神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

自殺念慮/希死念慮。

2023年03月17日 | キリスト教

 先日、ラジオを聴いていたら、「自殺者の年次推移」ということがニュースから流れてきました。

 その時、パッと聞いた時には、「去年は減っていた男性は再び△□人増、女性の自殺者も引き続き増えており、小中高校生も△□人増加……コロナ禍の影響か……」みたいなことだったと思うのですが、あらためてネットで調べてみると、


 >>男性は全体の約7割を占める1万4543人(前年比604人増)。女性は3年ぶりの減少となる7041人(同27人減)だった。

 厚労省が1~11月分の統計を基に分析したところ、年代別では男女とも50歳代が最多で、前年から413人増えて計3748人に上った。次いで40歳代、70歳代が多かった。

 職業の有無で比べると、有職者は7409人でほぼ前年並みだったのに対し、失業者は約1・8倍の1038人。年金や雇用保険で生活する人も、705人増えて5347人となった。

 一方、小中高生は441人で、年間で499人に達し、過去最多だった20年と同程度で推移している。コロナ禍での休校やオンライン授業により、人間関係や学業の悩みが深刻化していることも一因とみられる。

 自殺対策に取り組むNPO法人「ライフリンク」(東京)の清水康之代表(50)は「コロナ禍が長期化し、経済的な不安や家庭内の不和など複合的な要因で追い込まれる人が増えていると感じる。職場や地域社会で小さな変化に気付いてあげられる仕組みが必要だ」と指摘している。

(『全国の自殺者が前年比2・7%増、コロナ禍影響か…男性13年ぶりに増加に転じる』/讀賣新聞オンラインよりm(_ _)m)


 ということみたいです。

 3/13からマスク解禁……とまではいかないけれど、個々人の責任に任せる的なことになり、全体的な雰囲気としても「コロナ禍脱出の節目の年となるか?」みたいにも感じます。

 ただ、これからちょうど花粉の季節にもなるので、コロナとは別にマスクし続ける方も多いとは思うわけですけど……とにかく、今回のタイトルは「自殺念慮/希死念慮」というものです。

「『自殺念慮/希死念慮』?大体意味はわかるけど、あんまし聞いたことない言葉だよね」というイメージを持つ方は多いと思います。

 ちなみに、わたしのPCで「自殺」と入れると、トップに来るのがこの「自殺念慮」という言葉だったり。あ、よくこの言葉で検索してたわけではまったくないのです。ラジオで聞いただけだったので、正確な数字を確かめようと思ったら、ウィキぺディアに「自殺念慮」という項目が出て来たので、「え?この言葉で検索する人ってそんなにいるかな?」と思って検索してみたわけです。

 以下は、ウィキぺディア様からの引用となりますm(_ _)m


 >>希死念慮は、生きたくないと考えたり、死ぬことを想像したりすることである。自殺念慮はより積極的なものを指し、自殺の準備や計画の策定が含まれる。本項では便宜上、希死念慮を自殺念慮も含む語とする。

 希死念慮を持っているほとんどの人は自殺企図に至らないが、希死念慮は自殺のリスクファクターと考えられている。2008年から2009年にかけて、アメリカでは18歳以上の成人のうち推定830万人が前年に自殺を考え、推定220万人が前年に自殺計画を立てたと報告されている。2019年には、アメリカの成人1,200万人が真剣に自殺を考え、350万人が自殺を計画し、140万人が自殺を試み、47,500人以上が自殺で死亡した。希死念慮は、10代の若者でよく見られる。

 希死念慮は、うつ病やその他の気分障害とも関連している。ただし、他の多くの精神障害、ライフイベント、家族の出来事が希死念慮のリスクを高める可能性がある。メンタルヘルスの研究者は、自殺行為や希死念慮に関連する問題を繰り返すリスクがあるため、医療制度は診断に関係なく希死念慮のある個人に治療を提供する必要があると指摘している。希死念慮には、さまざまな治療の選択肢がある。


