神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

悪霊の入口。

2019年06月29日 | キリスト教
【地獄】(一部)ドメニコ・ベッカフーミ


 穴を掘る者は、その中に落ち込み、石垣を破る者は、蛇が彼をかむ。

(伝道者の書、第10章8節)


 >>通常、クリスチャンは、悪霊が入り込めないように石垣で囲まれています。未信者については、主は彼らの自由意志を悪霊には侵させないという意味で、守られています。このように、クリスチャンの場合も未信者の場合も、悪霊が入り込んで実際に彼らのからだの中に住みつくためには、この防御の石垣が崩されなければなりません。それこそ、伝道者の書10章8節にある『石垣を破る』ことの意味であると私は信じています。

 聖書全体を通じて、悪霊はへびやさそりにたとえられています。イエス様ご自身が次のように言われました。


「見よ、私はあなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のすべての力の上にある権威をあなたがたに与えています。そして何一つ決してあなたがたに害を加えることはありません」

(ルカの福音書、第10章19節)


 罪がこの防御の石垣に穴を開け、その罪を犯している人の中に悪霊が実際に入るのを許してしまうことが多くあります。私はこのような穴を、入口と呼んでいます。

 みことばは非常にはっきりと言っています。サタンと少しでも関わりを持つなら、サタン的力が入って来て悪霊に汚染される入口を開けてしまうのです。神はイスラエルの民にこう言われました。


「あなたがたは霊媒や口寄せに向かって、彼らに汚されてはならない。私はヤーウェ、あなたの神である」

(レビ記、第19章31節)


 人はだれでも自分の生活の中で入口となり得るものに注意している必要があります。けれども同時に重要なことは、これらの入口について理解するなら、イエス・キリストの福音を効果的に語れるようになるということです。多くの人々がキリストを受け入れることができない理由は、彼らの意志と知性が暗闇の力によって束縛されているからであり、それは、現在あるいは過去に彼らの生活に入口を開けてしまったからです。


「もし私たちの福音が覆われているなら、それは、滅びる人々の間で覆われています。彼らの間で、この世の神が不忠実な人々の思いを盲目にしたのです。それは、神の姿であるキリストの栄光の福音の光が彼らに輝かないようにするためです」

(コリント人への手紙第二、第4章3~4節)


 このことは、私たちが父なる神のわざを進めていく上でも、またイエス・キリストの福音を人々に伝える上でも、理解しておくべき非常に重要な原則です。内面的であれ外部からであれ、実際に悪霊に束縛されていて、自分の意志が自由になっていない人々は大ぜいいます。彼らはイエス様を自分の救い主として受け入れることができず、同様に、知性も束縛されていて福音のメッセージが理解できません。ここに挙げたみことばが言っているように、「この世の神が不忠実な人々の思いを盲目にし」ているのです。

(『サタンのわな』レベッカ・ブラウンさん著/エターナル・ライフ・ミニストリーズ刊より)


 クリスチャンもノンクリスチャンの方も、悪魔(サタン)・悪霊といった存在からは、通常であれば「ある程度守られている」のが普通だと思います。

 けれども、何かちょっとしたことをきっかけに、悪魔(サタン)・悪霊からの侵入を許してしまう、ということがあると思うんですよね。それは自分が自ら誘惑に負けて犯した罪のゆえであったり、あるいはそのような存在が住む家にたまたま引っ越してしまい、そこから悪い霊的影響を受けるということもありえます。

 レベッカ・ブラウンさんは、家屋からそうした悪霊の存在を感じた場合、油を塗り、主の聖なる御名によって聖別することに効果があると書かれています。このことについてはレベッカ・ブラウンさんの本のほうを読んでいただくとして……今回はちょっと「瞑想の危険性」ということについて書いてみたいと思いましたm(_ _)m

 わたし、マインドフルネスについて書かれた本が結構好きで、ヨガに加えてこのマインドフルネスということを取り入れている方はとても多いのではないでしょうか(ちなみに、仏教の本を読む時と同じく、単に思想として読むだけであって、具体的にそこに書かれていることを実践するといったことではありません。念のため^^;)。

