神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

鷲の翼に乗って。

2019年06月25日 | キリスト教


 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 私のうちにあるすべてのものよ。
 聖なる御名をほめたたえよ。

 わがたましいよ。主をほめたたえよ。
 主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

 主は、あなたのすべての咎を赦し、
 あなたのすべての病いをいやし、
 あなたのいのちを穴から贖い、
 あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
 あなたの一生を良いもので満たされる。
 あなたの若さは、わしのように、新しくなる。


(詩篇、第103編1~5節)


 >><うぶ毛のテレーズが「弱いままに留まる」というのは、何もしないということではない。弱い小鳥なりに羽ばたこうとする。どうせ飛べないからとうぶ毛の羽の中に顔を隠してしまうのではない。結果的に飛び立つことが出来なくても、くじけることなく、弱い小鳥は今日も、また羽ばたき、新たな努力を続ける。でも、具体的にはどのように努力したらよいのか。すべてが自分の努力にかかっているかのように、しかし同時に神の助けなしに何もできないという神の恵みへの絶対的な信頼のうちに……「自分の功徳はまったくなしに、すべてを神様から無償でいただくのを待ちながら」、「わたしは何も持たないので、神様からすべてを受けるでしょう」と。>

(『弱さと神の慈しみ~テレーズとともに生きる~』伊従信子さん訳・編/サンパウロ刊より)


 リジューのテレーズは、自分に持てるものが何もない時、ただその何もないということ、<無>をお捧げすればよい……と言っています。

 また、そのようなうぶ毛の小鳥自身になんの徳もなかったとしても、むしろその小ささ、弱さゆえに、鷲であるイエスさまがその背に小さな小鳥を乗せてくださり、遂には天の御国へと、空高くどこまでも上っていくことが出来る――という、そのような究極とも言える信仰表明をテレーズはしています。

 そして、こうしたテレーズの信仰の在り方と関連して、自分的に少し思ったことがありまして(^^;)今回はそのたとえ話を書いてみたいと思いますm(_ _)m


 >>小鳥は毎日目が覚めると、ピィピィ鳴きながら、自分の巣から飛び立って、まずはエサを探しにゆきます。そして、運よく丸々太った毛虫や蜘蛛などの昆虫と巡り会えた時には、「ああ、神さま。どうもありがとう!今日もエサに巡り会えてほんとに良かった!!」そう賛美しながら草の中で地面を這う虫たちを嘴で捕えます。

 それから、森の中で他の小鳥たちと一緒に、梢の上で神さまを賛美する歌を歌います。けれども、「みんなと同じ歌を歌っていない!」ということで、鳥たちの群れからは追い出されていましたので、いつもみんなから少し離れたところで、小さな声で神さまを賛美する歌を歌うのです。近頃は鳥たちの間でも、リズム&ブルースやラップ調の曲などが大流行りでしたので、小鳥の歌うような神さまを讃える賛美歌というのは時代遅れだと見なされていました。

 こうしたわけで、小鳥は他の鳥の群れからは仲間外れにされておりましたので、同じ種族の鳥の中には誰ひとりとして友だちがありませんでした。そこで、他のリスやうさぎやキツネなどの動物と友だちになろうとしましたが、リスには「君なんかと友だちになってもなんのメリットもないね」と言われ、うさぎには「鳥の群れで相手にされないような奴と友だちになんかなりたくもないよ」と断られ――キツネに至っては、「同じ嫌われ者でも、オレとおまえじゃ格が違う。とっととあっちへ行かないと、取って食っちまうぞ!」と脅されるという始末でした。

 けれども小鳥は少しも落ち込みません。何故といって小鳥には鷲の友だちのイエスさまがいますから!でも、小鳥がいくら声を張り上げて、自分にはそんな素晴らしい友だちがいるのだと話しても、みんな信じてくれません。「嘘つけ!鷲たちに聞いてみたが、鷲の中にはイエスなんていう名前の奴は一羽もいないと言ってたぞ!」と、最後には嘘つき呼ばわりされて終わりでした。

 小鳥は毎日、この鷲の友だちのイエスさまと一緒でした。森の奥深くの開けた場所にある木の上で、いつも待ち合わせをしています。そしてそこで小鳥は、この友だちを相手に悩みごとや困ったことの相談に乗ってもらったり、あるいは鷲のイエスさまの背に乗せてもらって、大空をどこまでも高く滑空することもありました。そのことは、小鳥にとって現世の悩みや苦しみ、困難を忘れさせる一番の気晴らしとなることでした。