 ……他にも、今「自殺することを考えている」方が読んだとすれば、多少なり参考になるというか、「あ、自分に当てはまるのはこれとこれかな」みたいに思ったりする事柄があるかもしれないので、ちょっと読んでみて欲しいような気がします。

 もっとも、人の心の有り様はそれこそ様々と思いますので、「自殺することなんて今までの人生で一度も考えたことがない」、「自分が大好きすぎて、そんな自分が死ぬだなんて、考えられない。だから、自殺するというか自殺するっていう選択肢が思い浮かぶ人のことが理解できない」という方も当然いらっしゃいますし、こうした傾向の強い方でも、「人生で悩んだことがない」ということは絶対的にないわけで、でも悩みや苦しみがあっても、「自殺することまでは考えない・考えたことがない」っていう方は、確かにいらっしゃるわけです。

 それで、健全な社会っていうのは、そうした方の人数が多いほうの社会だ……といったことになる気がするのですが、今はもう「自殺するってことは、誰でも人生で一度くらいは考えるよ」とか、「本当に自殺しようとしたことまではないけど、自殺とか死ぬってことは、常に頭のどこか隅のほうにあるね」、「でもみんな、そんなものなんじゃない?」という、こちら側に傾いてるか傾きかけてる気がするんですよね。

 わたし自身が唯一、割と若い頃に自殺するっていうことを突き詰めて考えて(今にしてみれば)良かったなと思うことは、「今自殺しようと考えている」人の気持ちがある程度わかる、想像できるということかもしれません。

「自殺する」ということについて、手段についてまで事細かく想像してる方は、わたし自身の経験からしてみれば、かなりのところヤバイです。もちろん、この場合も人によって状態は様々なので、「これで自殺しよう」と思うものまで実際に購入してクローゼットに隠しておき、「いざとなったらこれで……」と考えることがむしろ心の支えとなり、危機を脱してからは首吊り縄その他を捨てた――ということはあると思います。

 でも、そこまでする精神状態にあると、「あともう少し心に負担がかかったら、それに手を伸ばそう」みたいになってる可能性のほうが高いので、危険と思います。また、そうした精神状態にある方の全員が、ガリガリに痩せこけていて、顔が青白く、明らかにちょっと雰囲気がおかしい……とは限らないわけで、わたしもそうでしたけど、むしろ逆に周囲に向けては笑顔全開、わたしに悩みなど1ミリグラムもございません――みたいに演技してる場合も結構多いと思います。

 周囲の人にしても、もし気づいたとすれば、「あとからしてみれば……」というパターンも多く、自殺したいと考える人は特に、家族など、親しい人に一番気づかれたくなくて隠すという場合がすごく多いと思うんですよね。また、「自殺したいほどの悩みがあるなら、誰かに話せ」ということもよく言われることなわけですけど、昔何かの本で次のような文章を読んだことがあります。

 >>「わたしがもしその時、自殺しようと思うって告白してたらどうしてた?」

「それは……とにかくそれだけは絶対やめてって言ったと思うよ」

「でしょ?だから何も言わなかったの」

 つまり、「自殺したいと思ってる」って突然告白されても、そうした経験がなかった場合、とりあえず口を突いて出てくるのが、「絶対やめなよ」とか、とにかくそれに近い言葉。そして、それが普通でもあると思うわけです。

 それで、これはあくまでわたしの個人的な意見なんですけど……コロナ禍によって人の孤立化が進んだことが、自殺率の増加に繋がった一因――ということの、この原因の部分をあるパーセンテージや数字で分けることは出来ないと思うんですよね。それでも、実はそれまで家庭内に蓄積していた問題が家族が家にいることで表面化したっていうのは、よく言われたりすることだと思う、というか。あとは、家にひとりで居ざるをえない環境におかれたことで、普段なら外へ出て人と会ったり、お酒飲んだりして適度に誤魔化すことが出来ていた問題と、内省的に向き合わざるをえなくなった……他は、コロナ禍による経済的な困窮や圧迫によって、生活に明るい見通しがまったく見えないとか、これも誰もが胸を痛めつつ理解できることだと思う。

