しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。
わたしが選んだヤコブ、
わたしの友、アブラハムのすえよ。
わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、
地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。
「あなたは、わたしのしもべ。
わたしはあなたを選んで、捨てなかった」
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。
見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、
恥を見、はずかしめを受け、
あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。
あなたと言い争いをする者を捜しても、
あなたは見つけることはできず、
あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。
あなたの神、主であるわたしが、
あなたの右の手を堅く握り、
「恐れるな。わたしがあなたを助ける」
と言っているのだから。
恐れるな。虫けらのヤコブ、
イスラエルの人々。
わたしはあなたを助ける。
――主の御告げ――
あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。
見よ。わたしはあなたを
鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。
あなたは、山々を踏みつけて粉々に砕く。
丘をもみがらのようにする。
あなたがそれをあおぐと、風が運び去り、
暴風がそれをまき散らす。
あなたは主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る。
(イザヤ書、第41章8~16節)
前にわたしが聞いたところによりますと、蟻というのは悩まないそうです
いえ、蟻のみならず、蝶やとんぼやてんとう虫など、昆虫全般、彼らはみんなDNAにプログラムされたとおりに生きているわけで、そういう意味で人間のように悩んだりすることはないそうです。。。
わたし、テレビで科学者(確か大学の先生か何か)の方がそう言っているのを聞いて、何かとてもほっとしました。なんでかっていうと、今のような夏の盛り、ふと気づくと何かの昆虫を踏んでいた、あるいは殺したくなくても、家にいられると不都合なため、なんらかの形で死亡してもらわなくてはならない……といった場合、これまでずっと彼らに対し、大変すまないというか、「悪いなあ」と思う罪悪感があったのです。なので、このことを聞いてなんか少しほっとしたというか(^^;)
もちろん、だからといって「昆虫なんぞは邪魔な時にはいくらでも殺していい生き物だ」と思ってるわけでもないのですが、昆虫の世界というのも人間世界と同じく、なかなか世知辛いものですよね。。。
以前、HKだったと思うのですが、とても綺麗な珍しい蝶が羽化するまでを追ったテレビ番組を見たことがあります。なんの蝶だったか名前は忘れてしまったのですが、とにかく、同じ種類の二匹の(たぶんテレビのスタッフさんは何匹も撮影していたのではないかと思われるのですが)蝶を追っていて――蝶さんというのも、わたしたちが普段見かける姿のようになるまでにはきっと、大変な御苦労があると思うんですよね
なんにしても、テレビの映像では、一匹目の蝶さんは蛹から無事羽化して大空へ羽ばたいていったのですが、二匹目の蝶さんは途中、緑の草の中で羽が引っかかってしまってうまく開ききらず、そこでもがくようにして蹲ってしまいました。
つまり、その後なんとか頑張って羽を広げて彼女(彼)もまた中空へ羽ばたいていった……ということもなく、テレビのナレーターさんの話では、もうそうなった時点でその蝶はOUTなんですね。急いで羽を羽ばたかせてその場から飛び去っていかなくちゃならなかったんですが、羽が開ききらなかった時点で、その蝶は生存競争に負け死んだも同然ということなのです。
実際、その時、その瞬間に羽が綺麗に広がらなければ、もうその蝶はそれ以上飛んでいけず、その引っかかった緑の葉っぱの上で死を迎える……というのではなく、まだ生きている時に他の鳥などに啄ばまれるということになるのではないでしょうか。
これも自然の残酷な一面と思いますが、こうした生存競争といったものから人間は逃れられているかといえば、人間には人間で、別の苦しみ・悩みがあると思います。
というより、あいつら(昆虫さんたち☆笑)は悩まないそうですから、こうなるとわたしたちが「残酷な自然の一面」などと思っているのも、ただのわたしたち人間の勝手な感傷であって……むしろいちいちそんなことを思ってみたり、あれこれ悩む力がわたしたち人間に備わっている時点で――何も悩まない昆虫たちなどより、わたしたちのほうがよっぽど哀れだという見方もできるのではないでしょうか(^^;)
