神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神に信頼する者は、失望させられることがない。

2017年08月17日 | キリスト教


 >>希望は心のなかにとまる
 羽根のあるもの
 歌詞のないうたを囀り
 決して休むことはない

 風の日にもとても優しく聞える
 こんなに大勢を慰める
 この小鳥を当惑させる嵐は
 よほど不機嫌にちがいない

 わたしはそれを寒い土地や
 見知らない海で聞いたことがある
 だけど今までどんなにつらくても
 わたしにパン屑をねだったことがない

(『ディキンスン詩集』新倉俊一さん訳編/思潮社より)


 これはわたし個人の解釈なので、わたしのこの解釈で正しいかどうかというのはわからないのですが――「どんなにつらくてもわたしにパン屑をねだったことがない」というのは、この小鳥が希望をその小さな胸に抱いているから、ということなのではないでしょうか

 なんでも、人間以外のライオンやキリンやうさぎといった動物たちは、「希望」がなくても生きていけるそうです(^^;)

 ただ人間だけが、「希望」というものがないと生きていけない、絶望したり、また時にはそのことから自ら命を絶ったりするということでした。。。

 以前、山の中でこうした光景を見たことがあります

 いつもいる街中から離れた山の中ですので、道を歩いていくと名前はわからないのですが、普段見かけるスズメちゃんとはまた別の、少し変わった感じの鳥をちらほら見かけました(6~8月だったと思うのですが、ウグイスが「ホーホケキョ!」と啼いていて、ちょっとびっくりしました・笑)

 そして、よく名前のわからない、普段街中で見かけない二羽の鳥さんが地面をしきりとつっついてるんですよね。

 こういう野生の鳥さんたちって、人間が近づいていくと速攻逃げると思うのですが、かなり近づいていっても彼(彼女?)たちは物凄く一生懸命食事を続けてました。。。

 むしろ、都会に住むスズメさんたちよりも、山ってもう鳥さんたちにとってご馳走の宝庫なんじゃないでしょうか

 その鳥さんたちは、地面に這う虫たちを啄ばみ放題といった感じで好きなだけお腹いっぱい食べることが出来たのですから。

 むしろ、都会のスズメさんたちのほうが食事の捕獲といったことにはなんとなく苦労してそうです。

 以前、とある方が「スズメが蜘蛛の巣の蜘蛛を食べるところを見て、おえっとなった☆」と言っていたことがあるのですが、その方曰く「スズメって米粒とかそういうものばっかり食べてると思ったけど、蜘蛛とかあんなもの食べてると思ったら、以来スズメをあまり可愛いと思えなくなった」と言うのです(^^;)

 その、毎日毎日そんなにうまくスズメさんたちって米粒にありつけるとは限りませんよね、当然(笑)

 でも、山の中で夏にご馳走(毛虫など☆)食べ放題の鳥さんも、都会のスズメさんといった鳥さんたちも――「明日、もしごはんがなかったらどうしよう」と心配したりはしませんよね。

 それはそこまで高等な知能があの鳥どもには備わっていないからだ……というのも、それはそのとおりなのですが、人間にもこういうタイプの人っていたりしませんか?(笑)

 よく言えば楽観的というか、「明日のみならず、一週間分の食糧がないと常に不安。いやいや、一週間どころか一か月、いや、三か月くらい先までの生活・経済の見通しがないと――不安でごはんも喉を通らない」というのとは、正反対のタイプの方です(^^;)

 イエスさまはおっしゃいました。

「明日のことは明日が心配します」と……。


 >>だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。

 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。

 なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

 きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか、信仰の薄い人たち。

 そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。

 こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。

 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

(マタイの福音書、第6章25~34節)


 ディキンスンの詩には、詩と詩の間から聖書の言葉の残響(エコー)が聞こえる場合が多いのですが、わたしはこの聖書の言葉の他に、今回の記事タイトルの「神に信頼する者は決して失望させられることがない」をなんとなく連想しました

「神に信頼する者は決して失望させられることがない」……まあ、ここだけ読むと「嘘つけ!」という感じですが、けれどやはり、ディキンスンの言っている「希望」というのはこうした意味ではないかな、という気がするんですよね。 

 鳥の可愛らしい鳴き声には、本当に心を癒されるものがあります。

「よし、ひとつこの哀れな人間どもを慰めるのに囀ってやろうじゃないか」というのでもなく、本当に澄んだ清らかな歌声で啼く種族だと思います。

 それは強風の吹く時にも、とても寒い日でも、不安そうだったり心配そうだったりするでもなく、いつも一定の音階でそれはそれは美しく囀るのです。

 わたしも、マーリン・キャロザース先生の「感謝と賛美の教え」を実践するようになってから結構長いのですが、「良い時にも悪い時にも神さまに感謝し賛美する」というのは、この小鳥のようなものではないでしょうか。

 人生上の嵐のただ中でも、氷点下の寒い日にも……「ああ、神さま!この嵐を感謝します。この冬の寒さを賛美します!!」ということですよね。

 この希望の小鳥は、自身が「希望」であるがゆえに――人にパン屑をねだる必要がないのです

 何故なら、そのくらい神さまに信頼し、ちゃんと生きていけるくらいの食べ物は明日もきっと与えられるに違いないと、100%神さまにすべてを委ねて感謝しているからです。そして可愛らしい声で賛美します。

「今日も美味しいごはん食べれて良かった!」、「こんなに世界が美しくて良かった!」、「神さまありがとうね!こんなに素晴らしい自然を造ってくださって!」……といったような、何か素朴で純粋な歌声です。

 もちろん、人間はなかなかこうもいかなかったりしますよね(^^;)

 朝ごはんを食べながらすでに晩ごはんの献立のことを考えていたり、「まあ、水たまりに空が映っていて美しいわ」なんて言う人がいたら、「こっちゃ生活の苦労でそれどころじゃねえんだよ!」と思ったり、「こんなくだらない世界、クソ食らえだ!!」みたいに思うこともしょっちゅうあるかもしれません。

 でも、イエスさまのおっしゃる「まずは今日の苦労に集中せよ」というのは、真理であるような気がします。

 そして、結局起こること、しなくてはならないことが同じなら、なるべく感謝と賛美をもって明るく前向きに、出来れば楽しく物事に向かえるのが理想なのかな、という気がします(あくまでも「理想」ですけれどね^^;)

 それではまた~!!





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