【夢遊病のマクベス夫人】ヨハン・ハインリヒ・フュースリ
さて、今回はマクベス夫人について書いてみたいと思います♪
【1】のところでわたし、マクベスもマクベス夫人のことも、どこにでもいるフツーの人……と書いたのですけれども、おそらくこのことに反発を覚える方は多いかもしれません(^^;)
「マクベス夫人といえば悪女の代表のひとり!第一、フツーの人は自分の夫に誰か人を殺すようそそのかしたりしないって!!」とおっしゃる方は多いに違いありません。では、わたしが何故マクベス夫人を「どこにでもいるフツーの女性」だと思うのかについて、少し書いてみたいと思います。
まず第一に、マクベスもマクベス夫人も、スコットランドの王と王妃となったことから――やっぱり読者はまずそこで少し騙されてしまうと思うんですよね。王や王妃ということは、我々パンピー(←?)とは明らかに違う特別な人だと思って物語を読み進めてしまうのではないでしょうか。
でもほんと、わたしにしてみればマクベス夫人って、ほんとどこにでもいるフツーの人だと思います(^^;)
何故そう思うのかといえば……まず、彼女が子供を亡くしてるっていうことが第一に物凄く大きいかもしれません。
第四幕第三場で、マクダフが「あの夫妻には子供がない」と言っています。けれど、マクベス夫人は「私は子供に乳を飲ませたことがある、でもその気になれば、その子の柔らかい歯ぐきから乳首を引ったくり、脳みそを抉りだしてもみせましょう」とか言ってるわけですよね。
まあ、普通に考えた場合、思いますよね。「うひゃー。マクベス夫人、こっえー」とか「こんな女とだけはオラ、結婚したくねえだ!!」みたいに。
でも、ここでよく考えてみましょう。このマクベス夫人が産んで乳まで飲ませた子というのは、結局のところ死んでいるのです。つまり、そのような悲しい経緯があってこそ、マクベス夫人はこのように言っているのであって、もし自分がお腹を痛めて産んだ我が子が今も生きていたら――彼女はこんな科白は口にしていなかったでしょう。
さらにいえば、夫にああまでしつこくダンカン王を殺害することを強要していたかどうかとも、わたし的には思うんですよね(^^;)
もちろん、この可愛い我が子にスコットランドの王位を継がせるためにもあなた、ここで力を奮い起こしてくださいな――とは言っていたかもしれませんが、わたしが思うにこの時、マクベスもマクベス夫人も、子供を亡くしてそう時が経過してなかったのではないかと思います。
つまり、マクベス夫妻の心が子供を亡くしたことで空虚になっていた時、魔女たちは怪しげな予言をしたという、そういうことだったのではないでしょうか。また、マクベス自身が夫人に対し、「男の子ばかり生むがよい!その恐れを知らぬ気性では男しか生めまい!」と言っていることから、この子が男の子であり、大事な世継ぎであったことがわかります。
『マクベス』という物語に、僅かなりとも光があるとすれば、マクベスとマクベス夫人との間に夫婦としての情愛がちゃんとあったらしいということだと思うのですが、そもそもマクベスは何故あんなにも早く、手紙に書くことまでして魔女たちの予言のことを細君に知らせたのでしょう。
わたしが思うに――やはりこの時、マクベス夫人は我が子を亡くして、そう時間が経ってなかったのだと思います。そこでマクベスは愛する自分の妻を喜ばせるために、「おまえをスコットランドの王妃にしてやることが出来るかもしれない」と思って、あのように手紙にしたためたのではないでしょうか。
また、マクベスが何故マクベス夫人の執拗ともいえるダンカン王殺害について最後には了承したかといえば……やはりこの背景は大きいと思います。のちにマクベス夫人は夢遊病になっていますが、このことから見ても彼女が精神病的気質をもともと持っていたのではないかということが窺われるわけですが、ダンカン王殺害のことについてはある種脅迫的ですらあります(強迫神経症的な迫力を感じるというか)。
おそらく、我が子を亡くした時、マクベス夫人はほとんど鬱病にも近いくらい落ち込んでいたのではないでしょうか。しかも、マクベスはそんな時、国の危機を救うために戦争へ出なければならず――このことからも、マクベスが恐ろしい底力を出して不利な状況の中、敵軍を打ち破ったのかがわかる気がするのです。マクベスはこれで自分まで死のうものなら自分の奥方がどうなるかと、とても心配だったに違いありません――そして、戦に勝利して帰るところで魔女たちに遭遇したのですね。
マクベスはきっと、この喜ばしい知らせを奥さんも喜んでくれるに違いないと思ったのではないでしょうか。