 その、わたしこの「瞑想」ということについて詳しいわけでもなんでもないのですが……ようするに自分の精神を<無>にすると言いますか、あるいは自分の内なる宇宙(ミクロコスモス)と外の宇宙(マクロコスモス)とが阿吽の呼吸によって繋がっている――といった感覚のことについては、正直、個人的にあまり興味がありません。

 いえ、わたし、自分がクリスチャンになる前、こうした瞑想の真似事というのをしたことがあるのですが、仮にわたしが自分の精神を<無>にしたところで、人間関係のしがらみ等から解放されるわけではありませんし、そうした問題を「あるがまま」受けとめるといったことは大切でしょうけれども、イエスさまのことを知って「本当に祈る」ということを知った時のほうが……それよりも上の精神状態に到達できたように感じました(自分の悩み・苦しみについてはそのままに、他の方の苦しみ・悩みが解放されるよう祈ることのほうがより価値があり、また、自分の肉体的努力によってそのように頑張って努める……というのではなく、イエスさまからの霊、聖霊さまに触れると、そのような祈りがあまりに自然なことになると言っていいと思います)。

 そして、確かに「本当に祈る」といった精神状態にある時、色々な自分の中にある煩悩を退けて、イエスさまに祈りを捧げていく……といった過程の一部において、確かに自分を<無>にして祈るという部分があるのは間違いないと思うんですよね。

 でも、それがなくてただ自分を<無>にし、「煩悩を退けた」だの言っても、わたしがもし男性であったとすれば、その三日後にはちょっとえっちな本を読んでるだの、何かそんな程度の効果しかないような気がします(^^;)

 そして、わたしたちは通常であれば、悪魔(サタン)・悪霊といった存在からは石垣によって守られていたにしても――向こうに石垣の弱いところを見つけられたら、そこから崩されていって悪魔・悪霊といった存在の侵入を許すといったことはよくあることだと思います。

 また、間違った教えの宗教などを通して「精神を<無>にして自己統一……」なんていうことをしていると、案外、その空(から)になった部分に悪魔(サタン)・悪霊が住みつくということもあるようです。

 クリスチャンの場合は、自分を<無>にするか、それに近い精神状態にある時、その部分を聖霊さまが満たしてあらゆる悪いものから守ってくださるわけですが、これはキリスト教と他の宗教の教えとの、大きな違いではないかと個人的には思っています。


 >>あなたはこの破れ口に、自分で自分を置くことはできません。ただ主だけがそれをすることができます。なぜなら、主だけがあなたの霊のからだをコントロールしておられるからです。あなたがしなければならないことは、もしそれが神のみこころなら、自分をそこに置いてください、と御父に願い求めることです。あなたは、誰か他の人の益のために御父の望んでおられる方法で自分を用いてください、と御父に求めなければなりません。あなたがどのように用いられるのかは、あなたが自分で決めることはできません。

 この破れ口は霊の世界の中にあり、私たちの闘いは『肉と血に対するもの』ではなく悪霊に対するものであるゆえ、私たちの霊が闘うことになります。肉と血は、霊の戦場では闘うことができません。

 あなたはかつて、深いとりなしの祈りをした後、完全に疲れ切ってしまった経験はないでしょうか?

 それは、あなたが自分の肉体と知性で祈っている間、神があなたの霊のからだを取り上げ、あなたが悪霊の軍勢と闘って祈っているその闘いの中に、それを置かれたからです。その闘いは、霊の世界の戦場で起こったのです。あなたが感じた疲労は、二つのことの結果です。第一に、それはあなたの霊がその闘いで経験した緊張感の反映であり、第二に、それは自然な『枯渇』であって、その間、あなたの霊が肉体にいなかったことによって生じたものです。

 ですから、私たちは必ず毎日神に求めて、エペソ書第六章にあるように神のすべての武具を着せていただかなければなりません。この武具は単なるシンボル以上のものです。それは文字通りの、現実の武具であり、私たちの霊のからだをこの闘いの中で守ってくれるものなのです。

