【キリストの磔刑】ハンス・バルドゥング・グリーン
この言葉の元ネタ☆は、ハリウッド俳優のチャーリー・シーンさんのものです(笑)
>>俺は毎秒ごとに勝っている。
(BY,チャーリー・シーン)
ネットで軽く調べてみたところ、この言葉の前に「俺は生まれながらの勝利者。毎秒ごとに勝っている」ということらしく。。。
いえ、プライヴェートに関することで何かと問題のある俳優さんだと思うので、そうした方の言葉を引用するのはどんなもんだろうwwという気もしたんですけど(笑)、あとから「そういえばこの言葉ってクリスチャンにそのまま当てはまるんじゃなかろうか」……と思ったんですよね(^^;)
>>なぜなら、神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか。
(ヨハネの手紙第一、第5章4~5節)
>>私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた」
と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
(ローマ人への手紙、第8章32~37節)
>>わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。
(ヨハネの福音書、第16章33節)
聖書には、他にもたくさんイエスさまを信じる者に対する勝利の約束の言葉があると思うんですけど――実際の現実を見ると、どうもクリスチャンってこの世的な価値観ではかった場合、負けているようにしか見えない人が多いかもしれません(わたし自身もそうだと思います^^;)
けれど、キリスト教徒がまず最初に考える勝利のモデルって、イエスさまが十字架にかかってくださったというそのことですよね。
人からつばきをかけられ、嘲弄され、「今神に助けていただくがいい。自分は神の子だと言っているのだから」と言われ……頭に荊の冠をされ、素っ裸で(絵画などでは布がかかっていますけれども、イエスさまは下着まで奪われておりますから、実際は本当に素っ裸だったのです)、そのような恥辱の極みにおいて手足を釘で打ち抜かれ……こうして、自分の育てた弟子の裏切りにまであい、それまで自分を信じて従い、救世主として崇めた人々からも捨てられ、何より十字架上では父なる神との霊的断絶まで経験され――イエスさまがこのような目に遭ったことすべてが、のちにご自身を信じる人々がすべて勝利を得るためだった……というのは、普通の人間の思考回路では到底理解不能な出来事だと思います。
けれど、わたしたちクリスチャンはそのようなイエスさまのことを心から愛し敬い、御父の立てた計画の正しさに頭を垂れ、ただ一言「アーメン。」としか言うことの出来ないものです(†アーメン=ヘブライ語で、「そのとおりです」の意)。
>>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章28節)
イエスさまが十字架にかかり、その後三日後に甦ってくださったことは、わたしたち信じる者にとっては勝利であり、その歴史上最悪とも見ることの出来る残酷な十字架刑をもまた、神は益とされました。何よりそれは、わたしたち人間が神さまの愛を体験できるように神さまが備えてくださっていた遥かなる昔からの計画でした。
つまり、わたしたちクリスチャンの考えている勝利というのは、そうした事柄だということですよね。
たとえば、会社が倒産したのちにイエスさまのことを知って救われ、その後今は牧師をしている……といった話を聞けば、「あの人はこの世で失敗したから、そのような宗教の道に走ることになったのだろう」と思い、ガンで入院している人が「いえ、神さまが必ず癒してくださいますから」と青白い顔で言えば、「そもそも何故あなたの信じる神は、あなたを病気にさせないでおかなかったのか」と思うという、何かそうしたことがたくさんあるかもしれません。
けれど、わたしたちクリスチャンの考えている勝利というのは結局のところが、試合の最後のスコアは神が勝つと決まっているという、そうしたことなのです(^^;)
たとえば、イエスさまのことに関していえば、その背景に神vsサタン(悪魔)といったことがあるわけですけど、ユダをそそのかしてイエスさまのことを裏切るようにさせ、イエスさまが十字架にかかった時、彼(サタン)はとても喜んだことと思います。もしかしたら心の中でサタンさんは「ヒャッホー!俺はとうとう神の奴に勝ってやったぜ!!」とすら思っていたかもしれません。
けれど、その勝利もイエスさまが復活されるまでの、ほんの束の間の出来事でした(これを言い換えると、この世的勝利と言います)。
野球の試合でいったら、神さまの軍は1点しか入ってないのに、サタンは9回の表までに999点も入れているといった、そうした絶望的な状況です。おそらく、9回裏に自分の番が回ってきても、「もはや勝てない」として、誰もが意気阻喪してしまうことでしょう。
けれど、神さまの快進撃がはじまるのはここからなんですよね(^^;)
そして最後は10001点対999で神さまが勝つといった、聖書に書かれている勝利の方程式というのは大体がそうした事柄を扱っていると言っていいと思います。
だから、信仰心の厚い人ほど動じないのです。人生の多くの出来ごとにおいて、「それはイエスさまが十字架にかかってくださったほどの痛みか、苦しみか」と考え、その上で「それでもこのようなことでわたしは日々悩んでおります」と申し上げれば、イエスさまの苦痛に比べればごま粒程度の悩みにでも応え、優しく扱ってくださるのです。
そして、何かとプライヴェート的に問題のあるチャーリー・シーンさんの言葉というのがなんですが(笑)、「わたしは毎秒ごとに勝っている」というのは、クリスチャンのひとりびとりに確かに当てはまることであると思います。
また、とてもそうは思えない……という方がいらっしゃったら、祈りの中で聖霊さまを通してイエスさまに聞いてみるといいかもしれません。「何故わたしはそう思えないのでしょうか」、「またそう思えるように感じられる人生を送るために、わたしは何をしたらいいのでしょうか」といったように。
それではまた~!!
