哲学者カントによると音楽は目覚めの芸術
今日も朝早く家をでて研修。職場のお金で、研修を受けられるってほんといいね。もし自腹でお金をはらうとなるときあなりのお金が必要だと思う。その道の専門家の人の講義。知らないことを知ることはこの年齢になってもやっぱりたのしいね。
今日は、認知症について、研修。認知症のメカニズムというよりも、その認知症になった人への接し方。
ついつい、目の前のその認知症の老人、昔だとボケ老人だけをみてしまいがちだけど、当たり前だけど、その認知症老人はうまれたときから認知症ではなく、認知症になる過程、それまでの人生、大臣制ネバービンベター。決してもう昔のように認知機能がもどることはないけども、その人にはしっかりその人のストーリー物語があった。それをついつい見過ごしがち。
研修でDVDを見る。ドキュメンタリー映像。認知症の施設をたずねていって、その認知症の人の思い出の曲をアイポッドで聞かせる。そんな動画。
ヘッドホンをつけて認知症老人に音楽をきかせる。老人が若かりしころよく聞いていた、口ずさんでいた曲。それを流す。
すると、受け答えもままならなかった老人が、はっきりと言葉を発し、まわりに感謝し、世界に感謝し、涙を流す。まるで心が生き返ったような変化。心が過去をとりもどしたような変化。
その映像を見て、私も涙が出る。
私にとっての音楽、ハロプロの音楽というのも、この認知症老人にとっての音楽と一緒。実にセンチメンタル。昔のなつかしいせつない気持ちを思い出させてくれる。胸キュンセンチメンタル。私も涙がでる。あの老人は、まさに私だ。
いい研修だった。目の前にいる人だけでなく、その人につながっている連続体としてのその人。よかった。
研修終わって、最寄り駅にひとりで歩く。目の見えない私。網膜色素変性症な私デスペア。公園の前をとおりすぎるときに、ボールをポンポンと地面にバウンドさせる音。こどもがよくやる行動。
考えてみれば、なんでこどもは、あんなにボールが好きなんだろう?なんであんなにボールをバウンドさせたがあるんだろう。
そのバウンド音をさけるようにして、歩道をあるく、そして横断歩道をみつけるため、地面を白杖でさぐる。
すると、ボールこどもが、ボールバウンドをやめて、ボールをかかえて、私にちかづいてきて、こっちこっちとぶっきらぼうに言ってくる。
言葉足らずのこども。ありがたいね。きっと、バウンドさせながら、私が横断歩道をわたろうとするのを待ってくれていたんだろうな。ありがとう。
やさしい、というか、はずかしいとか、まわりの目とかよりも、向こうから近づいてくる白杖おじさん、白杖には鈴、興味しんしんなんだろうね。その純粋な好奇心と行動力、言葉足らずのコミュニケーションの能力、実にいとおしい。
このこどもは、あの老人であり、そして、あの老人は私でもあるんだな。
私が認知症になって施設にはいったら、どんな曲を聞かせてもらいたいだろうか。アイポッドから流れる音楽をヘッドホンできく痴ほう症になった私。
こどもとわかれたあと、駅に向かう道すがら考えてみる。
ハロプロ研修生のテーブル席開いててもカウンター席、恋したい新党
℃-uteの超ワンダフル、世界一ハッピーな女の子
ベリーズ工房のライバル、一丁目ロック
かな。
さて、明日はゼップなんばでハロプロ研修生発表会、どんな曲がきけるだろうか。