神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

我が霊に書き記されていればこそ。

2019年02月21日 | キリスト教
【聖霊降臨】エル・グレコ


 >>見よ。その日が来る――主の御告げ――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。

 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった――主の御告げ――。

 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ――主の御告げ――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ――主の御告げ――わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。

(エレミヤ書、第31章31~34節)


 教会でイエスさまのことを受け容れる告白をし、聖霊のバプテスマを受けたその瞬間から――神さまや聖書のことに対する学びがはじまり、クリスチャンとしてある程度成長したように感じた時……はっきりとわかるあるひとつのことがありました。


 >>けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

(ピリピ人への手紙、第3章20節)


 とあるように、自分の名前が天国の書物に書き記されているということと、それと同時に自分の心や精神や魂――といったことを一言で<霊>と呼ぶとして、この霊に神さまの教えが(ちょうど十戒のように)直接書き記されているがゆえに、もはやイエスさまに対する信仰が揺るぐことは決してないということなんですよね(^^;)

 これは、クリスチャンとして同一の体験をされている方にだけわかることで、ノンクリスチャンの方には「うっさんくせーな。一体何いってるだ☆」といったように感じられることかもしれません(わたしが逆の立場で同じくノンクリスチャンで、キリスト教徒と呼ばれる人々が同じことを言ってたらおそらく、「宗教って怖いな」とでも思って、その人には近づかないかもしれません)。

 けれど、この霊のひきつけがあるゆえに……あ、身体がひきつけを起こすといった意味ではなく、神さまやイエスさまに聖霊さまによって強く惹きつけられる現象を朝起きてから夜眠るまで感じ、さらには聖霊さまは霊であって眠ることさえなくわたしたちを守ってくださるがゆえに――そうした神さま、イエスさまの深い愛とご配慮のあることが一度わかると、この方からわざわざ離れて滅びる羊のように迷子になろう、とはもう誰も思わなくなる、ということです。

 なんと言いますか、欧米の方の信仰の証し、あるいは映画の描写などでも描かれることがあると思うのですが、物凄い犯罪人が刑務所でイエス・キリストに触れられて生き方を変える、あるいはギャングの一団に入っているような男、ドラッグの売人にでもなる以外仕方なかったような方が、突然キリストの光に触れられて改心する……しかもそれが、一時的なものではなく、奥さんや子供に対する接し方まで変えられ、真面目に働くようになったり……これは人間が努力してそうなれるといったことでなく、父と子と聖霊の御名によっての、聖霊の注ぎかけ(聖霊のバプテスマ)を受けた時からそうなる、聖霊さまの惹きつけと言いますか、引っ張る力が強いゆえに、もう悪さすることが出来ないまでに変えられてしまう、ということが起きてくるわけです。

 人間はそう簡単には変われない……わたしも、これは本当にそう思います。たとえば、煙草とお酒が大好きな人に、どんなに「体に悪いから」と説き伏せても、本人もわかっていてなおやめられない――煙草とお酒というのはあくまで比喩で、誰しも大体のところ似た何かを持っていて、人はそう簡単に生き方を変えられたりはしません。

 けれど、「キリスト教?うさんくさいな」、「そんなものに騙されないぞ」、「この俺を変えられるというのなら変えてみろ!」……くらいの気持ちで教会へ行ったところ、教会に満ちている聖霊さまに触れられ、そこが入口となって人生が変わっていった……という方がたくさんいらっしゃるということなんですよね(^^;)

 わたしもまたかつては、「聖霊だァ?何言ってるだ☆」といったタイプの人間だったわけですが(笑)、理屈として聞かされても、「へえ。そんなものかね」くらいだったことが、実際に自分でも触れて体験すると――自分は天地を造られた神さまの前に塵あくたに等しい存在であり、にも関わらずこの<塵>に目を留めてくださる神に、ただ「アーメン」という以外には口に出来る言葉すらない……ということが、確かにわかってくるのです。

