神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。

2019年12月21日 | キリスト教


 >>わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。

(ヨハネの福音書、第14章18節)


 ええと、わたし「新世紀エヴァンゲリオン」っていうアニメが大好きなんですけど……このアニメに関しては、クリスチャン・ホームではもしかしたら禁句だったり、「見てはいけないアニメ☆」として分類されているかもしれません(^^;)

 もちろん、シト(使徒)という化け物のような敵が外からやって来て、それをエヴァンゲリオンという汎用人型兵器に主人公たちが乗って撃退していくというのは――その他、作品設定の色々な細かい点を取ってみても、キリスト教信仰をお持ちの方からしてみれば「設定めちゃくちゃだなあ☆」と感じられるとは思います。

 でももう、そんなことは抜きにして圧倒的にこんなに面白いアニメはないと思いますし、そのくらい健全なキリスト教信仰といったこととは関係のないお話ですから、ここから子供が何か害を受けてイエスさまのことを信じなくなる……といったことはまずもってないと思うのです(^^;)

 それはさておき、わたしは健全なクリスチャンの方にエヴァンゲリオンという素晴らしいアニメを見るよう薦めているというわけではなく――エヴァンゲリオンはその圧倒的な面白さから、いまや普段それほど漫画・アニメを見ないという方ですら「エヴァだけは見ている」というくらい、見ていない方のほうが少ないアニメなわけです。

 わたしも映画アニメのほうは途中までしか見てないのですが、最近ちょっと漫画のほうを読む機会がありまして、あらためてその圧倒的面白さを味わうとともに、ちょっと思うところ・考えるところがあったりしました。。。

「新世紀エヴァンゲリオン」の主人公は碇シンジくん、他に同じくエヴァの乗り手である綾波レイちゃんや、惣流アスカ=ラングレーといった女の子などがメインキャラクターです(言わずもがな☆笑)

 でもシンジくんもレイもアスカちゃんも、お父さんとの関係がうまくいってない、あるいは最初からいない、お母さんもすでに亡くなっている、あるいは最初からいないなどして――ようするに親子関係がなんらかの形でうまくいってません。

 そして、わたしいわゆるエヴァ本というか、そうした解説本を読んだことないので、もしかしたら間違ってるかもしれませんが(汗)、シトというのはようするに未知の地球外生命体であり、この12体以上いるシトというのは、第三新東京市の遥か地下深くにいる同じ地球外生命体の<アダム>を求めてやって来る……ということらしーんですよね。

 で、エヴァンゲリオンというのは、この<アダム>から造られた汎用人型決戦兵器だったりするわけです。そして、<死海文書>というこの世界のはじめから終わりについてまで書き記されている文書があって、そのタイムスケジュール的なシナリオに沿って人類は動いている――それともうひとつ、<人類補完計画>という全人類にとって非常に重要な計画が最終的には発動されることになるらしい……といった、「匂わせ感」が作品を貫いています。

 そのですね、「匂わせ感」とか書くのは、決して嫌味とかじゃありません(笑)。わたしが実際にアニメ見る前に、たまたま雑誌に書かれた批評などを読んでみたところ、「ネルフは結局、自己啓発セミナーの団体に過ぎなかったのか?」とか書いてあって、自分的にはむしろ興味を持ったと言いますか(^^;)

<人類補完計画>って、すべての人は欠けを持って生まれてくるという、その<欠け>をなくするためには、最初から正しくやり直す必要がある、おそらくそのスイッチをいつ押すかといったようなことも<死海文書>には書かれていたといったことなのかもしれませんが……わたしが今回漫画のほうを読んで思ったのは、最初のTVアニメシリーズの最終回をわたしは失敗とは思いませんが、一般的にそう認識される向きがあるのでわかりやすくあえて<失敗>という言葉を使うとしますと――その最初の<失敗>の轍を踏まないといった着地点に無事到着している、といった印象を強く受けたんですよね。

 そうした意味で、TVアニメシリーズの終わり方よりも、漫画のエヴァのほうが遥かに優れているといったことではなくて、その両方を知ることが出来て良かったという意味で、今回妙にしっくり納得できるものがあった、というか(^^;)