けれど、実際は愛する夫人に執拗にダンカン王殺害のことを迫られ、心中苦しかったに違いありません。また、奥方のためのみならず、彼自身にもスコットランド王になりたいという野心はかねてよりあったわけですから……こうしてふたりは引き返せない道、地獄へ通じる扉を開いてしまったのだと思います。
そして、わたしがマクベス夫人が「どこにでもいるフツーの人」だと感じる大切な箇所が他にもあります。マクベス夫人は、寝ているダンカン王が自分の父に似ていなかったら、この自分の手で殺害したのだけれど、といったように言っていますが、このことから見てもわかりますよね。彼女は実際のところ、口だけなのです。自分の子供が乳を吸っていても、我が身からもぎ離して必要とあらばその脳みそを抉りだすことも厭わない……といったように言っておきながらも、実際に自分の子が生きていたら、絶対にそんなことはしない、また、ダンカン王殺害についても同様のことが言えると思うのです。
わたし個人のマクベス夫人像というのは、まず「美人」というイメージが物凄くあるんですよね。スコットランドの女性ということで、画家のフュースリはマクベス夫人を赤毛として描いていますが、わたし自身としては黒髪かブロンドの、とても美しい女性……といったイメージです(そしてマクベスはそんな奥方にベタ惚れだったのではないかと思われます)。
ただ、幼い我が子を亡くして心が空虚になっていたところに、魔女の予言があり――これ、誰でもわかると思うのですが、こうした喪失感で心が空っぽの時って、なんでもいいからそこを埋めたいと人は思うものだと思うんですよね。そしてマクベス夫人にとってそれは、スコットランドの王妃になるということだったと思うんですよ
ところが……夫のマクベスは王位に就いた途端、人が変わったようになり、マクベス夫人の心にもまた夫同様安らぎがありません。
「何もならない、すべてがむだごと、望みは遂げても、満ちたりた安らぎが得られなければ。いっそ殺されたほうが、まだしも気楽、殺しておいて、あやふやな楽しみしか手に入らぬくらいなら」とマクベス夫人は言っていますが、まったくその通りだと思います。
そして、夫がダンカン王のみならず、バンクォー、貴族マクダフの妻子など、夫人にとっては「そこまでする必要はありますまいに」という理由によって殺していくのを見て――マクベス夫人の心は再び、我が子を亡くした時、あるいはそれ以上に深く絶望したのではないでしょうか。
また、マクベス夫人が良心の呵責から夢遊病になっていることから見ても、わたし、マクベス夫人ってほんと、どこにでもいるフツーの女性だなって思うんですよね(^^;)
それから、マクベス夫人に名前がないっていうのも、すごく頷ける気がします。普通、主人公の奥さんっていうことになると、ダイアナとかシャーロットとか、その他なんでもいいのですが、とりあえず名前くらいありそうなものですよね。でも、マクベスとマクベス夫人っていうのは、この物語の悲劇を語る上でコインの表裏をなしていることから――やっぱりマクベス夫人はマクベス夫人としてだけ語られるのが相応しいような気がします(まあ、マクベスを読んだ人の誰もが思いそうなことですが・笑)
それと、これは今回マクベスを読んでいて初めて気づいたことなのですが、物語の割と最初にほうに、次のような描写があります。
ダンカン:「よいところにあるな、この城は。吹き過ぎる風が、いかにも爽やかに甘く、ものうい官能をなぶってゆく」
バンクォー:「それ、あそこに夏の谷、寺院に住まう岩燕が、せっせと巣づくりに精をだしております、それが何よりの証拠、このあたりは格別、大気の匂いに心がうずくらしゅうございます。この鳥は、軒下、なげし下、控え壁、その他どこでも、ところ嫌わず、都合のよい隅々を見つけては、吊床を造り、雛鳥の揺籠をしつらえるとか。この連中が好んで巣をつくる場所は、かならず空気がやわらかいような気がいたします」
(『マクベス』シェイクスピア作・福田恒存さん訳/新潮文庫)
いえ、こうした描写をさらっと入れてしまえるあたり、シェイクスピアは残酷だなあ……と個人的には思ったり(^^;)
何故かというと、もしマクベスが荒野で魔女に出会っていなかったとしたら、マクベスとマクベス夫人とは、仮にスコットランドの王と王妃という権力の座に就いてなかったとしても、その後それなりに仲睦まじく暮らし、子宝にも恵まれて幸福な一生をまっとうしたのではないか――そんなふうに暗示されているように読めるからです。
なんにしても次回は、マクベスの人生観や死生観といったことについて触れてみたいと思います♪(^^)
それではまた~!!
