【貢ぎの銭】マサッチオ
前回の記事タイトルは「幸福税」というものだったのですが、そのことと関連してなんとなく、そういえば今年は消費税が8%から10%になったんだっけ……と思い出しました
「あなたのモヤモヤとわたしのスッキリ。」で書いたこととも共通するかもしれませんが、常に100%いつでもわたしは幸福だ!という方はおられないと思います(^^;)
幸福とは、線の中の点である――と言いますが、人生という長い線の中で、これを仮に線路にたとえますと、時々<幸福駅>みたいのがあって、そこに停まることが出来た時だけ人は幸福である……といった、何かそうしたことではないでしょうか。
一方、イエスさまを信じた、神さまにある人生では、「幸福駅に人生という名の電車が停まった時だけ幸福」というのではなく、エブリディ、毎日24時間一時間一分一秒に至るまで喜びと幸福で満ちていることが求められます。
わたしは今、あえて「求められます」と書いたのですが、イエスさまを信じているクリスチャンの方であっても、この世の艱難辛苦というのはありますから、わたしがどんなに頑張って「イエスさまが十字架で血の贖いをなしてくださったことのゆえに、わたしは今こんなにハッピーだ!」と思い込もうとしても無理な瞬間というのはありえます。
けれど、そんな時にもわかっているのです。再びまたすぐに電車は<幸福駅>とか<嬉し野駅>とか<楽しみヶ丘>といった駅に止まり、再び神さまにある喜びや幸せに、聖霊さまを通して満たされることが出来るだろう……ということが。
というより、イエスさまを信じるというのは、もはやこうした駅を必要としないということでもあるのかもしれません。むしろ逆に、自分が望んだ時にいつでも傍らに止まることの出来る駅が平行して進んでいってくれているようなものなので――とにかく、キリスト教信仰にはそうした、イエスさまを信じた方の人生を逆転させる何かが存在するのは間違いないと思います。
つまり、同じクリスチャンの方でもこの<信仰のコツ>を掴んでいる方、あるいは掴んでおられない方は聖霊を受けていない可能性もあると思うのですが、この部分をしっかり掴んで信仰生活を歩むことはとても大切なことでないかと思います。
それまでは、なんという駅名のところでどのくらい停まっていなくてはいけないかなど、自分で自分の人生をコントロールすることは出来なかったわけですし、「みんなそんな人生を生きている」と思ってもいたわけですが、ところがイエスさまを信じて以後は、むしろ駅のほうが自分の人生に平行して移動してきてくれるようになるのです
そして、イエスさまを信じた方は以後、絶対つらい病気などにはかからない、また家族も同様であるとか、交通事故に遭うことも絶対にない……といったことではないように、やはり、たとえば「病気ヶ原」という駅に三年留まるなど、そうしたことはありうるわけです。
ところが、ですね。そうした場合にも神さまは必ず「耐え忍びやすい」ように、わたしたちに助けの御手を必ず備えていてくださいます。そして、あなたがそこを出る頃には駅名のほうも変わっているでしょう。それは「快復ヶ原」かもしれませんし、「喜びヶ丘」であるかもしれません。
なんにしても、マーリン・キャロザース先生の「(神さまへの)感謝と賛美」の教えを実践していると、悪いところはひとつもなく、いいことのほうが最低でも90%を越えるというのは本当のことではないかと思うんですよね。
さて、今回のタイトルは「神に喜んで税金を支払う人生」というものですが、多くの方はおそらく、自分が90%得をするためであれば、10%くらい損をしても仕方ない……そのように感じられるのではないでしょうか。
けれども、イエスさまにある人生は違います。何故なら神さまの御心とは――仮にわたしに100に当たるところの10分の1すら捧げるものがなく、さらには1さえ捧げるものがなく、さらにその半分の0.5を捧げたくらいであっても……わたしの側に神さまに対して惜しみなく捧げる心があり、神さまにもっと捧げるためには何をしたら良いかということを規準にして人生を生きようとするなら――それを「からし種の信仰」として認め、必ず祝福してくださるのです。
そして、「たったの0.5捧げただけなのに、神さまはこんなに良くしてくだった」という信仰の実を必ず見させてくださいますし、その捧げる割合を「わたしのために」増やさせてくださる方でもあるのです。
つまり、献金も同じことですが、この世のすべては神さまのものであり、わたしが何かを神さまに対して捧げた、あるいは捧げたようなつもりになったところで――もともと神さまのものであるところのものを、ただ持っていったっていうだけですよね(=神さまに得なところなど何ひとつとしてない)。
けれども、何故その人間の捧げものを神さまが喜ばれるかというと、そこにわたしたち人間の<心>が伴っているからに他なりません。祈りももちろん、神さまに対する大切な捧げものですし、こちらは完全に精神・心・魂をイエスさまにお捧げるする行為といっていいでしょう。