 でもそれも、先にアニメを見ていてこその<納得>なので、感想としてはアニメも漫画も映画のほうも全部良い――ということではあるのですが、さて、ようやくここで今回の記事タイトル「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」に戻りたいと思います。

 ようするに、主要登場人物は大体、主人公のシンジくんをはじめ、「精神的に孤児」なのだと思うんですよね。また、綾波レイちゃんや渚カヲルくんには本当の意味での「両親」といったものが存在しません。なんていうか、こうしたアニメのキャラクターたちに当時のというか、今もですけど(笑)、特に若い世代の人たちが物凄く共感した、シンジくんたちに強いシンパシーを感じて自己同一化さえした……みたいなことって、すごくわかるような気がします(^^;)

 実際には自分には「そこそこ良い両親(罰当たりな言い方☆)」が揃っていたにしても、かといってそんなにわかりあっているかといったら、家族関係が危ういという方は当時も今もたくさんいたと思うんですよね。そして、特にシンジくんのあの自信のなさ……性別としては一応シンジくんは男の子なわけですけど、どちらかというとどこか中性的で、彼のどこか諦めきった無気力な感じ、「どうせどんなに努力したって、僕なんかが大した何かになれるわけじゃなし」、また他者と関わることに対して繊細で傷つきやすく、対人関係がなかなかうまくいかない――このシンジくんの纏う空気感、雰囲気といったものに自分を重ね合わせるのは同世代の男の子だけじゃなく、女の子たちもみんなそうなんじゃないかなって思う、というか。。。

 それで、ですね。これが従来のアニメであれば、そんな「弱いボク」がエヴァンゲリオンなんていう超絶凄い人型兵器のパイロットになって人類を救う――ことを通して、自分に自信を持ち、周囲の人たちにも受け入れられていく……といったところだと思うんですよ(^^;)

 でもエヴァの面白いというか、凄かったところは、従来のアニメのよくあるそうした展開を踏襲するのをよしとしなかったところではないでしょうか。シンジくんは結局、ネルフにおける最高司令官のお父さんとわかり合うということはなく、せっかく出来た友達関係も、むしろエヴァのパイロットであったことから滅茶苦茶になり――もはや戦う意志や気力といったものすら失ってゆきます。

 でも、本当にこの、<ギリギリ感>ですよね。否定に継ぐ否定、失敗に継ぐ失敗、ちょっと幸福になかったかと思ったら次の瞬間にはどん底にまで叩き落され……視聴者が何より夢中になったのは、エヴァというアニメのここではなかったかというくらい。もちろん、レイやアスカやミサトといったキャラクターの魅力もあるにしても、大体のところ、出てくるキャラ、出てくるキャラ、みんな幸せになってない(^^;)

 そして最終的に、究極の映像美ともいえるアニメの完成度の高さとともにそんな絶望を突きつけられた視聴者たちは最後、まあ呆然としたわけです。「こんなアニメ、今までなかった。いや、見たこともねえ!!」みたいに、行き場のない思いとともにとにかく呆然とした。アニメの中の出来事なのに、シンジくんたちアニメのキャラクターと、自分の中にぽっかり開いた心の穴とがすっかりシンクロ400%だぞ、ばかぁーっ。この気持ちを一体どうしてくれるーっ!!といった感じだったわけです。ハァハァ。。。

 再び私情に走ってしまってすみませんが、わたしエヴァを見た時ハタチすぎてたので、あのテレビシリーズの終わり方でも、実は納得することには一応納得することが出来たんですよね。でも、もし自分の見たのが中学生か高校生くらいの多感な年ごろだったら……たぶんこんな感じだったのではないかと思います(^^;)

 しかもその後、映画のほうが作られたわけですけれども、もしわたし、自分がリアルタイムでこの映画を見にいってたら、自分の感情を平静に保って映画館を出ることは絶対無理だったと思う。そうした評判のことをすでに聞いてかなり経ってから映画のほうを見たからある程度「なるほどな~。これはファンの方が怒り狂うわけだ」といった位置から見ることが出来たとはいえ……。