この言葉の元ネタ☆は、ハリウッド俳優のチャーリー・シーンさんのものです(笑)
>>俺は毎秒ごとに勝っている。
(BY,チャーリー・シーン)
ネットで軽く調べてみたところ、この言葉の前に「俺は生まれながらの勝利者。毎秒ごとに勝っている」ということらしく。。。
いえ、プライヴェートに関することで何かと問題のある俳優さんだと思うので、そうした方の言葉を引用するのはどんなもんだろうwwという気もしたんですけど(笑)、あとから「そういえばこの言葉ってクリスチャンにそのまま当てはまるんじゃなかろうか」……と思ったんですよね(^^;)
>>なぜなら、神から生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか。
(ヨハネの手紙第一、第5章4~5節)
>>私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。
私たちは、ほふられる羊とみなされた」
と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
(ローマ人への手紙、第8章32~37節)
>>わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。
(ヨハネの福音書、第16章33節)
聖書には、他にもたくさんイエスさまを信じる者に対する勝利の約束の言葉があると思うんですけど――実際の現実を見ると、どうもクリスチャンってこの世的な価値観ではかった場合、負けているようにしか見えない人が多いかもしれません(わたし自身もそうだと思います^^;)
けれど、キリスト教徒がまず最初に考える勝利のモデルって、イエスさまが十字架にかかってくださったというそのことですよね。
人からつばきをかけられ、嘲弄され、「今神に助けていただくがいい。自分は神の子だと言っているのだから」と言われ……頭に荊の冠をされ、素っ裸で(絵画などでは布がかかっていますけれども、イエスさまは下着まで奪われておりますから、実際は本当に素っ裸だったのです)、そのような恥辱の極みにおいて手足を釘で打ち抜かれ……こうして、自分の育てた弟子の裏切りにまであい、それまで自分を信じて従い、救世主として崇めた人々からも捨てられ、何より十字架上では父なる神との霊的断絶まで経験され――イエスさまがこのような目に遭ったことすべてが、のちにご自身を信じる人々がすべて勝利を得るためだった……というのは、普通の人間の思考回路では到底理解不能な出来事だと思います。
けれど、わたしたちクリスチャンはそのようなイエスさまのことを心から愛し敬い、御父の立てた計画の正しさに頭を垂れ、ただ一言「アーメン。」としか言うことの出来ないものです(†アーメン=ヘブライ語で、「そのとおりです」の意)。
>>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章28節)
イエスさまが十字架にかかり、その後三日後に甦ってくださったことは、わたしたち信じる者にとっては勝利であり、その歴史上最悪とも見ることの出来る残酷な十字架刑をもまた、神は益とされました。何よりそれは、わたしたち人間が神さまの愛を体験できるように神さまが備えてくださっていた遥かなる昔からの計画でした。
つまり、わたしたちクリスチャンの考えている勝利というのは、そうした事柄だということですよね。
たとえば、会社が倒産したのちにイエスさまのことを知って救われ、その後今は牧師をしている……といった話を聞けば、「あの人はこの世で失敗したから、そのような宗教の道に走ることになったのだろう」と思い、ガンで入院している人が「いえ、神さまが必ず癒してくださいますから」と青白い顔で言えば、「そもそも何故あなたの信じる神は、あなたを病気にさせないでおかなかったのか」と思うという、何かそうしたことがたくさんあるかもしれません。
けれど、わたしたちクリスチャンの考えている勝利というのは結局のところが、試合の最後のスコアは神が勝つと決まっているという、そうしたことなのです(^^;)
たとえば、イエスさまのことに関していえば、その背景に神vsサタン(悪魔)といったことがあるわけですけど、ユダをそそのかしてイエスさまのことを裏切るようにさせ、イエスさまが十字架にかかった時、彼(サタン)はとても喜んだことと思います。もしかしたら心の中でサタンさんは「ヒャッホー!俺はとうとう神の奴に勝ってやったぜ!!」とすら思っていたかもしれません。
けれど、その勝利もイエスさまが復活されるまでの、ほんの束の間の出来事でした(これを言い換えると、この世的勝利と言います)。
野球の試合でいったら、神さまの軍は1点しか入ってないのに、サタンは9回の表までに999点も入れているといった、そうした絶望的な状況です。おそらく、9回裏に自分の番が回ってきても、「もはや勝てない」として、誰もが意気阻喪してしまうことでしょう。
けれど、神さまの快進撃がはじまるのはここからなんですよね(^^;)
そして最後は10001点対999で神さまが勝つといった、聖書に書かれている勝利の方程式というのは大体がそうした事柄を扱っていると言っていいと思います。
だから、信仰心の厚い人ほど動じないのです。人生の多くの出来ごとにおいて、「それはイエスさまが十字架にかかってくださったほどの痛みか、苦しみか」と考え、その上で「それでもこのようなことでわたしは日々悩んでおります」と申し上げれば、イエスさまの苦痛に比べればごま粒程度の悩みにでも応え、優しく扱ってくださるのです。
そして、何かとプライヴェート的に問題のあるチャーリー・シーンさんの言葉というのがなんですが(笑)、「わたしは毎秒ごとに勝っている」というのは、クリスチャンのひとりびとりに確かに当てはまることであると思います。
また、とてもそうは思えない……という方がいらっしゃったら、祈りの中で聖霊さまを通してイエスさまに聞いてみるといいかもしれません。「何故わたしはそう思えないのでしょうか」、「またそう思えるように感じられる人生を送るために、わたしは何をしたらいいのでしょうか」といったように。
それではまた~!!
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