けれども、祈りは行為、意識的に行う行動でもありますし、神さまのために時間を使う、ということでもあります。そこで、わたし個人のノンクリスチャンだった頃と比較して、ということになりますが――そのように「神さまのために意識して時間を使う」ことを聖霊さまによって知らなかった頃は、とても不幸だった気がします。
何か面白い映画を見たり、漫画を読んだり、親しい人と充実した時間を過ごしたり……そうした時を積み重ねていけることが、一般的に<充足した人生>に繋がることだと思うのですが、<神さまとともにある人生>というのは、そうしたすべてを超越しているところがあると思います。
もちろん、信仰生活が祝福されている方というのは、プライヴェートな個人的な面でもあらゆる部分で祝福が浸透していくところがあるとは思うのですが、人生の暗闇の時にもイエスさまがともにいてくださることで――そのもっとも深い暗闇の時こそが、もっとも良い、素晴らしい最高の礼拝の時ともなりうるのです。
何故といって、わたしたちは神さまの十字架の傷に触れる時こそ自分が癒され、さらにはイエスさまが十字架上で経験されたあの絶望、御父なる神さまとの霊的断絶という絶望に触れることで……最低でも自分はイエスさまとの霊的断絶を経験することだけは決してなく(「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネの福音書、第14章18節))、イエスさまが十字架上で味わってくださった苦しみを僅かながらでも共にすることでむしろ、喜びに溢れていることが出来るのですから。
わたしたちは、何かを失うと肉においては、あるいは心のほうでは非常に悲しみ痛みを感じますが、「いや、でもあの人は今天国でイエスさまとともにいるのだから」と思うと、霊的には自分は絶望していないとわかることで……そこから時間の経過とともに快復していくところがあると思うんですよね。
そして、非常なる腹痛にある時などは特に、その痛みを感謝するどころでないという、そうした精神の余裕のなさを経験するということもあります。人間的な言い方をしたとすれば、「いや、今神さまとか、それどころじゃないから!」といった、そうした状況が許されることもあると思います。
けれども、わたしたちが仮に自分の周囲に神さま、イエスさまの存在を聖霊さまを通して常に感じていられるなら……何かの危機の際にもすぐに思いだすことが出来ると思います。「そうだった!わたしが自分の力で電車を動かしている時は、駅が見えてこない限りはどこにも止まれない。でも、今はイエスさまのほうで駅を用意してくださっているから、いつでもどこにでも神さまの御旨の場所に止まることが出来るんだ」――「前の人生とこちらのクリスチャンの人生と、どう違うんだ?」とか、「自分は自分の力でコントロールして人生という名前の電車を動かしていきたい」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
でも、ある程度人生の苦労を味わった方、言われのないことで苦しんだことのある方ならわかるでしょう。自分の努力で人生をコントロールするといったことには限界があり、仮に事故が起きたといった場合でも、責任を取らなければならないのは自分自身なのです。けれども、<神さまにある人生>という線路を選択したその瞬間から――もしわたしが一度イエスさまのことを信じたにも関わらず、その後考えを変えて再び「自分の人生という電車は自分でコントロールするんだ!」と息巻き、一生懸命頑張った末に悲惨な事故を起こしたといった場合でも、もしわたしが真実神さまに立ち返って悔い改めるなら、イエスさまはそうした損害ですらも益となるように、わたしたちのことを必ず助けてくださるのです。
今回のタイトルは、「喜んで神に税金を支払う人生」ですが、そもそもクリスチャンは神さまへの捧げものを税金とは思っておらず、1捧げたものがいずれ100倍以上になって返ってくると信じるという功利主義によってイエスさまのことを信じているわけでもなく、捧げる量が大きいか小さいかよりも、ただ「神さまにお捧げする<何か>が自分にあることを喜ぶ」気持ちによって捧げる時――その積み重ねが、本人にそう自覚がなくても、いずれあふれるばかりの祝福として戻ってくるのです。
この世の税といったものは、ただ取られる一方であり、果たしてそのすべてが正しく使われているかどうかについても非常に疑わしく思われるものですが、イエスさまへの捧げものは絶対的に違います。神さまはそれを必ずわたしたちの益となるようにしてくださいますし、わたしたちのほうでも「必ずそのようになる」との絶対的な信仰によってこの方のことを信頼し、ますますより多くのものをお捧げしようとの意志によってさらに祈り、感謝し、イエスさまの御旨がなるべく行動しようと思う気持ちが強められるのです。
今回の記事はなんとなくちょっとタイトル悪かった気もしますが(汗)、とりあえず、大体のところの意味はわかっていいだけるものとして、このまましてしまいたいと思います♪
それではまた~!!