 で、ですね。再び話逸れそうなので本題のほうに戻るとしますと、人々の心の<欠け>を埋めて正しく人類やり直すっていうのが、<人類補完計画>ということだったのかなと思うのですが(たぶん)、エヴァンゲリオンはキリスト教や聖書の設定などを借りているというだけで、実質的なキリスト教信仰とはまったく関係ないとはいえ――ここだけ唯一、ちょっと意味合い的に共通したところがあるのかもしれない、と、今回漫画を読んでみて初めて思ったのです。

 地球上の全人類は、アダムとエヴァの犯した原罪のゆえに、その罪の状態から魂が回復するためにはイエス・キリストの血の贖いが必要なわけですけれども……この<新生>を経験することで、魂が本来の状態を聖霊さまを通して取り戻すことが出来、天国へ行くことが許されるようになる。また、何をきっかけにイエスさまを信じることになったか、その理由は人それぞれとは思うものの、なんらかの理由による<孤独>が契機でイエスさまを信じることになった方というのもたくさんいらっしゃると思うのです。

 それで、以前何かの雑誌だったと思うのですが(ちなみに、クリスチャン系ではない一般の)、かなり昔、こういった記事を読んだことがあったのをふと思いだしました。

 その雑誌の記事は2ページに渡っていて、カラー写真のところには胸に十字架のネックレスをかけた綺麗な金髪の外国人女性の写真が載っていました。たぶん、年齢は5~60代の方っぽそうなのですが、割と短いスカートをはいていたり、派手っぽそうな外見だったがゆえに、正直わたし、その方がそんなに敬虔な信仰をお持ちの方とはパッと見思いませんでした(胸元の十字架も、ファッションとしての飾りなのかな、なんて^^;)。

 そしてこの女性、見た目もファッショナブルな方で、雑誌に載ってるくらいの方なのですから、たぶん舞台女優さんか何かだった気がするのですが(記憶曖昧ですみません)、その短い記事の内容を読んで驚きました。確か、恋人、あるいは実際に結婚された方などが、交通事故や病気など、とにかくみなさん次々お亡くなりになってゆく。そしてそうした自分の運命を「何故」と思いながら悲しみつつ、彼女が最後に見出した男性、それが「イエス・キリストだった」といったように書いてあったんですよね。

 つまり、「イエス・キリスト」によって最後に心の孤独や欠けといったものが完全に埋まった……といったような文脈のことが書いてあったと思うのですが、一般的にいって「イエス・キリストによってわたしは心の孤独が埋まった」みたいに言うと、「ああ、宗教にでも走るしかなかった可哀想な人なんだな」といった印象を受ける方のほうが多いかもしれません。

 でも、オ○ム真理教など、どうも他の宗教を信じるに至った方の経緯やお話などを聞いていても思うのですが、特にいじめなどの迫害を経験したといったわけでもなく、さらには成績も優秀なエリートといっていい職業に就いている方でさえ……<孤独>といったこととはまた別の、心の欠けた部分の満たしを宗教に求める――というのは、実は誰にでもあることというか、「心の欠けた部分を何かによって満たそうとする」求めというのは、人間の誰もが普遍的に持っていることなんだろうなと思うんですよね。

 そして、エヴァンゲリオンというアニメは、時代が持っていたそうした背景ともちょうどバチッと嵌まるアニメだったと思うのですが、そういえば今年の6月に映画のほうが公開されて完結するらしい……との報を、割とつい最近知りましたww

 今度こそ本当にちゃんと終わるのかしら??と思う反面、もはや∞エンドレスにエヴァは終わらないといったよーな、なんともスッキリしない感じに慣れてしまっている自分もおり、「結局それが生きているってことなんだ」とすら視聴者に思わせる、それほどまでに見るものの精神に影響を与える<新世紀エヴァンゲリオン>というアニメは本当にすごいなってあらためて思います♪

 それではまた~!!





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