【オリーブ山の祈り】アンドレア・マンテーニャ
>>わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
(ヨハネの福音書、第17章13~16節)
「あなたはこの世のものですか?」なんて、口に出して聞かれることはまずないでしょうけれども(^^;)、クリスチャンとして生きるということは<この世>という場所から分離して生きる、ということを意味しているのは事実だと思います。
この節の少し前、ヨハネの福音書の第16章には>>「あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネの福音書、第16章33節)とあります。このことのうちに、大きなパラドックスを見る方はもしかしたら多いかもしれませんが、聖書を読むと「この世」とイエスさまが今いらっしゃる天国とは敵対関係にあることがわかります。
では、何故人は「この世」という場所に生まれてくるのか……ということですよね。キリスト教・聖書の中で語られる悪魔(サタン)と呼ばれる存在は、神さまが人間を創造されることに反対だったそうですが、実際、わたしも彼の気持ちがわかる(?)なと思うところがあります。人間のこれまでの歴史を最初から紐解いてみた場合、この存在を決して善良とは呼べない気がしますし、それもまたこの世にサタンという存在が働いているからだ……ということだけで、これまで人間の犯してきた罪業から逃れられるものではないという気がします。
ところで、この悪魔(サタン)というのは、別名を「この世の神」と言い、イエス・キリストのことをも次のように誘惑したことで有名です。
>>さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。
「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」
イエスは答えて言われた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂きに立たせて、言った。
「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから」
イエスは言われた。
「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。
「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」
イエスは言われた。
「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
(マタイの福音書、第4章1~11節)
「この世のすべての国々と栄華」っていうのが、すごいところですよね(^^;)
まあ、現代流の言い方をするとしたら、大体総資産が2兆円くらいあって、「道端に100万円落ちてたけど、今日一日で俺、それ以上稼いでるから、これはどこかの慈善団体にでも寄付しよう☆」というくらい祝福された人生を見せられてから、それとは別の御父のみこころの道、十字架刑へと続く厳しくつらい道をイエスさまは選ばれたということなのではないでしょうか
もちろんこれは、イエスさまであればこそ悪魔(サタン)の誘惑を退けることが出来たのであって、他の人間には絶対無理なことだという意味では、わたしたち信仰者はほっとできることですよね
何故かというと、わたしたちひとりひとりがこうした悪魔(サタン)に代表されるこの世の神と戦って勝利するのではなく、イエスさまが十字架の血潮の力によってすでに勝利されているその勝利の力に与ることが出来るからです。この世の終わりになると、しるしある者としるしなき者とに分かれることになると思うのですが、言ってみればイエスさまが十字架上で流された贖いの血によってそのしるしは描かれているといっていいのではないでしょうか。
>>この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ人への手紙、第12章2節)
>>世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
(ヨハネの手紙第一、第2章15~17節)
けれども、「この世」という場所に生きる以上、人には絶えず色々な誘惑があります。また、人と人がつきあう以上、何がしかの>>「肉の欲」、「目の欲」、「暮らし向きの自慢」に関することというのは出てくるのが普通ですし、そうした自身と他者との「比較」によって苦しんでいる方もたくさんいます。
>>すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。
(コリント人への手紙第一、第10章23~24節)
>>私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
(ローマ人への手紙、第7章24~25節)
わたし自身も、使徒パウロ同様、ただイエスさまのゆえに、神さまに感謝しています。
人間というのは、ただそのまま放っておくとすれば、その罪の蓄積によりいずれは滅ぶ以外にない存在ですが、十字架の血の贖いにより、その絡みつく罪と死の綱より神さまは解き放ってくださる道を用意しておられました。
>>「肉の欲」、「目の欲」、「暮らし向きの自慢」に頼り、他人の利益よりも自分の利益を常に心がける……神さまはもちろん、人間がそのような存在にすぎないと、よくわかっておいででした。ですから、むしろわたしたちは安心なのです。そして、ただイエスさまに頼って、自分がそのような惨めな存在にすぎないことを告白するなら、そんな罪すらも日々赦され、神さまの平安と感謝と讃美の内に、イエスさまにある幸福な道を進んでゆくことが出来るのですから……。
「この世」という場所で、この世ならぬ者として歩むというのはかなり難しいことでもありますが、常にイエスさまに祈り頼って聖霊さまの声に耳を傾けていくなら、「この世に属する者」として生きるよりも魂に深い喜びのある生涯をまっとうできるというのは本当のことだと思います。
それではまた~!!