「え?じゃあ、どうするの?」、「誰かに相談しても、その人が理解してくれなかったらより絶望が深まって終わりってことになるじゃん」っていうことになってしまうかもしれないんですけど、それでもやっぱり、「誰かに相談する」っていうことが、一番大切なことになると思います。

 いのちの電話もそうだし、今は口で言葉として話したりするのがつらかったら、チャット形式で相談にのってくれる専門の窓口もあるみたいです。小中高校生だったら、いじめだけじゃなく、学校や家庭の問題に関わることについて聞いてくれる電話やラインによるやりとりなど……住んでいる場所によって違う場合もあるかもしれませんが、ネットで探すと必ず出てくると思います。

 また、家族や友達など、「大切な人だから、一番言ってはいけないと思う」、「話したところで何も変わらないし、問題も解決しない」、「ただ同じように悩ませるだけだから、申し訳ない」と感じる人にこそ、一番相談すべきと思います。実はそこが本当に一番勇気のいるところだから。

 わたしが割と最近聞いた話だと、「家庭教師の先生にいじめにあっていることを話した」高校生が、その後親にもそのことを話し、転校することに決めることが出来た、ということでした。その家庭教師の先生にしても、自分自身に過去にいじめられた経験があるわけでもなく、自殺したいほど何かで悩んだ経験はなかったそうです。「でもこの子は、親にも相談できないことを、ぼくのことを信頼して勇気を出して話してくれたんだ」と思い、色々動いてくれたんですね。

 学校の人間関係の「そこ」にだけ囚われていると、人生のすべてがそこにしかない絶望みたいなものが広がっていくかもしれないけれど、ちょっと目をそこから離して別のところへ向けると、広い、自分を受け入れてくれる世界なんて、他にいくらでもあることに気づきます。

 わたし自身は、「自殺するなんてネガティブなこと考えるな」とは、あまり言えない気がします。ただ、「死ぬのは何も今日じゃなくてもいいんじゃない?」とは思う。もちろん「借金の期限が今日までなんだって」と言われたら、また別のことを言うとは思うけれど、好きな漫画やアニメのコミックスの発売日が明日だとか、放送回が明後日だとか、そうした理由によって延ばせるだけ延ばすって、本当に大切です。

 また、宗教や哲学についての本を読んだり、死ぬほど暗い映画を見る……といったことも、人によっては救いになります。わたし、ここのブログを読む限り、結構本とか読んでるっぽい人に見えるかも、なのですが、もともとは漫画とゲームが大好きで、活字がびっしり並んでるような本はあんまし読まないタイプの人でした。でも、死ぬとか自殺するっていうことを考えてる時って、普段読まないそうした本の内容が、面白いくらい頭に入ってきます。今にしてみると、「どうにか死ななくてもいい方法やヒントがそこに書いてないか」と脳が必死になって探していたからじゃないかと思うのですが、死ぬほど暗い映画を見たあとなんて、「ここまでよく人を暗い気分にさせられるな」と、何やら客観的に冷めてしまい、むしろちょっとだけ元気になったほどです(そしてこういう時に中身のないアクション馬鹿大作やくだらないポップコーン映画を見たりすると、何故か猛烈に腹が立つ・笑)。

 あと、わたしの場合自殺なんて考えたこともない、薄っぺらい人にうっかり相談してしまったことで、ぺらぺらな中身の薄い説教風の言葉が返ってきたことで、「いや、実はオレ、こいつより生きてる価値あるんじゃねえか?」と思ったことすらあります。ええとですね、ようするに「自分の悩みを口に出して言う」って、そういう意味でも結構大切なんですよ。相手がまったく理解せず、共感するふりだけしかしてくれなかったとしても――「あれ?実はわたしの悩みって話すとそんなふうに受けとめられるの?」という雰囲気によって、明日もまた生きる元気が湧いてくるっていうこともありますから。

 それではまた~!!






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