 冒頭のエレミヤ書の言葉に戻りますと、旧約時代はまだイエスさまが地上へ来ておられませんから、聖霊の降臨という出来事もなかったわけですが、イエスさまが十字架におかかりになられ、死から復活してくださったことにより……その後、イエスさまが天に昇られてのち、この聖霊さまを送ってくださって以来――ペテロやヨハネなど、イエスさまが直接教えられた弟子が経験したのと同じ体験を、あれから二千年以上過ぎた今も、イエスさまを信じる者は経験することが出来るっていうことなんですよね。

 この間テレビで、「どんなことも占いで決める」という占女(うらじょ☆)と呼ばれる方が出ていたのですが、言ってみれば旧約時代のイスラエルの人々は、真実なる神さまの教えを受けていながら迷いやすく、心がひとつに定まっていませんでした。今の日本でも、こうした占いだけでなく、神社仏閣をパワースポットとして訪れたり、「少しでも運気が上がるように」と思って、そうした場所で清めたという宝石類を身に着けたり、あるいはそれ以外にも海外の寺院その他、昔から祭られている伝統ある場所で売られているものを神秘的に感じて買ってみたり――そうした色々なものを幅広く取り入れて、スピリチュアルでなんだかとってもいい感じ!みたいになるってありますよね。でも、霊的にはこうした色々なものが混ざるのってむしろ危険なことだったりするっていう(^^;)

 また、神さまや聖書は教えています。実はそうした一切は役に立たない、と。人の心は弱く迷いやすいもので、神さまに選ばれた民イスラエルの人々でさえも、異教の神々の何かを取り入れて、同時に真実なる神さまのことも礼拝し……そのような混合宗教の罪深い結果として、彼らは最後、国の滅亡と民族の離散という悲惨な経験をするということになりました。

 けれども、イエスさまが十字架におかかりになられて、人類の敵である死にさえも打ち勝ち、復活された今は――そのことを信じるすべての者に、聖霊が与えられることにより、神さまの教えが直接霊に書き記されることによって、他の偶像的教え、あるいは占星術的なものなどは一切受け付けなくなるのです。

 何故といえは、イエスさまの御名と十字架にのみ力があり、この方の御名に頼ってさえいれば、他の神の力や占いの力などは必要ではなくなるからなんですよね。もしそうでなければわたしも、「イエスさまのことも信じたけどー、今年の自分の運勢はどーかしらー」とか、「イエスさまの十字架も信じつつ、他に神社仏閣も拝んで運気2倍!いや、20倍かしら?」みたいな、アホな子のままだったことでしょう(笑)

 わたしは他に哲学の本を読んだりするのも好きですが、たぶん、西洋哲学の歴史的なことを学ぶにあたって、日本人にとって一番壁になるのが、このキリスト教の教えや聖書の内容などが密接に絡みあっているということだと思います。

「神は死んだ」と言い、超人説を唱えたニーチェでさえ、その哲学の基礎は聖書やキリスト教の教えにあることがわかります。そして彼自身はキリスト教の教えを否定していたにせよ、ニーチェの哲学の礎はキリスト教にあるわけです(ちなみにニーチェのお父さんは牧師でした^^;)。

 そして、結局のところわたしは自分がクリスチャンになってわかったのは、哲学の人間的な教えも素晴らしいけれども、その中でももっとも優れているのはやはりキリスト教神学だろうということでした。


 >>もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。

 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。

 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

(コロサイ人への手紙、第2章20~23節)


 >>キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。

 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力ゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

(コリント人への手紙第二、第13章3~4節)


 >>しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」

(コリント人への手紙第二、第12章9節)


 神さまの弱さは、人間の内にあっては最強の強さです。

 この世のもっとも弱く、一般的に賢くないとされる人々のことをも用いて神さまの栄光とされるこの方にのみ栄光を帰し、「世の終わりまでも」、「またそのあとも」、みそばで輝く者とされたいと思います

 それではまた~!!



 >>事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。

 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。

 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

(コリント人への手紙第一、第1章21~29節)

 



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