さて、今回はマクベス夫人について書いてみたいと思います♪
【1】のところでわたし、マクベスもマクベス夫人のことも、どこにでもいるフツーの人……と書いたのですけれども、おそらくこのことに反発を覚える方は多いかもしれません(^^;)
「マクベス夫人といえば悪女の代表のひとり!第一、フツーの人は自分の夫に誰か人を殺すようそそのかしたりしないって!!」とおっしゃる方は多いに違いありません。では、わたしが何故マクベス夫人を「どこにでもいるフツーの女性」だと思うのかについて、少し書いてみたいと思います。
まず第一に、マクベスもマクベス夫人も、スコットランドの王と王妃となったことから――やっぱり読者はまずそこで少し騙されてしまうと思うんですよね。王や王妃ということは、我々パンピー(←?)とは明らかに違う特別な人だと思って物語を読み進めてしまうのではないでしょうか。
でもほんと、わたしにしてみればマクベス夫人って、ほんとどこにでもいるフツーの人だと思います(^^;)
何故そう思うのかといえば……まず、彼女が子供を亡くしてるっていうことが第一に物凄く大きいかもしれません。
第四幕第三場で、マクダフが「あの夫妻には子供がない」と言っています。けれど、マクベス夫人は「私は子供に乳を飲ませたことがある、でもその気になれば、その子の柔らかい歯ぐきから乳首を引ったくり、脳みそを抉りだしてもみせましょう」とか言ってるわけですよね。
まあ、普通に考えた場合、思いますよね。「うひゃー。マクベス夫人、こっえー」とか「こんな女とだけはオラ、結婚したくねえだ!!」みたいに。
でも、ここでよく考えてみましょう。このマクベス夫人が産んで乳まで飲ませた子というのは、結局のところ死んでいるのです。つまり、そのような悲しい経緯があってこそ、マクベス夫人はこのように言っているのであって、もし自分がお腹を痛めて産んだ我が子が今も生きていたら――彼女はこんな科白は口にしていなかったでしょう。
さらにいえば、夫にああまでしつこくダンカン王を殺害することを強要していたかどうかとも、わたし的には思うんですよね(^^;)
もちろん、この可愛い我が子にスコットランドの王位を継がせるためにもあなた、ここで力を奮い起こしてくださいな――とは言っていたかもしれませんが、わたしが思うにこの時、マクベスもマクベス夫人も、子供を亡くしてそう時が経過してなかったのではないかと思います。
つまり、マクベス夫妻の心が子供を亡くしたことで空虚になっていた時、魔女たちは怪しげな予言をしたという、そういうことだったのではないでしょうか。また、マクベス自身が夫人に対し、「男の子ばかり生むがよい!その恐れを知らぬ気性では男しか生めまい!」と言っていることから、この子が男の子であり、大事な世継ぎであったことがわかります。
『マクベス』という物語に、僅かなりとも光があるとすれば、マクベスとマクベス夫人との間に夫婦としての情愛がちゃんとあったらしいということだと思うのですが、そもそもマクベスは何故あんなにも早く、手紙に書くことまでして魔女たちの予言のことを細君に知らせたのでしょう。
わたしが思うに――やはりこの時、マクベス夫人は我が子を亡くして、そう時間が経ってなかったのだと思います。そこでマクベスは愛する自分の妻を喜ばせるために、「おまえをスコットランドの王妃にしてやることが出来るかもしれない」と思って、あのように手紙にしたためたのではないでしょうか。
また、マクベスが何故マクベス夫人の執拗ともいえるダンカン王殺害について最後には了承したかといえば……やはりこの背景は大きいと思います。のちにマクベス夫人は夢遊病になっていますが、このことから見ても彼女が精神病的気質をもともと持っていたのではないかということが窺われるわけですが、ダンカン王殺害のことについてはある種脅迫的ですらあります(強迫神経症的な迫力を感じるというか)。
おそらく、我が子を亡くした時、マクベス夫人はほとんど鬱病にも近いくらい落ち込んでいたのではないでしょうか。しかも、マクベスはそんな時、国の危機を救うために戦争へ出なければならず――このことからも、マクベスが恐ろしい底力を出して不利な状況の中、敵軍を打ち破ったのかがわかる気がするのです。マクベスはこれで自分まで死のうものなら自分の奥方がどうなるかと、とても心配だったに違いありません――そして、戦に勝利して帰るところで魔女たちに遭遇したのですね。
マクベスはきっと、この喜ばしい知らせを奥さんも喜んでくれるに違いないと思ったのではないでしょうか。
