神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

ほんの少しの痛みで、この世界は輝くばかりに美しくなる。

2019年02月15日 | キリスト教


 キリスト教でいう「天国」とは、イエスさまが直接統治しておられる、完璧にして完全な世界であると言われています。


 >>また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。

 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。

 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。

「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」

 すると、御座に着いておられる方が言われた。

「見よ。わたしは、すべてを新しくする」

(ヨハネの黙示録、第21章1~5節)


「わたしは、とても美しい景色を見るのがキライだ」という方は、おそらくいらっしゃらないのではないでしょうか。

 もちろん、一番いいのは実際にその場所へ行って直にその美しい景色を眺めることとは思うのですが、でも今はインターネットで世界遺産を見たりですとか、他の人がそうした場所へ行った旅行の写真集など、手軽に見ることが出来る時代とも思います

 わたし自身はテレビで芸能人の方などが海外に旅行へ行った際の、そうした景色を見るのが好きですし、あるいは写真集で綺麗な世界の景色や場所を見るのがとても好きです

 また、そうした世界や日本の観光名所的場所でなくても……自分の住む市内の見知った場所でも川を見たり海を見たり山を見たりする時、十分にそうした<美>の世界に浸るということは可能だったりしますよね

 ただわたし、時々たまーにこう思ったりもするんですよね。。。

 わたし自身の心に悩みや苦しみや痛みといったものが何もなかったとしたら――そうあまり、身近な世界を支配する<美>といったものにここまで敏感になることはなかった気がする……といったように。

 たとえば、「わたしはその瞬間<美>に目覚めた」なんていう言い方をしてしまうと、一般的に「化粧をするようになった」とか「美容に目覚めてエステ通いするようになった」――みたいに誤解されてしまいそうですけれども、これはそうしたことではなく(^^;)

 わたしが身近にある小さな<美>や<美の支配する世界>といったものに目覚めたのは――いわゆる、芸術家さんのいう「わたしはその時、世界を支配する<美>に目覚めたというあの感覚――自分に深刻な悩みがあって、死ぬことを考えていた時でした

 たとえば、ガンを宣告され、治療の見通しも暗く、お医者さんから余命まで宣告された方が、病院からの帰り道、突然にして世界が輝いて見えはじめ、「ああ、このことにもっと早く気づきたかった」ということにも似ているかもしれません。

 毎日、空は同じ<青>ではなく、この空の青を映した水たまりが天上の湖のようにすら感じられたり、あるいは緑の葉の一本一本が少しずつ違う緑色をしているということに気づいたり……そして、さらに自然の奥深いところへ出かけていくと、この感覚がさらに強烈なものとなり、「天国ってもしかして、こんなところなんじゃないかしら?」と感じて嬉しくなる――といった経験を、多くの方がされたことがあると思います。

 もうほとんど皮膚の穴という穴から官能的といってもいい<美>の感覚が侵入してくるのにも似ているのですが、わたしが思うに、イエスさまのおっしゃる天国というのは、当然この地上における最上の<美>よりもさらに素晴らしい場所なわけです。


 >>悲しみは笑いにまさる。 顔の曇りによって心は良くなる。

(伝道者の書、第7章3節)


 もちろんわたし、お笑いも大好きですけど(笑)、実際のところ、自分の心に鬱的な何かを与えるものがあればこそ、人はそのようなもの(ストレス☆)が何もない世界に憧れるわけですよね。

 でも、こうしたつらさ、悲しみ、痛み、苦しみ、悩み――というものを一度も経験したことのない人というのは(もちろん、そのような方はいらっしゃらないと思いますけど^^;)、実際のところ、天国のありがたみを理解しないのではないでしょうか。

 エリナー・ファージョンのお話に「天国を出ていく」という面白い短編があるのですが、おそらくそのような環境(悩みも苦しみも悲しみもない世界☆)にわたしたちが最初から置かれていた場合、神さまにしじゅうこう言うことになるかもしれません。

「ねえ、神ちゃま。この天国のお外はどうなってるの?ぼく、それを知りたいな!

 でももちろん、神さまや天使は何度も繰り返しこうおっしゃることでしょう。

「天国の外は寒くてつらくて、とても大変な場所なんだよ。それよりここにいたほうがずっとおまえのために良いことなんだよ」と……。

 けれども、当然わたしたちには「寒い」とか「つらい」ということがどんなことかすらわかりません。それで思うのです。「わたち、そのちゃむいとかちゅらいってこと、一度経験ちてみたいな!」と。

 馬鹿ですねえ、愚かですねえ(笑)

 何もアダムがイヴからもらった林檎をかっ食らわなくても、結局わたしたちは最初からそうしていたに違いないのです。

 そして、「一度地上に下りたら死ぬまで戻れないよ」と最初から天使たちが親切に教えてくれていたのに、「それでもいいの!」と言って、<死>が何かすら理解しないまま――地上へ下りてきてから知るわけです。

「天国の外がこんなにちゅらい場所だってちってたら、あたちたち、決して神ちゃまのしょばから離れなかったのに!」と……。

 でももちろん、神さまはそんなわたしたちの愚かさをよくよくご存じの上で、イエス・キリストという人類最後の救いとなる方を地上へ送ってくださったのですし――結局のところ、人生である程度の酸いや甘いをかみ分けてみると、「ほんの少しの痛みがあることで」、「世界がこんなにも美しく見える」ことに感謝するようになるのではないでしょうか。

 わたしにも、「それでもこうしたことは人生に起きて欲しくなかったな」ということは当然あります。けれども、自分が痛みを味わわないことには、決して人の心の痛みや苦しみ、悩みについてそう深くまでは理解できないと思うのです。

 ただ「苦しみや痛みがそこにある」というだけでは、それは無価値なものですが、そのことで人の優しさがより心に沁みたり、誰かの心の痛みをより深く理解できるという意味においてのみ――初めてそれが生きてくるのだと思います。

 そして、どこか外国の遠い場所まで行かなくても……自分の極めて身近にいくらでも<美>や<天国>が無限にあるということに気づくということさえ出来ます。苦しみや悩みや痛みといったものは、そのただ中にある時、またそれがあまりに重いものだと、あって有難いなどとはまるで思えませんけれど、それが過去の古傷くらいになった頃になら――そのお陰で世界がこんなにも美しく見えるようになった……あるいは、人の気持ちがまるで自分のことのようにすら感じられるといったことを、人は素直に感謝できるようになるのではないでしょうか。


 >>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

(ローマ人への手紙、第8章28節)


 >>いつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。

 すべてのことについて、感謝しなさい。

 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロニケ人への手紙第一、第5章16~18節)


 イエスさまにあって、聖霊さまを通して聖化された心で、魂に沁み通るように美しい世界に囲まれながら――そのすべてが神さまの素晴らしい御手の業であることを感謝しつつ、日々祈っていけたらと願っています

 それではまた~!!





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