前回の記事タイトルは「幸福税」というものだったのですが、そのことと関連してなんとなく、そういえば今年は消費税が8%から10%になったんだっけ……と思い出しました
「あなたのモヤモヤとわたしのスッキリ。」で書いたこととも共通するかもしれませんが、常に100%いつでもわたしは幸福だ!という方はおられないと思います(^^;)
幸福とは、線の中の点である――と言いますが、人生という長い線の中で、これを仮に線路にたとえますと、時々<幸福駅>みたいのがあって、そこに停まることが出来た時だけ人は幸福である……といった、何かそうしたことではないでしょうか。
一方、イエスさまを信じた、神さまにある人生では、「幸福駅に人生という名の電車が停まった時だけ幸福」というのではなく、エブリディ、毎日24時間一時間一分一秒に至るまで喜びと幸福で満ちていることが求められます。
わたしは今、あえて「求められます」と書いたのですが、イエスさまを信じているクリスチャンの方であっても、この世の艱難辛苦というのはありますから、わたしがどんなに頑張って「イエスさまが十字架で血の贖いをなしてくださったことのゆえに、わたしは今こんなにハッピーだ!」と思い込もうとしても無理な瞬間というのはありえます。
けれど、そんな時にもわかっているのです。再びまたすぐに電車は<幸福駅>とか<嬉し野駅>とか<楽しみヶ丘>といった駅に止まり、再び神さまにある喜びや幸せに、聖霊さまを通して満たされることが出来るだろう……ということが。
というより、イエスさまを信じるというのは、もはやこうした駅を必要としないということでもあるのかもしれません。むしろ逆に、自分が望んだ時にいつでも傍らに止まることの出来る駅が平行して進んでいってくれているようなものなので――とにかく、キリスト教信仰にはそうした、イエスさまを信じた方の人生を逆転させる何かが存在するのは間違いないと思います。
つまり、同じクリスチャンの方でもこの<信仰のコツ>を掴んでいる方、あるいは掴んでおられない方は聖霊を受けていない可能性もあると思うのですが、この部分をしっかり掴んで信仰生活を歩むことはとても大切なことでないかと思います。
それまでは、なんという駅名のところでどのくらい停まっていなくてはいけないかなど、自分で自分の人生をコントロールすることは出来なかったわけですし、「みんなそんな人生を生きている」と思ってもいたわけですが、ところがイエスさまを信じて以後は、むしろ駅のほうが自分の人生に平行して移動してきてくれるようになるのです
そして、イエスさまを信じた方は以後、絶対つらい病気などにはかからない、また家族も同様であるとか、交通事故に遭うことも絶対にない……といったことではないように、やはり、たとえば「病気ヶ原」という駅に三年留まるなど、そうしたことはありうるわけです。
ところが、ですね。そうした場合にも神さまは必ず「耐え忍びやすい」ように、わたしたちに助けの御手を必ず備えていてくださいます。そして、あなたがそこを出る頃には駅名のほうも変わっているでしょう。それは「快復ヶ原」かもしれませんし、「喜びヶ丘」であるかもしれません。
なんにしても、マーリン・キャロザース先生の「(神さまへの)感謝と賛美」の教えを実践していると、悪いところはひとつもなく、いいことのほうが最低でも90%を越えるというのは本当のことではないかと思うんですよね。
さて、今回のタイトルは「神に喜んで税金を支払う人生」というものですが、多くの方はおそらく、自分が90%得をするためであれば、10%くらい損をしても仕方ない……そのように感じられるのではないでしょうか。
けれども、イエスさまにある人生は違います。何故なら神さまの御心とは――仮にわたしに100に当たるところの10分の1すら捧げるものがなく、さらには1さえ捧げるものがなく、さらにその半分の0.5を捧げたくらいであっても……わたしの側に神さまに対して惜しみなく捧げる心があり、神さまにもっと捧げるためには何をしたら良いかということを規準にして人生を生きようとするなら――それを「からし種の信仰」として認め、必ず祝福してくださるのです。
そして、「たったの0.5捧げただけなのに、神さまはこんなに良くしてくだった」という信仰の実を必ず見させてくださいますし、その捧げる割合を「わたしのために」増やさせてくださる方でもあるのです。
つまり、献金も同じことですが、この世のすべては神さまのものであり、わたしが何かを神さまに対して捧げた、あるいは捧げたようなつもりになったところで――もともと神さまのものであるところのものを、ただ持っていったっていうだけですよね(=神さまに得なところなど何ひとつとしてない)。
けれども、何故その人間の捧げものを神さまが喜ばれるかというと、そこにわたしたち人間の<心>が伴っているからに他なりません。祈りももちろん、神さまに対する大切な捧げものですし、こちらは完全に精神・心・魂をイエスさまにお捧げるする行為といっていいでしょう。
