神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神の真理を人間の側で加工することは出来ない。

2019年07月12日 | キリスト教
【最後の審判三部作之二:最後の審判】ジョン・マーティン


 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。

 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。


(使徒の働き、第17章26~28節)


 あなたの指のわざである天を見、
 あなたが整えられた月や星を見ますのに、
 人とは、何者なのでしょう。

 あなたがこれに心を留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。
 あなたがこれを顧みられるとは。

 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。


(詩篇、第8編3~5節)


 キリスト教でいう三位一体の<神>とは、父なる神・子なる神イエス・キリスト・聖霊のことを指しています。

 聖書全66巻の中心主題はイエス・キリストであり、何故この方が<神>であるのか、一度聖霊を受けてキリスト教徒になってしまうと、このことに疑問も議論の余地もなくなるわけですが、それでも自分がノンクリスチャンであった頃の経験を通して、わかることにはわかるわけですよ(^^;)

「今から約2千年ほど前に生きた男の生涯が一体なんだというのだ?」といった一般的な疑問や、あるいは、三位一体の第一位格である<父なる神>に対して、何故これが<母なる神>であってはいけなかったのか、第二位格である<子なる神、イエス・キリスト>とは何者か、第三位格の聖霊とは何か、聖霊とは、精霊とどう違うのか……といった漠然とした疑問を、わたしもなんとなく持っていました。

 また、自分がまだキリスト教徒でなかった頃は、「キリスト教の神だけは絶対に神でない」との確信にも近い思いがあり、それは何故かといえば、こうした「教理」を学ばなければならないという時点で――「それはすべての人に与えられた平等な神でない」といったような、何かそうした強い気持ちがあったからでした。

 いわゆる<選民思想>というか、キリスト教の神は自分を信じる者は救うが、その他の者は救わないといったように聞いていたので、そうした点も「変だ。そんな神さま、絶対本当の神さまなんかじゃない」といったように感じていたのです。

 けれども、クリスチャンになった今はわかります。神さまのイエスさまを通して全人類を救おうという御計画が完璧にして完全なものであることが……もちろん、この過程のどこかで誰かから洗脳されたということでもなく、むしろわたしは非常に懐疑的な思いを持ちつつ、「少しでも変なところがあったらすぐ逃げ帰ろう」と思いながら教会へ行ったといったタイプの人間です(笑)

 そして今の時代、ここまで科学というものが進歩してくると――旧約聖書のはじめのほうを読んだだけでも、非常な矛盾に満ちていると感じる方のほうが多いのではないでしょうか。人類はアダムとエヴァから増え広がったのではなく、わたしたちは猿から進化したのだ……ということになるのでしょうし、アメリカのミッション系のスクールなどではこの進化論については否定し、生徒たちにも教えていないと聞いたことがあります。

 また、キリスト教でもユダヤ教でもイスラム教でも、神はただおひとりであり、この神が全天全地、また全宇宙を創造したと言っています。わたしは宇宙物理学等に詳しいわけでもなんでもありませんが、それでも神がもしいるなら、ビッグ・バンの前からいて、また、ビッグ・バンを起こしたのも神の御意志だ、ということになるのではないでしょうか?

 ところがどうも物理学者さんたちによると、ここに神が関与していたとは思えない、何故ならビッグ・バンが起きる前の諸条件等を考えてみるに、<全能の神>とやらが関わった痕跡があるとは思えないからだ……と、わたしも難しいことはわかりませんが、数式とともに理詰めで推察していくと、どうやらそうしたことになるらしく(^^;)

 でも、結局のところ人間が<神>という存在に思いを馳せるということはこれからもなくなることはないでしょうし、個人的には有限なる人間の打ち立てたこうした理論というものには神さましか知らない<抜け道>があるのではないかと想像しています。

 そして死後、天国に行ったあとにでも……「実はそういうことだったのか!!」と、知ることになって驚くのではないかと

 また、わたしたちが顕微鏡で何かの細菌を見る時のように、神さまが地球に張り付いている人間を見る目というのは、そのようなものではないのかと考える方もいます。つまり、わたしたちが顕微鏡で大腸菌を見る時、これは善玉菌、悪玉菌、日和見菌……と分けて見たとして、善玉菌と悪玉菌との間に大して差異などないだろう、それらはみなばっちい大腸菌だ……とでもいったような、神さまの視座に立ったとすれば、人間はみなそのように大して個々の存在に違いなどないようにしか見えないだろう、ということです。