 けれどもある時、小鳥は小さな針が体に刺さって怪我をしてしまい、なかなか鷲のイエスさまに会いにいくことが出来ませんでした。しかもその針は、いつまで経っても抜けていかず、小鳥の翼を深く貫き通したまま、絶えず小鳥に苦痛を与え続けました。

 それでも小鳥は、森の奥深くのいつもの待ち合わせ場所まで、どうにかして行こうとしました。けれどもその道半ばで力尽き、小鳥はどこともわからぬ草原の端で倒れたままになりました。もはや歩く気力も、立ち上がる力もまるで湧いてきません。

 イエスさまのほうでもきっと自分を探しているに違いないとの確信が小鳥にはありましたが、「助けて!ぼくはここにいるよ。イエスさま、どうか今すぐぼくのことを見つけてください!」と、血を流しながら鳴き叫び続けたにも関わらず、一向誰がやって来る気配すらありませんでした。

(今こそ、ぼくには友だちのきみの力が必要なのに……こんな一番大切な時にイエスさまはぼくを見捨ててどこへ行ってしまったのだろう?)

 その日以来、小鳥は病いの床に着きました。友だちが誰もいないため、森の中を捜しに来てくれる者もなければ、何かのエサを運んでくれる通りすがりの鳥一羽いるでもありません。そして何日も日が経ち、小鳥がだんだん目も見えなくなって来た頃……小鳥の倒れているそばをキツネが通りかかりました。

「おい、小鳥。随分ないいザマだな。おまえ、死にかかってるじゃねえか」

 キツネは小鳥を食べてしまおうかとも思いましたが、何分羽毛も抜けて小汚く、ちっとも美味しそうに見えません。そこで、小鳥が食べそうなものを持ってくると、小鳥のそばに置いてあげることにしました。

「小鳥よ。この貸しは高くつくぞ」

 そう言ってキツネは小鳥を口にくわえると、彼の巣のある場所まで運んであげることにしました。そして、(あの小鳥には看病してやる奴が必要だ)と思い、うさぎやリスに森の道で会うとそのことを話しておきました。

「あいつを看病しないと、おまえらをひどい目にあわせるぞ!!」

 キツネに牙を剥かれてそう言われたリスやうさぎは、震え上がって言うとおりにすると誓いました。けれども、小鳥の体から針を抜いてやり、薬を塗って包帯を巻き終えると……「こんなことはオレたちじゃなく、同じ仲間の鳥どもにしてもらったほうが小鳥も喜ぶだろう」と思い、緑の木々の梢にとまる鳥たちにこのことを話すことにしました。

「あいつには、鷲の友だちだとかいうイエスがいるさ」

 鳥の一羽にそう言われると、リスもうさぎたちも戸惑いました。というのも、あんな姿になってさえ、小鳥はよくうわ言で「イエスさまはどこ……?」、「ぼくの友だちイエスさま!」といったことを呟いていましたので、彼らも小鳥があんまり哀れで、「彼はきっと何か用事があって出かけてるんだろうよ」とか「きみがこんな哀れな様子をしているのを彼はまだ知らないんだ」と話を合わせておいてあげたのです。

「なんにしても」と、うさぎの中でも特に心の優しい一羽が言いました。「きみたちには同じ種族として、あの小鳥に責任があると思うな。峠のほうは越したけど、まだ自分ではエサを取りにいったり出来ないし、とにかくあの小鳥がすっかりよくなるまで面倒を見るのはきみたちの義務だよ。リスたちもぼくたちも、小鳥にはもう十分よくしてやったつもりだからね」

 鳥たちは暫くの間、ブツブツつぶいていましたが、それでも仲間のうちの何羽かが小鳥の元までお見舞いに行くということにしました。小鳥は羽毛がまだ生えそろっておらず、目のまわりも黒々として、いかにも病みあがりといった様子をしてはいましたが、リスやうさぎたちが言っていたとおり、怪我自体のほうは快方へ向かっているようです。

「みんな、ありがとう……来てくれて、本当にうれしいよ!」

 見舞いに来た鳥たちは、小鳥がまさかこんなに悪いとは思ってもみませんでしたので、みな心を痛めつつ、最近の様子について聞いたり、もっと早く来なかったことを詫びたりしました。