>>わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
(ヨハネの福音書、第17章13~16節)
「あなたはこの世のものですか?」なんて、口に出して聞かれることはまずないでしょうけれども(^^;)、クリスチャンとして生きるということは<この世>という場所から分離して生きる、ということを意味しているのは事実だと思います。
この節の少し前、ヨハネの福音書の第16章には>>「あなたがたは、世にあっては艱難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(ヨハネの福音書、第16章33節)とあります。このことのうちに、大きなパラドックスを見る方はもしかしたら多いかもしれませんが、聖書を読むと「この世」とイエスさまが今いらっしゃる天国とは敵対関係にあることがわかります。
では、何故人は「この世」という場所に生まれてくるのか……ということですよね。キリスト教・聖書の中で語られる悪魔(サタン)と呼ばれる存在は、神さまが人間を創造されることに反対だったそうですが、実際、わたしも彼の気持ちがわかる(?)なと思うところがあります。人間のこれまでの歴史を最初から紐解いてみた場合、この存在を決して善良とは呼べない気がしますし、それもまたこの世にサタンという存在が働いているからだ……ということだけで、これまで人間の犯してきた罪業から逃れられるものではないという気がします。
ところで、この悪魔(サタン)というのは、別名を「この世の神」と言い、イエス・キリストのことをも次のように誘惑したことで有名です。
>>さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
すると、試みる者が近づいて来て言った。
「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」
イエスは答えて言われた。
「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」
すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂きに立たせて、言った。
「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから」
イエスは言われた。
「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある」
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。
「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう」
イエスは言われた。
「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
(マタイの福音書、第4章1~11節)
「この世のすべての国々と栄華」っていうのが、すごいところですよね(^^;)
まあ、現代流の言い方をするとしたら、大体総資産が2兆円くらいあって、「道端に100万円落ちてたけど、今日一日で俺、それ以上稼いでるから、これはどこかの慈善団体にでも寄付しよう☆」というくらい祝福された人生を見せられてから、それとは別の御父のみこころの道、十字架刑へと続く厳しくつらい道をイエスさまは選ばれたということなのではないでしょうか
もちろんこれは、イエスさまであればこそ悪魔(サタン)の誘惑を退けることが出来たのであって、他の人間には絶対無理なことだという意味では、わたしたち信仰者はほっとできることですよね
何故かというと、わたしたちひとりひとりがこうした悪魔(サタン)に代表されるこの世の神と戦って勝利するのではなく、イエスさまが十字架の血潮の力によってすでに勝利されているその勝利の力に与ることが出来るからです。この世の終わりになると、しるしある者としるしなき者とに分かれることになると思うのですが、言ってみればイエスさまが十字架上で流された贖いの血によってそのしるしは描かれているといっていいのではないでしょうか。
>>この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
(ローマ人への手紙、第12章2節)
>>世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
(ヨハネの手紙第一、第2章15~17節)
けれども、「この世」という場所に生きる以上、人には絶えず色々な誘惑があります。また、人と人がつきあう以上、何がしかの>>「肉の欲」、「目の欲」、「暮らし向きの自慢」に関することというのは出てくるのが普通ですし、そうした自身と他者との「比較」によって苦しんでいる方もたくさんいます。
>>すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。
だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。
(コリント人への手紙第一、第10章23~24節)
>>私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。
(ローマ人への手紙、第7章24~25節)
わたし自身も、使徒パウロ同様、ただイエスさまのゆえに、神さまに感謝しています。
人間というのは、ただそのまま放っておくとすれば、その罪の蓄積によりいずれは滅ぶ以外にない存在ですが、十字架の血の贖いにより、その絡みつく罪と死の綱より神さまは解き放ってくださる道を用意しておられました。
>>「肉の欲」、「目の欲」、「暮らし向きの自慢」に頼り、他人の利益よりも自分の利益を常に心がける……神さまはもちろん、人間がそのような存在にすぎないと、よくわかっておいででした。ですから、むしろわたしたちは安心なのです。そして、ただイエスさまに頼って、自分がそのような惨めな存在にすぎないことを告白するなら、そんな罪すらも日々赦され、神さまの平安と感謝と讃美の内に、イエスさまにある幸福な道を進んでゆくことが出来るのですから……。
「この世」という場所で、この世ならぬ者として歩むというのはかなり難しいことでもありますが、常にイエスさまに祈り頼って聖霊さまの声に耳を傾けていくなら、「この世に属する者」として生きるよりも魂に深い喜びのある生涯をまっとうできるというのは本当のことだと思います。
それではまた~!!
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