 そして、わたしたちが大腸菌に対し、自分の中にあるものは別として、外に出たものに関してはとにかく触れたくないと感じるように――神さまは、いるにしても遠くに離れており、人間ひとりひとりに対して親身に関わってくれるような存在ではないと、そのように主張される方もいます(※たとえは大腸菌ではありませんでしたが、意味としては大体同じだったと思います・笑)。

 わたしも、もし神さまがいるのなら……そのような方をもし知ることが出来たとしたら、「ああ、わたしはあなたを知っていました」みたいな、そんな懐かしい既視感を覚えるのではないかと想像していました。けれども、キリスト教の神であるイエス・キリストのことを知った時、わたしはこのような方のことを「これまでの間、一度として知っていたこともなかった」と、そのように感じました。

 もちろん、「何故知らなかったのか」、「神さまは何故もっと早くに御自身の存在をわたしに知らせてくださらなかったのか」、また、「知ることになったのが何故<今>だったのか」など、疑問に感じる方もいらっしゃるかもしれません。

 けれどもわたしの場合は、「最善の時にイエスさまのことを知ることが出来た」と、今もそのように感じています。たとえばわたしは十代の後半くらいから死ぬこと、自殺することを考えるようになり、その状態というのは二十代の初めくらいまで続きました。

 ここを読んで同じことをされる方がいるといけないので薬の名前は伏せますが、たまたまその時病院から処方されていた薬を大量に飲むと、死に至ることがある……と本に書いてあるのを偶然読み(当時のわたしはその本を読んだ時、自殺することは自分の運命なのだとさえ思いました)、病院からいただいた薬をある一定の期間溜め、それをワインと一緒に全部飲んだのでした

 翌日、病院に運ばれることになり、薬の影響が抜けてから家へ戻ったわけですが、この時に思ったのはとにかく、「人間そう簡単に死ねるものではないな」ということだったかもしれません。睡眠薬等の大量服用による自殺というのは、死への衝動が比較的小さいものと見なされるようですが、こうしたある意味生ぬるいとも言える中途半端な自殺法でも、体への負担は大きいものでしたし、気分の落ち込みからの回復であるとか、そういう部分でも本人の精神的な負担というのはかなりのところ大きいのではないかと思います。

 何故、「大きいものでした」ではなく、「大きいのではないかと思います」と書くのかというと、死ななかった、死ねなかった時点で、わたしの思考の切り換えはかなりのところ早かったからなんですよね。つまり、他の方法を試みるにしても、薬をたくさん飲むという方法でも回復するのは結構大変でしたから、他の「これなら確実」という方法を試して生き残った場合、それは相当悲惨なことになるし、気が弱っているため、そこまでの死への強い意志を自分は持つことが出来ない……とそう思ったからでした。

 確か、そのあとすぐ某デパート内に入っている本屋さんへ面接にいって働きはじめましたし、死ぬことが出来なかった以上とにかく働くしかないと思い、まずはパート職員として働きはじめることにしたのでした。

 そして大体この一年後くらいだったと思いますが、某病院で看護助手の募集をしている求人を見かけ、そちらの面接等に合格したのち、看護助手の正職員として働いていた時――勤務することになった病棟が脳梗塞や交通事故などで意識不明となり、その後植物状態になってしまった患者さんが多かっため、自分的にこれは「宗教の支え」といったことが必要だなと直感的に感じたのでした。

 もともと昔から宗教系のことが大好きだったので、まずはキリスト教や仏教のことなどを調べ、その後、もし手が回ったらイスラム教のことも調べてみようと考えました(※この時点ではまだ9.11は起きておらず、わたしがイスラム教について書かれた本などを読むようになるのは、9.11以後のこととなります)。