けれど、実際は愛する夫人に執拗にダンカン王殺害のことを迫られ、心中苦しかったに違いありません。また、奥方のためのみならず、彼自身にもスコットランド王になりたいという野心はかねてよりあったわけですから……こうしてふたりは引き返せない道、地獄へ通じる扉を開いてしまったのだと思います。
そして、わたしがマクベス夫人が「どこにでもいるフツーの人」だと感じる大切な箇所が他にもあります。マクベス夫人は、寝ているダンカン王が自分の父に似ていなかったら、この自分の手で殺害したのだけれど、といったように言っていますが、このことから見てもわかりますよね。彼女は実際のところ、口だけなのです。自分の子供が乳を吸っていても、我が身からもぎ離して必要とあらばその脳みそを抉りだすことも厭わない……といったように言っておきながらも、実際に自分の子が生きていたら、絶対にそんなことはしない、また、ダンカン王殺害についても同様のことが言えると思うのです。
わたし個人のマクベス夫人像というのは、まず「美人」というイメージが物凄くあるんですよね。スコットランドの女性ということで、画家のフュースリはマクベス夫人を赤毛として描いていますが、わたし自身としては黒髪かブロンドの、とても美しい女性……といったイメージです(そしてマクベスはそんな奥方にベタ惚れだったのではないかと思われます)。
ただ、幼い我が子を亡くして心が空虚になっていたところに、魔女の予言があり――これ、誰でもわかると思うのですが、こうした喪失感で心が空っぽの時って、なんでもいいからそこを埋めたいと人は思うものだと思うんですよね。そしてマクベス夫人にとってそれは、スコットランドの王妃になるということだったと思うんですよ
ところが……夫のマクベスは王位に就いた途端、人が変わったようになり、マクベス夫人の心にもまた夫同様安らぎがありません。
「何もならない、すべてがむだごと、望みは遂げても、満ちたりた安らぎが得られなければ。いっそ殺されたほうが、まだしも気楽、殺しておいて、あやふやな楽しみしか手に入らぬくらいなら」とマクベス夫人は言っていますが、まったくその通りだと思います。
そして、夫がダンカン王のみならず、バンクォー、貴族マクダフの妻子など、夫人にとっては「そこまでする必要はありますまいに」という理由によって殺していくのを見て――マクベス夫人の心は再び、我が子を亡くした時、あるいはそれ以上に深く絶望したのではないでしょうか。
また、マクベス夫人が良心の呵責から夢遊病になっていることから見ても、わたし、マクベス夫人ってほんと、どこにでもいるフツーの女性だなって思うんですよね(^^;)
それから、マクベス夫人に名前がないっていうのも、すごく頷ける気がします。普通、主人公の奥さんっていうことになると、ダイアナとかシャーロットとか、その他なんでもいいのですが、とりあえず名前くらいありそうなものですよね。でも、マクベスとマクベス夫人っていうのは、この物語の悲劇を語る上でコインの表裏をなしていることから――やっぱりマクベス夫人はマクベス夫人としてだけ語られるのが相応しいような気がします(まあ、マクベスを読んだ人の誰もが思いそうなことですが・笑)
それと、これは今回マクベスを読んでいて初めて気づいたことなのですが、物語の割と最初にほうに、次のような描写があります。
ダンカン:「よいところにあるな、この城は。吹き過ぎる風が、いかにも爽やかに甘く、ものうい官能をなぶってゆく」
バンクォー:「それ、あそこに夏の谷、寺院に住まう岩燕が、せっせと巣づくりに精をだしております、それが何よりの証拠、このあたりは格別、大気の匂いに心がうずくらしゅうございます。この鳥は、軒下、なげし下、控え壁、その他どこでも、ところ嫌わず、都合のよい隅々を見つけては、吊床を造り、雛鳥の揺籠をしつらえるとか。この連中が好んで巣をつくる場所は、かならず空気がやわらかいような気がいたします」
(『マクベス』シェイクスピア作・福田恒存さん訳/新潮文庫)
いえ、こうした描写をさらっと入れてしまえるあたり、シェイクスピアは残酷だなあ……と個人的には思ったり(^^;)
何故かというと、もしマクベスが荒野で魔女に出会っていなかったとしたら、マクベスとマクベス夫人とは、仮にスコットランドの王と王妃という権力の座に就いてなかったとしても、その後それなりに仲睦まじく暮らし、子宝にも恵まれて幸福な一生をまっとうしたのではないか――そんなふうに暗示されているように読めるからです。
なんにしても次回は、マクベスの人生観や死生観といったことについて触れてみたいと思います♪(^^)
それではまた~!!
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