば)いているわけです。
藤原氏は、元々中臣氏とは縁もゆかりもありません。
神道だけでは、うまく政治をやっては行けないと思った時点で、鎌足はすぐに仏教に転向して、天智天皇に頼んで藤原姓を作ってもらっています。
その後で中臣氏とは袖を分かって自分たちだけの姓にします。
元々百済からやってきて、仏教のほうが肌に合っていますから、これは当然のことです。

この辺の鎌足の身の処し方は、まさに『六韜』の教えを忠実に守って実行しています。
この兵書については次の記事を読んでください。
『マキアベリもビックリ、藤原氏のバイブルとは?』

鎌足の次男である不比等の下で編纂に携わっていた執筆者たちは鎌足・不比等親子の出自はもちろん、彼らのやり方まで、イヤというほど知っていたでしょう。



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