 そして、聖書についての解説書を図書館で借りた時に、そこにある冊子が挟まっていて、「汝、散文の美しさゆえに聖書を読む者を友とするなかれ」とあったわけです。この言葉を読むなり、神さまにすっかり心を見透かされたように感じ(というのも、わたしは聖書やキリスト教というものを文学・文化として知りたいだけであって、キリスト教徒になるつもりはまったくなかったので)、そこで生まれて初めて教会へ行くことにしました。

 こうして、「何か少しでもおかしな気配でも感じたら、すぐにも逃げ帰ろう」と思っていたにも関わらず、一度教会へ行っただけで救われることが出来ました。けれども、もしわたしが自殺することばかり考えていた時にこのイエスさまの福音のことを聞いたとしても――「この世に神がいるのなら、AはBでどうしてCじゃないんだ!!」とか、「何故わたしの人生はAがBでCじゃなかったんだ!!」みたいな愚痴ばかりが先行し、もしかしたら救われるのは難しかったかもしれません(もちろん、こうした自殺することを深刻に考えていた時、鬱病のどん底にあった時に教会へ行って救われたという方もたくさんいらっしゃると思うのですが、あくまでもわたしの場合^^;)。

 けれども、そうした何やかやを自分なりに乗り越えて、人のために尽くすというか、「こんなわたしでも、誰か人の役に立つことが出来る!!」と、看護助手という仕事を通して知った時、わたしの中の<時>と神さまの<時>がちょうど合わさっておそらくはイエスさまのことを信じることが出来たのだと思います。

 つまり、わたしのこうした証しなどは本当に小さなものですが、今回のタイトル『神の真理を人間の側で加工することは出来ない』に立ち返りますと、わたしたちが現在使っている<西暦>というのは、イエス・キリストの誕生の翌年を元年として、それ以前をBC、それ以後をADとしているわけですが、たとえば、「キリストの誕生は何故<その時>だったのですか、他の時ではいけなかったんですか」などと、人間の側では神さまに言ったりは出来ないということなんですよ(^^;)

 たとえば、イエスさまはユダヤ人だったわけですが、イエスさまの系図を遡っていくと旧約聖書の信仰の父、アブラハムへと行き着きます(マタイの福音書、第1章より)。ここから、何故神さまの選びの民がユダヤ人(イスラエル人)でなくてはいけなかったのか、他の民族を選んでも良かったのではないだろうか……と、呟いてみることも出来るかもしれません。

 けれども聖書の真理、その普遍性といったものは、わたしが思うにそうしたことではないんですよね。究極、神さまがお選びになる民の名前は、他のどの民族でも良かった、ということも出来ると思います(「神はこんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことができる」と聖書にはありますから)。

 ただ、神さまがユダヤ人(イスラエル民族)以外の民を選んだ場合でも、若干の違いはあったにせよ、大筋で起きたことは大体同じだったのではないかと推察されるわけです。出エジプトのような大きな神さまの救いの業を見ていながら、その後ブチブチ☆神さまに文句を言い続けたり、神さまの御意志に背くことを数限りなく行ってしまったがゆえに、世界中に散りぢりにされてしまったり……そして、このような民の罪深い状況を救うためにこそ、イエスさまは父なる神の定められた時にこの世にいらしてくださった、この救う価値なき人間を愛をもって救うために、十字架にかかって血を流してくださった、そしてこのイエスさまの十字架の血潮が、わたしたち人間の罪すべてを赦すものだったと人が信じる時――その人はすべての罪から清められ、天国へ行くことが出来るという特権さえも与えていただくことが出来るのです。

 わたしたちは一般に、悪人は裁かれて地獄へ行き、善人は天国へ行くことが出来る……だからお天道さまに恥かしい生き方をしちゃいけないよ、といった価値観で生きていると思います。またわたし自身、自然の奥深くに入っていった時に感じる畏敬の念や深い共感的感情、自分が自然の一部として魂の隅々までが清々しく癒される感覚が大好きでしたし、そうした時に自然の中に<大いなる存在>ともいうべき人智を越えた何かを感じ、もしこの世に神がいるとすれば、そのようなものではないか――といったように漠然と感じたものでした。