人間を含めた自然界では、このような生きては死に、生きては死にのサイクルが気も遠くなる昔から幾度となく繰り返されてきているわけですが、この不幸にも羽化できなかった蝶に対して、涙ぐむような切ない何かをわたしたちが感じるのは……そこに自分の姿をなんらかの形で投影するからなのだと思います。
正直、その二匹のちょっと珍しい感じのする大きな蝶は、小さな卵として生まれ、その後蛹へと成長し、そこから蝶となるまでの過程自体はどちらもまったく同じなのです。ところが、ちょっとした不運、羽を広げて一気に飛び立つ時に、羽が広がりきるその直前で、ほんのちょっと羽が葉っぱに引っかかり広がり切らなかった……たったそれだけのことで、二匹目の蝶のほうは大空へ飛び立っていくことが出来ませんでした。
まるで、大空へ飛び立っていくことの出来た蝶は天国へ行き、そうなれなかったほうの蝶は、これから生きたままなんらかの別の生物に食われるという地獄が待っている……といったほどの差です。
これがよく言う天地ほどの差というものかとさえ思うのですが、一匹目のほうの蝶が大空に飛び立てたのは単なる<運のよさ>によるものだったとも見ることが出来ると思います。そして、二匹目の蝶のほうは、本当に一匹目とちょっとの差による不運によって過酷な自然世界の生存競争に負けてしまったのです。
ここまで来るのにでも、『一匹の蝶さんが成長するまでにはこんなに大変なのか!』という驚きと感動があったのですが、それをずっとテレビの映像を通して見守ってきただけに……『嗚呼、なんということだ、二匹目の蝶さんよ……』といった深く切ない思いがこみあげたものでした。
わたしもそうかもしれませんが、現代社会では「わたしは何も悪くない」という風潮が強いそうです。つまり、その時々に応じて自分なりに必要な努力はしてきたつもりだし、それでうまくいかなかったとしたら、それはわたしのせいではない、そこをどうかわかっていただきたい……というのでしょうか。
これってたぶん、この二匹の蝶さんにも似たところがあるような気がします(^^;)
つまり、この世を成功者と敗者に分けたとしますと、成功者さんというのは努力ということももちろんあると思いますが、その努力が実るか実らないかといった面については<運>が大きく作用するわけです。そして、『歯を食いしばってこれでもかというくらい努力した』という方と、『まあ人並というか、この世に生まれて<普通>に生きるだけでもかなりの量の努力というのは必然的に必要なんじゃないんですかね』といった場合でも――やっぱり、その方の人生がうまくいくかいかないかって、かなりのところ<運>に左右されるんじゃないかなって思うんですよね。
そして、ある人はほんのちょっとしたタッチの差によっていわゆるこの世の負け犬と呼ばれる側に振り分けられてしまう……こうした場合、やっぱりわたしも言いたくなると思います。「わたしは何も悪くない」って。
ただ、人間っていうのは業の深い生き物なので、「わたしは生まれてからこの方、良心の痛むようなことは一度も行ったことがない」という方はいないというのも事実であろうと思うのです(^^;)
ある種の人の謙虚さというのは、そうしたやましさや卑しさといったものが裏にあり、すべての<普通>と呼ばれる人の表皮を剥いだら、人間そんなものだ……といったことがあってこそ生まれるのではないでしょうか。そして、昆虫・植物・(人間以外の)動物・地球――そうしたいわゆる被造物の頂点に立つ人間こそが一番汚くて醜い……自然系のドキュメンタリー番組を見ていると、時折そんなふうに感じたりもします
けれど、キリスト教では実は、人間というのは他の地球上のどの生物とも違っている……と教えていたりするんですよね。
>>それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
(ローマ人への手紙、第8章20~22節)
と、同時に、人間もまた、時と場合によっては昆虫の一匹、何かの動物の一頭と何ひとつ変わりなどないではないか――と思うことがあります。
昔、これもまた何かの動物系のドキュメンタリー番組で、確かトラさんだったと思うのですが、どこかの底なし沼的な場所に足を捕られてしまい、そのあとはなす術もなくズブズブと……という映像を見たことがあります。またその時、関連して湿原のヤチマナコのこと思いだしたというか。。。
ヤチマナコというのは<湿原の落とし穴>と呼ばれるもので、場合によっては鹿一頭を飲みこんでしまうくらい深いものもある、と言われるものです。そして、実際にそうした不運な鹿さんもいらっしゃるということで、その時もまた「あ~、なんという物言わぬ自然の恐ろしさよ」と思ったものでした。
そして、この時に感じるブルルっと来るような気持ちと悲しみというのは、相手の動物さんに自己投影しているからてあり、実際に本物の底なし沼に落ちるといったことでなくても、そうした自分では這い上がれない精神的な場所や、蟻地獄のような場所に人が置かれるというのは実際にあることなわけで。。。
蟻地獄で思いだしましたが、わたし、これもまたテレビの映像で、どっか砂漠のようなところで蟻が蟻地獄に嵌まってしまうところを見たことがあります。んで、一匹目の蟻さんはどんなに一生懸命もがいても、結局は蟻地獄のえじきとなってしまい――二匹目の蟻さんは人が指で「よいしょ☆」と持ち上げたことによって救われる……といった映像でした。
