神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

愛とは何か。

2023年03月13日 | キリスト教
【ご主人さま、お慕い申しておりますにゃ】(=だからエサくれコール・笑)

 神は愛です。

(ヨハネの手紙第一、第4章16節)


「まあ、もし神さまが本当に神さまだったとしたら、そりゃそーでしょうよ。けれど、その神さまの愛を信じられないような状況を神さまが許すから、それでみんな神さまなんて本当にいるのかなって疑いはじめるんでしょーが!」……と感じる方は多いかもしれません。

 それで、今回はそういった禅問答(?)について長ぁ~く語りたいわけではなく、ちょっと自分的に「本当の愛ってなんだろう?」みたいに少し思うことがあったもので(^^;)

 かなり昔のことになりますが、とある教師の免状を持ってる女性が、小学校の養護学級で働くことになりました。彼女としては、養護学級でないほうの先生を希望していたそうなのですが、そちらのほうは倍率が高いので、それで養護学級のほうで働くことにした……みたいな話だったと思います。

 仕事のほうはかなりのところ大変だったらしく、ある時こう言ってたことがあるんですよね。「自分は向いてないし、今すぐやめたい」、「親のほうでも障害のある子供の面倒をちゃんと見てないことが多くて、何日もお風呂に入ってなかったりして汚い」、「なんでわたしがそんな汚い子たちをお風呂に入れたりとか、そこまでしなきゃいけないわけ!?」……その話しぶりからしてみても、ストレス溜まりまくってイライラしてる――みたいなオーラが凄かったので、口に出しては言いませんでしたが、「確かに、そんなに大変で、自分でも向いてないと思うとしたら、やめたほうがいいんじゃないかな」とは思いました。

 で、その彼女というのがその後どうしたかわからないんですけど、実をいうとわたしの友達の元カノだったので、その頃別れてしまい、その後どうしたのかまではわからないという。この頃、彼女としては仕事をやめたくて仕方なかったらしく、それで彼氏さんのほうに「結婚したい」とか、実際には妊娠してなくても「妊娠したかもしれない」と言って試したりとか、結局そこらへんが嫌になって、その友達も別れることにしたということでした。。。

 これはもちろん、その友達はそんな女性と別れて正解だったね……とかいう話ではまったくなく、わたしが彼女の話を聞いてて思ったのが、「愛のある人だなあ」っていうことなんですよね(^^;)

 わたしもそんなに深い関わりが長くあった――というわけではないんですけど、障害のある方のお世話って、本当に大変です。知的障害のある方だと、認知症の方のお世話にも似て、こちらの言ったとおりに全然してくれなかったりとか、何かひとつの物事を覚えてもらうのも大変なんだなと思ったことがあって。それで、周りの職員さんとか見てるとわかるわけです。時にイライラしたり怒鳴ったりしながらも、繰り返し同じことを言って覚えてもらおうとしたり、作業を続けてもらったりとか……時々、見てて「つらいけど、これが現実」みたいなところもあります。しかもそこに「愛があるか」というと、これがそうでもない(笑)。「あの子は比較的物覚えも早くてラクでいいよね」とか、「Aくんはある程度話も通じるからいいにしても、Bちゃんは一番手がかかるよね」とか、「あくまでも仕事として面倒みてる」というか、そうした側面が強い職員さんも多いような印象でした。

 もちろん、そうした「大変さ」みたいなことも越えて、「よくここまでのことが出来るなあ」みたいな、本当に心の優しい職員さんもいます。でも、介護の現場って「色んな人がいて、みんないい」みたいなことが理想のように自分的には思ったりするので……「仕事としてただ面倒みてる」とか、「休み時間には利用者さんの悪口ばっかり言ってる」とか、極端にひどくない限りは、わたし自身は「そこにも愛がある」と感じる場合がありました。

 最初に書いた友達の元カノさんの場合だと――養護学級の子をお風呂に入れてあげて、爪の間に挟まってる黒いものまで取ってあげたということでしたから、そのことで彼女自身が「なんでわたしがこんなことまで!」みたいに怒ってたとしても、その子のいる前ではそういう感じじゃなかったんだろうなと思いますし、結果として、その男の子が綺麗になって、爪も清潔な状態になったんだとしたら……わたし自身はそれって、「愛の行為だなあ」って思うわけです。

 それで、そういうところから親御さんのほうでも「先生にそこまでしてもらうのは申し訳ない」と思って、本人が嫌がってもお風呂に入れたり、爪も切るとか、そんなふうに変わる可能性だってあるかもしれない。その子自身も、先生がそこまでのことをしてくれたっていうことで、喜んでいたかもしれない……友達の元カノさんにしても、最初は「なんでわたしがここまで!」と思っても、何かちょっとした変化ですよね。そのことで誰かからすごく感謝されるとか、同僚から褒められるとか、仕事が終わったあとに、溜まったストレスを全部ぶちまけられる仕事仲間がいるとか――そうした何かがあれば、良い方向に物事が転がっていく場合もあると思う、というか(ただし、これが悪いほうに転がって虐待とか、虐待スレスレとか、そうした可能性もあるとは思ったり)。

 それと、もうひとつの「愛とは何か」例としては、結構性格キツイことで有名なお嫁さんがいて、同居してるお姑さんの面倒を見ることになったわけです。お姑さんの足が悪くなる前から、二階建ての上と下に住んでいて、ふたりの仲は決していいほうではありませんでした。

 それで、このお嫁さんも周囲の人に「ストレスたまる~、ストレスたまる~!!」と、時にキレ気味になって言う感じだったのですが、結局のところそのあと五年、お姑さんの面倒を見たわけです。もっとも、本人のいる前で「お義母さん、さっさと介護施設に入ってよね!」みたいにはっきり言う感じではあり、五年面倒みたあと、ようやく介護施設に空きが出て、お姑さんはそちらへ入所することになりました。。。

 まあ、このお姑さん、その介護施設のほうでも、訪ねて来た親戚などに介護職員の悪口を言いまくるという感じだったので(でもその気持ちもよくわかると、聞いてて思った)、果たしてどちらが良かったのか……という話でもあったり。というか、お嫁さん曰く、お姑さんがいなくなくってスッキリした(本人談☆)のは良かったものの、介護施設って今度はお金がかかって大変だ……とはよく言ってる感じだったので。そのお姑さん自身、介護施設へ入ってからも結構長生きされて、十年以上はそこにいたんじゃないかなって思います。

 でも、自分的に「愛とは何か」と言われると、時々「そういうことなんじゃないか」って思ったりします。結局このお嫁さんは「あ~、またお義母さんのとこ行くの面倒くさい」と言いながらも結局、月に最低二回とか、そのくらいは通ってたという話ですし、「あ~、もうお義母さん、その話前にも聞いたって!」とか、「また同じ話!!」とか言いながらも、お嫁さんとしての義務は果たしていたというか、そうしたことだったと思うので。。。

 人にはやっぱり向き・不向きがあって、介護の仕事とか、「好きだし、自分でも向いてると思う」と思える人のほうがラッキーとは思うんですよねでも、イヤイヤながらでも、結果としてみれば「よく何年も介護したよね」ってことでもあると思うわけです。もちろん本人に「それも立派な愛の行為と思うよ」と言ったりしたら、「あんなの、そんないいもんじゃない」っておっしゃるかもしれない。

 でも、自分的には「愛って何?」と問われ、自分でもなかなか出来ないこととしては「そういうことなんじゃないかな」と、本当にそう思います(また、クリスチャンの方であれば、その出来ないことを出来るようにと、イエスさまに祈っているのではないでしょうか)。

 それではまた~!!






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