 一つのポイントを明らかにしておきましょう。あなたは、自分がこの『破れ口』にいる、と意識して知ることは、めったにないでしょう。それは、主が私たちの霊のからだを完全にコントロールしておられるからです。私たちは物質世界を見るように、いつでも霊の世界を『見る』わけではありません。特別な場合だけ、主は人々に霊の世界を見させますが、たいていは、ほんの少しかいま見るだけが、短い時間だけです。あなたが自分は破れ口に今いる、あるいは、今までいた、とわかるのは、主があなたにそのことを啓示してくださる時か、あるいは、あなたの肉体のさまざまな症状によってです。この肉体の症状は、破れ口においてあなたの霊のからだに起こったものであり、それは主からあなたへの確認ともなります。覚えておいてください、これは現実の戦争なのです。悪霊は『空(くう)を撃つ』ようなことはしません。あなたの霊のからだが受けた傷が、あなたの肉体上のさまざまな症状として現れることも、よくあります。

(『サタンのわな』レベッカ・ブラウンさん著/エターナル・ライフ・ミニストリーズ刊より)


 聖なる思いを持ってこうした<破れ口>に立ち、わたしたちが祈る時……ほんの十五分とかの短い間でも、肉体に強い疲労を覚えるということがあると思います。

 けれども、レベッカ・ブラウンさんが書かれているように、こうした時わたしたちは「霊の世界で<破れ口>に立っている」といったようには自覚していない場合がほとんどだと思うんですよね。でも、このように解き明かされてみると、過去に祈っていて「ほんの短い間祈っただけなのに、こんなに疲れ切るだなんて、自分は信仰心が足りないなあ」と思ったその時こそ、実はそれは「本当の祈り」として神さまに届いているものだった……ということに心当たりのある方は多いのではないでしょうか(聖霊を受けたクリスチャンの方で、祈ることを当たり前の日課とされている方であれば、心当たりがないということはない気がします)。

 悪魔(サタン)・悪霊の攻撃からの霊的な防御ということを考えた場合、自分を<無>にするとか<空>(から)にするというのは危険なことであり、また石垣がしっかり築かれている方の場合でも、それは自己満足以上の何かをもたらすものでしょうか(とりあえずわたしは、瞑想の先にイエスさまに対する祈りがないなら、瞑想というのはただの自己満足でしかないといった結論しか得られませんでした^^;)。

 また、自分の霊の欠けたところを補おうとしたり、霊的石垣の崩れかかっているところや、実際に崩れて敵の攻撃を許してしまったところを築き直そうとする時には、その方自身の個人的な祈りも効果はあると思うのですが、やはり教会において多人数の方に祈っていただいたほうが――石垣の破れが素早く修復され、また、悪魔・悪霊のほうでも、再び攻撃してもまたすぐに直されるとわかり、「チッ☆」とばかり、暫くの間はそこから逃げ去ることでしょう。

 以前にも書きましたとおり、霊の世界のことについてはわたしたちにはわかりませんし、その全景を理解するということも、血肉にある以上、すべてわかるということはありえません(つまり、このことを「自分はわかっている」、「理解している」と主張される方には注意が必要だということです^^;)。

 また、この人間には一部しか知覚できない霊の世界のことを、「~~からわたしは示しを受けた」といった形で系統立てて説明しようとする宗教のことは、特に注意する必要があると思います(キリスト教を名乗っている宗教がすべて本当のキリスト教ではありませんので、このあたりは本当に見分けが必要です)。


 >>テモテよ。ゆだねられたものを守りなさい。そして、俗悪なむだ話、また、まちがって「霊知」と呼ばれる反対論を避けなさい。

 これを公然と主張したある人たちは、信仰からはずれてしまいました。

 恵みが、あなたがたとともにありますように。

(テモテへの手紙第一、第6章20~21節)


 >>主よ。私の心は誇らず、
 私の目は高ぶりません。
 及びもつかない大きなことや、奇しいことに、
 私は深入りしません。

 まことに私は、
 自分のたましいを和らげ、静めました。
 乳離れした子が母親の前にいるように、
 私のたましいは乳離れした子のように
 御前におります。

 イスラエルよ。今よりとこしえまで主を待て。

(詩篇、第131編)


