【アダムとイヴ】(ピーテル・パウル・ルーベンス)
>>事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
(コリント人への手紙第一、第1章21~29節)
キリスト教、クリスチャンというとどうも、清廉潔白な生き方を志さなくてはならない、時に窮屈な思いをしているあの連中……といったイメージが一般にあるらしいのですが、そうしたところから「キリスト教はちょっと敷居が高い」といったように思われる方も多いそうです。
でも、実際はそんなこともないような?と自分としては思います(^^;)
わたし自身、「こんなにもどうしようもない、ダメなわたしをお許しくださいィィッ!!」みたいによくなりますし、上記の御言葉にもあるとおり、神さまはこの世の弱い者、取るに足りないとして見下されている者をお選びになりました。
イザヤ書に「最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる」(第60章22節)とあるとおり。
また、聖書全体を通して読んでみますと、これが神さまのお選びになる原理ということがわかってくるかと思います。
神さまはたびたび弱い者、あるいは強い人でも非常な困難を通る中で、ご自分を最後まで信じる者を選んでおられるというか(^^;)
また、聖書に書かれていることを「ここに書かれていることはすべて真実である」と受け止めた場合、進化論を否定することになると思うのですが、今日一般的に信じられている科学としては、人間が猿から進化するさらにそれ以前に――恐竜が滅亡した時代をさらに生き延びた、我々哺乳類の祖先となる生き物がいたそうです。
その生き物は恐竜などに比べると、とても弱く小さく、よくあの恐竜が絶滅した過酷な環境を生き延びた……といったような存在だったと言います。
わたし自身は進化論についてあれこれ問おうと思わないのですが、けれど、そのような弱く小さな存在が今のわたしたちのような存在にまでなったとするなら、聖書の御言葉と照らし合わせてみても、やっぱりなんだかとても不思議な感じがするのです(^^;)
>>神にとって不可能なことは一つもありません。
(ルカの福音書、第1章37節)
との……。
それはさておき、神さまは基本的に弱者、もっとも弱い者の味方だというのは本当のことです。
もちろん、教会には色々な方がおられるので、週二回ジム通いしてる筋肉マッチョ☆な方や、燦然と輝くばかりの立派な経歴を持つ方、お金持ちで社会的地位のとても高い方もおられると思います。
でもそういうことではなくて――すべての人が神さまの前では裸であり、この世の塵、あらゆるもののかすですらある……という意味合いにおいては、人はみな平等なのではないでしょうか。
>>私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして、私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。
私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。
また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。
(コリント人への手紙第一、第4章9~13節)
神さまの視点、ものの見方というのは人間のそれとは違いますから(「人はうわべを見るが、主は心を見る」サムエル記第一、第16章7節)、その塵やかすの中からご自身の中で価値を見出される者をお選びになるのかもしれません。
そして、その選びもまた人間の常識を越えたものといっていいのではないでしょうか。
>>イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
するとイエスはこう言われた。
「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。
宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから』と言わせた。
ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます』
もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます』
また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません』
しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい』
しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります』
主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです』
(ルカの福音書、第14章15~24節)
神さまからの招待状を受け取っていながらその招きに応えない――というのは、なんだかありえないことのような気がしますけれども、マタイの福音書の同じ箇所に「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」とあるのは、真実なのではないでしょうか
それではまた~!!
>>事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
(コリント人への手紙第一、第1章21~29節)
キリスト教、クリスチャンというとどうも、清廉潔白な生き方を志さなくてはならない、時に窮屈な思いをしているあの連中……といったイメージが一般にあるらしいのですが、そうしたところから「キリスト教はちょっと敷居が高い」といったように思われる方も多いそうです。
でも、実際はそんなこともないような?と自分としては思います(^^;)
わたし自身、「こんなにもどうしようもない、ダメなわたしをお許しくださいィィッ!!」みたいによくなりますし、上記の御言葉にもあるとおり、神さまはこの世の弱い者、取るに足りないとして見下されている者をお選びになりました。
イザヤ書に「最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる」(第60章22節)とあるとおり。
また、聖書全体を通して読んでみますと、これが神さまのお選びになる原理ということがわかってくるかと思います。
神さまはたびたび弱い者、あるいは強い人でも非常な困難を通る中で、ご自分を最後まで信じる者を選んでおられるというか(^^;)
また、聖書に書かれていることを「ここに書かれていることはすべて真実である」と受け止めた場合、進化論を否定することになると思うのですが、今日一般的に信じられている科学としては、人間が猿から進化するさらにそれ以前に――恐竜が滅亡した時代をさらに生き延びた、我々哺乳類の祖先となる生き物がいたそうです。
その生き物は恐竜などに比べると、とても弱く小さく、よくあの恐竜が絶滅した過酷な環境を生き延びた……といったような存在だったと言います。
わたし自身は進化論についてあれこれ問おうと思わないのですが、けれど、そのような弱く小さな存在が今のわたしたちのような存在にまでなったとするなら、聖書の御言葉と照らし合わせてみても、やっぱりなんだかとても不思議な感じがするのです(^^;)
>>神にとって不可能なことは一つもありません。
(ルカの福音書、第1章37節)
との……。
それはさておき、神さまは基本的に弱者、もっとも弱い者の味方だというのは本当のことです。
もちろん、教会には色々な方がおられるので、週二回ジム通いしてる筋肉マッチョ☆な方や、燦然と輝くばかりの立派な経歴を持つ方、お金持ちで社会的地位のとても高い方もおられると思います。
でもそういうことではなくて――すべての人が神さまの前では裸であり、この世の塵、あらゆるもののかすですらある……という意味合いにおいては、人はみな平等なのではないでしょうか。
>>私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして、私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。
私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。
また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。
(コリント人への手紙第一、第4章9~13節)
神さまの視点、ものの見方というのは人間のそれとは違いますから(「人はうわべを見るが、主は心を見る」サムエル記第一、第16章7節)、その塵やかすの中からご自身の中で価値を見出される者をお選びになるのかもしれません。
そして、その選びもまた人間の常識を越えたものといっていいのではないでしょうか。
>>イエスといっしょに食卓に着いていた客のひとりはこれを聞いて、イエスに、「神の国で食事する人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。
するとイエスはこう言われた。
「ある人が盛大な宴会を催し、大ぜいの人を招いた。
宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから』と言わせた。
ところが、みな同じように断わり始めた。最初の人はこう言った。『畑を買ったので、どうしても見に出かけなければなりません。すみませんが、お断わりさせていただきます』
もうひとりはこう言った。『五くびきの牛を買ったので、それをためしに行くところです。すみませんが、お断わりさせていただきます』
また、別の人はこう言った。『結婚したので、行くことができません』
しもべは帰って、このことを主人に報告した。すると、おこった主人は、そのしもべに言った。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい』
しもべは言った。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります』
主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。
言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです』
(ルカの福音書、第14章15~24節)
神さまからの招待状を受け取っていながらその招きに応えない――というのは、なんだかありえないことのような気がしますけれども、マタイの福音書の同じ箇所に「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」とあるのは、真実なのではないでしょうか
それではまた~!!
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