「いいんだよ。だって、きみたちはぼくが病気であることも何も、知らなかったんだろうからね。それより、鷲の友だちのイエスさまがいないんだ。きみたち、知らないかい?」

「…………………」

 見舞いに来た三羽の鳥たちは黙りこみました。小鳥がずっと自分の友だちだと主張している鷲のことを、誰も見たことがありませんでしたし――かといって、こんな姿になってまで、小鳥が嘘をついているとも思えなかったからです。

「た、たぶん、その鷲のイエスとやらは、どこか遠くへ旅へでたんじゃないかね」

「そうだよ!きっとそのうち戻ってくるさ」

「それより、今はたくさん食べてたくさん眠って、病気を治すことを第一に考えなきゃ……」

 鳥たちは、小鳥の様子があんまり哀れであることに驚き、すぐにこのことを他の仲間たちにも知らせて、小鳥を見舞うようにと勧めました。けれどもこう言われても、見舞いにこない鳥たちというのも数多かったわけですが――それ以外の鳥たちは毎日それぞれ時間を決めて小鳥に会いにいき、まるまる太った毛虫などを嘴にくわえ、見舞いの品として持っていってあげたのでした。

「他に何かしてほしいことはないかい?」と聞くと、小鳥は「じゃあ、歌を歌って欲しいな。神さまのことを讃える賛美歌がいい」と答えましたので、その日以来、鳥たちの間で歌われる歌は、そのほとんどが賛美歌ということになりました。小鳥もこのことを大変喜びました。そして、(イエスさまにもこの歌を聞かせたいな。本当に彼は一体どこへ行ってしまったんだろう?)と不思議に思っていたのです。

 小鳥の胸には(自分がこんなに大変なときに、イエスのやつは一体どこへ行ったのだろう?)などという、不平不満は一切ありませんでした。ただ、彼がいずれいつか戻って来てくれるに違いないということだけが、小鳥の大きな心の支えであり、最後、もう死にかかりつつあったとき……(もう一度だけ彼に会いたい)と思っていると、そこに鷲ではなく、あのキツネがやって来たというわけだったのです。

 こうして、小鳥は日に日によくなってゆきました。かつてはリズム&ブルースやラップばかり歌っていた鳥たちも、小鳥に合わせて賛美歌も歌ってくれるようになりましたし、病み上がりの小鳥のことを、今ではみなよく気遣ってくれるようになっていました。

 けれども、こうなると以前から小鳥に冷淡だった鳥の中には、小鳥が元気になるにつれ、以前と同じように意地悪しようという者が現れてきました。何より、彼らは小鳥にイエスなどという鷲の友だちがいるとは今も信じておりませんでしたので、よくそのことを口にしては攻撃してきたのです。

 今では、ほとんどの鳥たちにとって鷲のイエスは実在するのかしないのか……ということはどうでもいいことでしたが(中には小鳥があんまり哀れで、鷲のイエスはいるのだと主張しはじめる鳥もいたくらいでした)、小鳥がすっかり元気になると、そのことを執拗に追求しようとする鳥の一派が現れたのです。

「そんなこと、もういいじゃないか。小鳥くんは嘘なんかついてないよ」

「そうだ、そうだ!きみたちは賛美歌を歌いたくないから、そんなふうに今もしつこく小鳥のことをいじめようとするんだ」

「いいや、オレたちゃその点をはっきりさせるまでは、あの小鳥となんか口なんざ絶対聞いてやるもんか」

「そうだ。オレたちはその鷲のイエスの姿をこの目で見るまでは、絶対にあの小鳥を仲間とは認めねえ!!」

 ――こういったわけで、鳥の群れたちの間で分裂が起きると、小鳥はこのことでとても胸を痛めました。時には、(自分はあのまま死んだほうがよかったのかもしれない……)とすら思うこともありましたが、今では賛美隊の鳥たちが小鳥の仲よしになってくれていましたから、彼らが何かと慰めてくれることで、小鳥はその胸の心痛を神さまに捧げることが出来たのでした。