 もちろん、神の示しによる場合でも、肉にある人間には一部しか知ることの出来ない霊的な世界のことを何故信じることが出来るかといえば、多くのクリスチャンは祈りや賛美を通し、あるいは教会へ通うことなどを通して――必ずなんらかの聖霊による満たしを受けたり、イエスさまの治めておられる天国と繋がっているような感覚を覚えたりするのが普通だからだと思うんですよね。


 >>無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。

 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じてす。――

 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。

(コリント人への手紙第二、第12章1~6節)


 少し前に、オラクルカードで有名なドリーン・バーチューさんが霊的に解放されてキリスト教徒になったという話を聞き、主を褒め称えました

 わたしも以前、某本屋さんにて、このオラクルカードが並んでいるのを見た時……とても綺麗な天使がカードに印刷されているのを見て、「わたしも自分がキリスト教徒になる前はこういうものが本当に大好きだったなあ」と思ったりしていました。

 また、日本の場合特に、こうしたものに騙される方が多いとも思いますから、その部分でどうなんだろうなという危惧の気持ちも持っていたのですが、ドリーンさん、キリスト教徒になってそれまで自分が教えてきたことのすべてを偽りだったとして、全否定したそうです(^^;)

 わたしがこのことを知ったのは、某ラジオ局にて「今まで信じてきた人は一体どうすればいいんだよォ、ドリィィーンッ!!」みたいなDJさんの叫びによってだったんですけど(いえ、このラジオDJさんはべつに、オラクルカードを本当に信じてるわけでもなんでもないのですが・笑)、こうした形で人が霊的に解放され、イエスさまの正しい教えのほうに霊を向ける……というのは、なかなか難しいことだと思いますので、本当に神さまのことを心から褒め称えました

 その、ドリーンさんの語っていた天使のメッセージって、マインドフルネスもちょうどそうであるように、ポジティヴで良いメッセージがとても多く、ドリーンさんの言葉や著作などによって心が救われた方もとても多いのではないかと思うのです。

 けれども、イエス・キリストの霊に触れ、聖霊のバプテスマを受けると、キリストの霊に属さないものすべてが偽りであるということがわかるようになり、それらの教えをすべて「幼稚なもの」であるとして、はっきり否定できるようになります。


 >>あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。

 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

(コロサイ人への手紙、第2章8~9節)


 >>愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

 人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。

 イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。

 子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。

 彼らはこの世のものです。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。

 私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。

(ヨハネの手紙第一、第4章1~6節)


 わたしたちの悪魔・悪霊からの攻撃による霊的石垣の崩れは、修復が可能です。また、仮に悪魔・悪霊からの偽りの教えによってそこを占拠されていたにしても、キリストの霊による解放を受けることさえ出来れば、聖霊さまによって何が神(キリスト)に属するもので、何がこの世的・人間的なものであるのか、あるいは悪魔・悪霊に属するものであるのかの見分けがつくようになってきます。

 ただ、この<見分けの賜物>を持っている方もおられるかもしれませんが、この領域については教会における訓練が必要でもあり、基本的にクリスチャンは自身の生活の中で、「白(神からのもの)でも黒(サタンからのもの)でもない、どちらに属しているかわからないグレーゾーンに属するもの」については、とりあえず関わりを持たないようにしようと判断すると思います。

 レベッカ・ブラウンさんはその著書の中で、「ヨガはヒンズー教と繋がりがあるので、クリスチャンはすべきでない」とはっきり書かれておられますが、ヨガが体にいいというのは、個人的に本当のことだと思っています(笑)また、体にいいだけでなく、頭のほうもスッキリすると感じる方も多いのではないでしょうか。

 でも、個人的にヨガというのは、わたしの中ではグレーゾーンに属するものであり、クリスチャンとして保守的に避けたほうが無難だろう……というのが、わたし個人が吟味して見分けた結果ということなんですよね(^^;)

 他にレベッカ・ブラウンさんは、オカルトの働きからの解放ということに長く携わってきて、そうした体験から学んだことを本の中に書いておられるのですが、こうした敵の領域のことについては確かに知識的な学びや体験的な学びが必要になってくると思います。