いえ、本当に「この<差>は一体どういうことなのでしょう、主よ」と思いますよね(^^;)
クリスチャン・ノンクリスチャンの別なく、ある人はイエスさまのことを受け容れた方であったとしても、こうした地獄の底へ落ちていく……といった人生経験をすることがあり、どうして自分は他の光り輝いているように見えるクリスチャンのようになれないのだろうと思うことが、時としてあるかもしれません。
でも、「試練のあとに輝く虹は大きい」というのも本当のことですよねNo Rain,No Rainbowというのは、そういうことなんだろうなとも思ったり(^^;)
そして、とにかく忘れてならないのは、イエスさまがいつでもわたしたちの傍らにいてわたしたちを守ってくださるのですから、その手を離してはならないということです。
人生上の苦難、あるいはいじめのことなどをよく蟻地獄と言ったりしますが、今いじめかそれに近い立場に置かれている方は、どうか次の御言葉に目を留めてみてください。
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。
たじろぐな。わたしがあなたの神だから。
わたしはあなたを強め、あなたを助け、
わたしの義の右の手で、あなたを守る。
見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな、
恥を見、はずかしめを受け、
あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる。
あなたと言い争いをする者を捜しても、
あなたは見つけることはできず、
あなたと戦う者たちは、全くなくなってしまう。
あなたの神、主であるわたしが、
あなたの右の手を堅く握り、
「恐れるな。わたしがあなたを助ける」
と言っているのだから。
(イザヤ書、第41章10~13節)
今日明日、相手のほうが蟻地獄へ落ちて死ぬといったことはないかもしれませんが、むしろあなたがそんな後味の悪い思いをしなくてもいい方法によって……イエスさまはきっと助けてくださいます。
いじめでなくても、他に人生上の苦難やつらさ、悩みを経験されている方も、どうかイエスさまのことを信じてみてください。イエスさまは必ず、草の上で腐りかかっているような生き方のわたしたちを救い、また、どろ沼に沈みかかっているわたしたちのことを、その泥が口許までやって来ていたにせよ、必ずそこから助けるということが可能な方です。
底なし沼に口許まで埋まった人間を助けるのは、他の人がまわりに十人いて、それなりの道具類や機械等があっても難しいことでしょう。けれども、イエスさまにはそれがお出来になるのです。
詩篇の第69篇にはこうあります。
神よ。私を救ってください。
水が、私ののどにまで、はいって来ましたから。
私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。
私は大水の底に陥り
奔流が私を押し流しています。
私は呼ばわって疲れ果て、のどが渇き、
私の目は、わが神を待ちわびて、衰え果てました。
ゆえなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く、
私を滅ぼそうとする者、
偽り者の私の敵は強いのです。
それで、私は盗まなかった物をも
返さなければならないのですか。
しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。
神よ。みこころの時に。
あなたの豊かな恵みにより、
御救いのまことをもって、私に答えてください。
私を泥沼から救い出し、
私が沈まないようにしてください。
私を憎む者ども、また大水の底から、
私が救い出されるようにしてください。
大水の流れが私を押し流さず、
深い淵は私をのみこまず、
穴がその口を
私の上で閉じないようにしてください。
主よ、私に答えてください。
あなたの恵みはまことに深いのです。
あなたの豊かなあわれみにしたがって
私に御顔を向けてください。
あなたのしもべに御顔を隠さないでください。
私は苦しんでいます。早く私に答えてください。
どうか、私のたましいに近づき、贖ってください。
私の敵のゆえに、私を贖ってください。
あなたは私へのそしりと、
私の恥と私への侮辱とをご存知じです。
私に敵対する者はみな、あなたの御前にいます。
そしりが私の心を打ち砕き、
私は、ひどく病んでいます。
私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。
慰める者を待ち望みましたが、
見つけることはできませんでした。
彼らは私の食物の代わりに、苦味を与え、
私が渇いたときには酢を飲ませました。
(詩篇、第69編1~4、13~21節)
また、この苦しみはイエスさまがわたしたち人間のために味わってくださった十字架の苦しみの極みでもあり、それゆえにこそ、神さまにはわたしたちの惨めさが理解でき、優しく同情して助けてくださる方でもあるのです。
どうか、この方に栄光が、世々に至るまで限りなく満ちておりますように。栄光在主
それではまた~!!
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