けれども、祈りは行為、意識的に行う行動でもありますし、神さまのために時間を使う、ということでもあります。そこで、わたし個人のノンクリスチャンだった頃と比較して、ということになりますが――そのように「神さまのために意識して時間を使う」ことを聖霊さまによって知らなかった頃は、とても不幸だった気がします。
何か面白い映画を見たり、漫画を読んだり、親しい人と充実した時間を過ごしたり……そうした時を積み重ねていけることが、一般的に<充足した人生>に繋がることだと思うのですが、<神さまとともにある人生>というのは、そうしたすべてを超越しているところがあると思います。
もちろん、信仰生活が祝福されている方というのは、プライヴェートな個人的な面でもあらゆる部分で祝福が浸透していくところがあるとは思うのですが、人生の暗闇の時にもイエスさまがともにいてくださることで――そのもっとも深い暗闇の時こそが、もっとも良い、素晴らしい最高の礼拝の時ともなりうるのです。
何故といって、わたしたちは神さまの十字架の傷に触れる時こそ自分が癒され、さらにはイエスさまが十字架上で経験されたあの絶望、御父なる神さまとの霊的断絶という絶望に触れることで……最低でも自分はイエスさまとの霊的断絶を経験することだけは決してなく(「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネの福音書、第14章18節))、イエスさまが十字架上で味わってくださった苦しみを僅かながらでも共にすることでむしろ、喜びに溢れていることが出来るのですから。
わたしたちは、何かを失うと肉においては、あるいは心のほうでは非常に悲しみ痛みを感じますが、「いや、でもあの人は今天国でイエスさまとともにいるのだから」と思うと、霊的には自分は絶望していないとわかることで……そこから時間の経過とともに快復していくところがあると思うんですよね。
そして、非常なる腹痛にある時などは特に、その痛みを感謝するどころでないという、そうした精神の余裕のなさを経験するということもあります。人間的な言い方をしたとすれば、「いや、今神さまとか、それどころじゃないから!」といった、そうした状況が許されることもあると思います。
けれども、わたしたちが仮に自分の周囲に神さま、イエスさまの存在を聖霊さまを通して常に感じていられるなら……何かの危機の際にもすぐに思いだすことが出来ると思います。「そうだった!わたしが自分の力で電車を動かしている時は、駅が見えてこない限りはどこにも止まれない。でも、今はイエスさまのほうで駅を用意してくださっているから、いつでもどこにでも神さまの御旨の場所に止まることが出来るんだ」――「前の人生とこちらのクリスチャンの人生と、どう違うんだ?」とか、「自分は自分の力でコントロールして人生という名前の電車を動かしていきたい」と思う方もいらっしゃるかもしれません。
でも、ある程度人生の苦労を味わった方、言われのないことで苦しんだことのある方ならわかるでしょう。自分の努力で人生をコントロールするといったことには限界があり、仮に事故が起きたといった場合でも、責任を取らなければならないのは自分自身なのです。けれども、<神さまにある人生>という線路を選択したその瞬間から――もしわたしが一度イエスさまのことを信じたにも関わらず、その後考えを変えて再び「自分の人生という電車は自分でコントロールするんだ!」と息巻き、一生懸命頑張った末に悲惨な事故を起こしたといった場合でも、もしわたしが真実神さまに立ち返って悔い改めるなら、イエスさまはそうした損害ですらも益となるように、わたしたちのことを必ず助けてくださるのです。
今回のタイトルは、「喜んで神に税金を支払う人生」ですが、そもそもクリスチャンは神さまへの捧げものを税金とは思っておらず、1捧げたものがいずれ100倍以上になって返ってくると信じるという功利主義によってイエスさまのことを信じているわけでもなく、捧げる量が大きいか小さいかよりも、ただ「神さまにお捧げする<何か>が自分にあることを喜ぶ」気持ちによって捧げる時――その積み重ねが、本人にそう自覚がなくても、いずれあふれるばかりの祝福として戻ってくるのです。
この世の税といったものは、ただ取られる一方であり、果たしてそのすべてが正しく使われているかどうかについても非常に疑わしく思われるものですが、イエスさまへの捧げものは絶対的に違います。神さまはそれを必ずわたしたちの益となるようにしてくださいますし、わたしたちのほうでも「必ずそのようになる」との絶対的な信仰によってこの方のことを信頼し、ますますより多くのものをお捧げしようとの意志によってさらに祈り、感謝し、イエスさまの御旨がなるべく行動しようと思う気持ちが強められるのです。
今回の記事はなんとなくちょっとタイトル悪かった気もしますが(汗)、とりあえず、大体のところの意味はわかっていいだけるものとして、このまましてしまいたいと思います♪
それではまた~!!
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