 わたしもこの、レベッカ・ブラウンさんの本を古本屋さんで見つけた時には(しかも50円・笑)、アメリカのニューエイジの働きのことについて書かれた本かもしれないと思い、そのあたりのことを学びたいと思って購入したのです(^^;)

 けれども、一読して思ったのは、アメリカにおける霊の戦いというのは日本におけるものとは別の激しさがあり(日本でもいずれ同じ戦いがさらに激しくなってくるでしょうけれども)、一度オカルトの働きに携わっていて、イエスさまを信じて解放された方の場合――その解放された方が、これからはイエスさまおひとりだけを信じ、真摯な信仰生活を送ろうとされ、実際そのように実践されていても、こうした霊というのは「戻ってくる」場合が多いそうです。


 >>本当のことを言わなければなりませんが、残念なことに、オカルトとの関わりから抜け出て来た人はみな、さまざまな時期に悪霊による苦痛を経験しているのです。イエス様は、このことをご自身のたとえで見事に説明されました。

「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。

 そこで、『出て来た自分の家に帰ろう』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。

 そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです」


(マタイの福音書、第12章43~45節)


 ここで明らかなように、悪霊は人から出て行くと、ふたたび戻ってその人の中に入ろうとし、それがうまく行かなければ、行って自分より悪い七つの悪霊を連れて来て、中に入ろうとするのです。

 不幸なことに、ほとんどのクリスチャンは、いったん自分の生活から悪霊が全部取り除かれたら、闘いはもう終わったのだと信じているのです。それは始まりに過ぎません!悪霊を寄せ付けないでおくための闘いは、最初に悪霊を追い出す時の闘いの七倍もむずかしいのです。悪霊を追い出すことによって勝ち取った土台にしっかり立っているための闘いは、容易なことではありません。

(『サタンのわな』レベッカ・ブラウンさん著/エターナル・ライフ・ミニストリーズ刊より)


 個人的に、これは本当にそのとおりだなと思っています(^^;)

 わたしは、一般にいうオカルトとは関わったことがありませんが(ただし、以前も書きましたとおり、小学生の時にこっくりさんを何度かやったことがありました)、それでもクリスチャンになる前はタロットカード占いや星座占い、六星占術、風水など、占い系のものやスピリチュアル系のものが大好きでしたし、確かに悪魔・悪霊に目をつけられたとすれば、なんらかの新興宗教に導かれていた可能性もあったかもしれません。

 悪魔・悪霊の攻撃を一切許さないためには、こうしたすべてから離れてイエスさまのことだけを信じることが必要になってきますし、わたしが黒の領域のものだけでなく、グレーゾーンのものも避けるのは(健全なクリスチャンの方なら当然のことではあるにしても)、自分ではよくわからないこうした領域に触れたことが知らない間に石垣に小さな穴を開けることがあると知っているからです。

 そして、あいつら(悪魔・悪霊)というのはしつこいんですよね~(笑)。一度「これがこいつの弱みだ」となると、徹底的にそこを突いてきて、最初は小さな穴にしか過ぎなかったようなものを、少しずつ大きく広げようとし、最後にはそこから亀裂が入るまでに至った……といったことに心当たりのあるクリスチャンの方も多いのではないでしょうか。

 けれども、何度かこうしたことを経験すると、もう自分の霊的領域を何者にも攻撃されたくないし、そのために自身を聖霊さまによって清く保つにはどうしたらいいのか……ただその一点だけに目が向くようになっていくと思うのです。

 この記事は、三つ下の、「主にあって<破れ口>に立つ信仰」の続きだったのですが、書いた記事としてはこちらが先でも、間に別の記事をふたつ挟んでしまったので、若干わかりにくくなってしまって申し訳なく思います(汗)。テレーズの本を再読していたら、別記事のほうが先に書き終わってしまったもので(^^;)

 では、次回はこうしたことに関連した記事を、再び書いてみようかと思っています。いえ、悪魔・悪霊関係のことばっかり書いてると、「こいつ、もしかして異端なんじゃね?」という疑いを持たれる方もおられると思いますので……そのあとくらいから切り換えたいと思っています(もちろん、悪魔・悪霊追いだし関連のことについては、いずれまた記事にする機会があると思うのですが)。

 それではまた~!!

 



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