【神の子羊】フランシスコ・デ・スルバラン
>>あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
(ルカの福音書、第15章4~7節)
>>あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
(マタイの福音書、第18章12~14節)
前回、ここと同じ聖書箇所を引用した時……ふと思ったんですよね
>>見つけたら、大喜びでその羊をかついで、というところに主の愛を感じて、何かこう幸せな気持ちになったと言いますか(^^;)
いえ、イエスさまはいつでも、わたしたちの罪を背負ってくださる方であると、わかってはいます。けれど、あらためて自分が小さな羊になり、イエスさまが抱っこしてくださっているところを想像して――神さまはわたしたちひとりひとりにそうしてくださることを思って――主の深い愛をあらためて感じました。。。
>>まことに、彼は私たちの病いを負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を
彼に負わせた。
(イザヤ書、第53章4~6節)
キリスト教の原理としては、聖なる方である神さまの御前に立てるのは、罪のない者だけです。
けれども、この世に「オギャー☆」と生まれたその瞬間から――人間が罪を犯さずにいるというのは不可能なことであり、神さまはそのような塵あくたに過ぎない人間の命を、生まれては死にのサイクルを繰り返す存在として通り過ぎさせることもお出来になりました。
ところが、神さまの救いの御計画としては、神さまのひとり子である方、イエス・キリストが地上へやって来られ、十字架におかかりになることで……また、その復活の力に与ることにより、彼を信じる者すべての者の罪をまったくなくしてしまわれました。
もちろん、わたしはイエスさまのことを信じています。けれども、わたしの内から罪性がまったくなくなったり、金輪際死ぬまで罪を犯さない力を与えられたとか、これはそうしたお話ではありません。
むしろこれからも死ぬまでの間に、気をつけているつもりでも、一体いくつ罪を犯すのかすらわからない存在です。けれども、イエスの御名により悔い改めた罪については、まったく赦され、神さまはそのような罪に目を留めないとおっしゃってくださっているのです。
そしてこのように、イエスさまの十字架により罪を洗われ、清くなった者は神さまのおられれる天国へ入る資格までもが与えられるということなのです。
つまり、それがどこの誰の子でも、赤ん坊というのはただ赤ん坊であるというだけで可愛らしいものと思いますが、神さまの御前にはわたしたちはそのような存在である、ということなのです。
>>しかし、シオンは言った。
「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、
このわたしはあなたを忘れない。
見よ。わたしは手のひらに
あなたを刻んだ」
(イザヤ書、第49章14~16節)
>>ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
(ペテロの手紙第一、第2章1~5節)
>>イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」
(ルカによる福音書、第18章15~17節)
え?そんな話、とても信じられないですって!?(※海外の通販サイト調でお願いします・笑)
いえ、本当なのです。何故といって、あなたの元に仮に8つ子が誕生したとしましょう。すると、毎日気が狂いそうなほど大変ですよね。オムツを取り替えたりミルクをあげたり、あるいは理由はわからないものの泣いているのを一生懸命あやしたり……実のところ、人間はみんなこれを神さまに対してやってると思います。
しかもその赤子の顔つきというのがですね、なんとも憎らしくニヤニヤ☆しながら「親父、俺はもっと金が欲しいぜ」と言っていたり、「なんであんたはわたしよりも二番目の姉さんを可愛がるのよ」と言ってだだをこねたり……とにかく、そんなことをみんながみんなやってたら、8人の赤ん坊だけでも、普通はすっかり神経が参ってしまいますよね。。。
ただその後、赤ん坊が無事成長し、仮に彼らが「親父、あんたにはまったく失望したぜ。俺は自分ひとりの力でやってくことにするよ」と言って自分の元を離れても、あるいは娘のひとりが麻薬漬けの売春婦になったとしても(オホラとオホリバ☆)――そのような自業自得の罪に仮に溺れていたとしても、やはり「可愛い自分の我が子」として、御元へ戻ってきた時には前と同じように(あるいは前以上に)愛してくださるのです。
これが神さまの永遠不変の愛といっていいものだと思うのですが、人はこうした神の愛を容易には信じません。前回の記事とも関連しますが、それは確かに「あなたがそうと信じなければ」、「信じられなかったとすれば」、神の愛などあるのかないのかよくわからない、虚しいもののように感じられると思います
けれども、「『わたしはある』という者だ」(出エジプト記、第3章14節)と仰せられる方は、御自分の前に命の財宝を広げ、「持っていきたいならいくらでも、あなたの好きな分だけ持っていきなさい」と実は気前よくおっしゃってくださっているのです。
タラントのたとえの地中に銀貨を隠した者ではありませんが、たとえば「そんなのは罠だ」とか「そんなうまい話があるものか」などと疑い、あるいは、「たくさん持っていったらあとでそんな奴には罰を当てるんだろう」、「あとで多額の請求書を送りつけるたもりだな」……などと疑う人がもしかしたらあまりに多いのかもしれません。