『ああ、神さま。病気や怪我がすっかり良くなかったのはよかったのですが、鳥の仲間たちは鷲のイエスがいるのかいないのかということで、毎日もめています。どうか今、鷲のイエスさまが再びぼくの元まで来てくださって、その背にぼくを乗せ、ぼくたちは友だちなのだということをみんなにわからしてください。よろしくお願いします』

 小鳥は毎日そのように祈るのですが、その翌日目にするのはやはり、鳥たちが喧々囂々(けんけんごうごう)言い争うという悲しい姿でした。そしてある時、(ああ、鷲のイエスさまが今ここに姿を現してくださりさえすれば、この喧嘩も丸くおさまって、みんな元のとおり仲良くできるのに……)と、何十度目になるかわからない溜息を小鳥が洩らした時のことです。

 いつもみんなが集まる森の緑の木々の上を、サッと大きな翼が横切り――太陽の光をさえぎりましたので、一瞬あたりが暗くなりました。そして、次の瞬間には、その鷲の翼の背には小鳥が乗っていたのです!!

「お、おい!あれを見ろ!!」

 ――ずっと、鷲の友だちのイエスなどいないと主張してきたノスリの一羽が空を指差してそう叫びました。けれども、彼がそう言うまでもなく、鳥たちの群れはそのすべてが、上空の青い空を滑空する大きな鷲の姿に釘づけだったのです。

「小鳥の友だち、鷲のイエスは本当にいたんだ……」

 見ると、小鳥の姿はもうどこにも見当たりませんでした。もっとも、小鳥の近くにいた今では彼の友だちの鳥たちは鷲の雄大な姿を目撃し、驚き怖れるあまり、言葉もなかったのですが……。

 鷲のイエスは言いました。

『さあ、小鳥よ。以前よくそうしていたように、わたしの背に乗るといい。それがきっと、きみとわたしが友だちだとの、一番のよい証明になることだろう』

 ――こうして小鳥は鷲のイエスの背に乗って、どこまでも高く空を飛んでゆきました。以来、小鳥の姿を森の中で見かけた者は誰もありません。小鳥は鷲の友だちイエスと、どこか遠くへ旅へ出たのだという鳥もいれば、小鳥はあのまま生きながらにして天国へ昇って行ったのだろうと言う鳥もありました。

 ただ、鳥の群れたちはこの不思議な出来事を通し、「自分たちも小鳥のようになりたいものだ」と思い、「鷲のイエスさまは天からの使者で、それで自分たちにはその御姿が見えなかったのだ」ということも、今では誰もがすっかり認めていたのです。

 そしてこの不思議な出来事があって以来、鳥だけでなく、森の動物たちもみんな……「いつか鷲のイエスが、再び我々のうちの誰かの元へやって来るに違いない」と信じるようになったのです。小鳥が鷲のイエスの背に乗って、どこへ行ったのかはわかりません。でももし、森の動物たちの噂どおり、彼が天国にいたとするなら――小鳥もきっとこのことを喜んでいたに違いありません。

 今では小鳥は天使たちの羽の中に住み、賛美歌を歌いつつ、森の仲間たちともう一度天の住まいで会える日のことを夢見ているに違いないのですから……。


<終わり>



 この物語は、リジューのテレーズの本を読んでいて思いついたものです

 テレーズは、自分をうぶ毛の小鳥になぞらえながらも――同時に自身を「鷲の目と心を持っている小鳥」とも自負していたと思います。


 >>最愛の鷲(キリスト)よ、きっといつの日か、あなたはあなたの小鳥を迎えにおいでになり、一緒に愛のかまどに連れて行ってくださることでしょう。そして小鳥がいけにえとして身を捧げた、この愛の燃えるふちに、永遠にかれを沈めてくださるでしょう。私は、そう希望しています。

(『弱さと神の慈しみ~テレーズとともに生きる~』伊従信子さん訳・編/サンパウロ刊より)


 神の御前に空(から)の手で出ていき、何も捧げるものがない時には、その何もないこと、虚無をイエスさまに捧げ……ですがイエスさまは、そのような弱く小さい者の元にこそ、必ずやって来てくださいます。

 そして、神さまの愛のかまどで自身を生贄として燃え尽くしながら、遂にはイエスさまの御胸に抱かれて天国へと上っていくことが出来る――この信仰の極意とも呼ぶべきものは、わたしたちをこの聖人に惹きつけてやまない理由のひとつではないでしょうか。

 それではまた~!!





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