 また、仏教的な行事やお寺をお参りしたりといったことが小学生くらいの頃から好きでしたし、仏壇にお線香を上げて手を合わせるといった儀式的なことも大好きだったので、神さまというのはこうした仏教的な神さまと、自然の中に感じるような神さまとが、特にそれほど矛盾せずに同時に存在して、そのどちらもが神である……というのが、わたしの宗教観にもっとも近いものだったと思います。

 けれども神さまは神であられますから、人間が文句も言えないようなというか、ぐうの音も出ないような真理を打ち立てられたといっていいと思うんですよね。わたしも自分がクリスチャンになる前までは「キリスト教はここがおかしい!!」的に色々な屁理屈をこねていたわけですが、わたしは何もそうしたことが理屈としてすべてクリアーされたからイエスさまのことを自分の救い主として信じたわけではないのです。

 もしわたしがそうした理屈にこだわり、「キリスト教の神が真実本当に本物の神であると理屈で納得できたら信じます」と言っていたら、わたしは永遠にイエス・キリストを信じることもなければ、聖霊を受けることも決してなかったでしょう。


 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。

 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。


(ピリピ人への手紙、第2章6~11節)


 神の御名を、本当に心から賛美し、褒め称えます

 イエスさまはこの世に生きられた間も、また死して三日して甦り、昇天されたあとも――御自身のことを「ある者は信じ、また別のある者は信じない」ということを重々承知の上で神さまの御言葉を述べ伝え、人々から悪霊を追い出し、様々な病いの癒しを行うという業をなされました。

 聖書というのは実に優れた完璧な書物であり、このあたりのこともすべて、救世主(メシア)に対する預言として旧約聖書に書かれており、新約聖書から読みはじめて次に旧約聖書を読むということを二度、三度と行っているうちに……神さまの御配慮の完璧さといったことをあらゆる角度からあらゆる形によって思わされることになるんですよね。

 神さまは神さまなんですし、御自身の御子であるイエスさまを地上に遣わした時点で――否も応もなしに、すべての人がイエスさまのことをキリストであるとして膝を屈めて信じる……というようにすることも出来たはずでした。

 ところが、「ある者は信じるが、また別のある者は信じない」というのが、奇妙なように聞こえるかもしれませんが、とにかくそれが神さまの御心だったのです。また、御自身の御子であるイエスさまにドラゴンボールで言うならスーパーサイヤ人のような力を与え、ユダヤ民族をローマの支配から解放させるということも、神さまにとっては実にお茶の子さいさい、簡単になさることが出来たはずです。

 けれども、御自身のひとり子が地上で苦労の多い日々を過ごしたのみならず、十字架にかかって血を流し、苦しみの極みと死を味わうということ、それが神さまの御計画であり、父なる神の愛の極まりもまた、ここにこそ存在しました。


 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。


(ヨハネの福音書、第3章16~17節)


 正直わたし、クリスチャンになってからも暫くの間、深い意味ではこのことがよくわかっていなかったと思います。もしわたしが十字架に磔にされて死ぬ自分の息子の姿を見たとしたらば、胸が張り裂けて死ぬほどの思いをすることでしょう。むしろ、自分がそのような形で死んだほうが楽なくらいだと感じるくらいかもしれません。

 けれど、今はその頃よりもわかります。父なる神はただ無関心になんの痛みを感じるでもなく御子イエスを地上に打ち捨てたのではなく……のちには、すべての人が御子イエスを通して神さまの御元へやって来られるようにするためには、どうしてもこのことが必要不可欠であったということが。

 また、イエスさまもこの御父の愛に応えられました。「自分が神の言葉を語っても、ある者は信じ、ある者は信じないだなんて虚しい」、「しかもそのあとには十字架刑が待っているというのに、この信じない馬鹿どもは一体なんなのだろう」などとブツブツ☆文句を言うでもなく、最後までイエスさまは御父の完璧にして完全なる御計画にその身を委ねられたのでした。


 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。


(ヨハネの手紙第一、第4章9~10節)


 どうか、この神さまの深い、七つの海を合わせたよりも深く、空よりも高く、宇宙よりも広い神さまの愛を、すべての人が理解し、共有できるようにと、願ってやみません

 それではまた~!!





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