また、放蕩息子のたとえではありませんが、「親父、俺はこれからはあんた(神)に頼らずやっていくから、そのかわりそれ相応の金をくれ。なんでって、俺はあんたの被造物で、俺を創ったあんたには俺の幸せに関して責任があるからだ」――ということで、神さまが仮にわたしやあなたが一生困らないくらいの財産を持たせてくださっても……結局それは不慮の事故や不幸な出来事によって失われるか、あるいは金などいくらあっても仕方ない、こんなはずじゃなかったのに……という出来事に見舞われて終わるに違いないのです(^^;)
けれども、生前分与のような形で財産をもらっただけでなく、あんな偉そうな口まで聞いて神(親)の元を出てきた以上、今更帰るわけにもいきません。そして、わたしたちがそんなさまよえる羊として、荒野にて生きるか死ぬか、明日食べるものもなく、飲み水にも事欠いているところへ……イエスさまはわたしたちの失われようとする命を惜しんで捜し、助けに来てくださる方だということなのです。
もちろん、そのように罪を犯すのに力を使い尽くして疲れ切ったわたしたちを助ける義務は、本来ならば神さまにはないのです。けれども、「それでもわたしはあなたを助けよう。何故なら、あなたはわたしの大切な息子であり、娘だから」とおっしゃってくださるということ――それが唯一無二の神の愛と思います。
人の愛と神の愛との違いというのは、実の親子であっても、暴力を振るったり放蕩していたり、いくら何を言っても働かなかったりしたとすれば……さらには借金を作って金の無心をしにきたり、しかもその金もパチンコや競馬などのギャンブルで消え、再び同じことを繰り返していたとすれば――流石にどんなに人間性の出来た親御さんでも、縁を切るでしょうし、場合によっては「死んでくれ」と思い、実際に殺してしまうことさえあるかもしれません。
けれども、イエスさまの御名と聖霊さまには、そのような「どうしようもない」人間の罪性すらも変える力があるのです。
>>彼のむさぼりの罪のために、
わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
しかし、彼はなおそむいて、
自分の思う道を行った。
わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。
わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、
慰めを報いよう。
(イザヤ書、第57章17~18節)
このような愛を持たれる方は、この世界で唯一真実なる神のみであると思います。
そして、荒野を孤独にさまよい、あとは死を待つばかりとなった頃……イエスさまは来られてわたしのこともあなたのこともその懐に抱きしめてくださることでしょう。他でもない神なる方がわたしたちを十字架とともに背負ってくださるのですから、あとはもうすべてをこの方の愛にお任せしていたらいいのです。
何故といって、もう罪を犯すことにも疲れきった子羊は、何をするという力もなく、ただ神さまの愛だけを感じ、涙を流すことくらいしか、他にすることはないのですから……。
そして、これが神の前にある悔い改めということであり、新約聖書のはじめに洗礼者ヨハネの言っている「悔い改めなさい。神の国が近づいたから」ということの意味でもあると思います。
それではまた~!!
>>あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。
(ルカの福音書、第15章4~7節)
>>あなたがたはどう思いますか。もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。
(マタイの福音書、第18章12~14節)
前回、ここと同じ聖書箇所を引用した時……ふと思ったんですよね
>>見つけたら、大喜びでその羊をかついで、というところに主の愛を感じて、何かこう幸せな気持ちになったと言いますか(^^;)
いえ、イエスさまはいつでも、わたしたちの罪を背負ってくださる方であると、わかってはいます。けれど、あらためて自分が小さな羊になり、イエスさまが抱っこしてくださっているところを想像して――神さまはわたしたちひとりひとりにそうしてくださることを思って――主の深い愛をあらためて感じました。。。
>>まことに、彼は私たちの病いを負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を
彼に負わせた。
(イザヤ書、第53章4~6節)
キリスト教の原理としては、聖なる方である神さまの御前に立てるのは、罪のない者だけです。
けれども、この世に「オギャー☆」と生まれたその瞬間から――人間が罪を犯さずにいるというのは不可能なことであり、神さまはそのような塵あくたに過ぎない人間の命を、生まれては死にのサイクルを繰り返す存在として通り過ぎさせることもお出来になりました。
ところが、神さまの救いの御計画としては、神さまのひとり子である方、イエス・キリストが地上へやって来られ、十字架におかかりになることで……また、その復活の力に与ることにより、彼を信じる者すべての者の罪をまったくなくしてしまわれました。
もちろん、わたしはイエスさまのことを信じています。けれども、わたしの内から罪性がまったくなくなったり、金輪際死ぬまで罪を犯さない力を与えられたとか、これはそうしたお話ではありません。
むしろこれからも死ぬまでの間に、気をつけているつもりでも、一体いくつ罪を犯すのかすらわからない存在です。けれども、イエスの御名により悔い改めた罪については、まったく赦され、神さまはそのような罪に目を留めないとおっしゃってくださっているのです。
そしてこのように、イエスさまの十字架により罪を洗われ、清くなった者は神さまのおられれる天国へ入る資格までもが与えられるということなのです。
つまり、それがどこの誰の子でも、赤ん坊というのはただ赤ん坊であるというだけで可愛らしいものと思いますが、神さまの御前にはわたしたちはそのような存在である、ということなのです。
>>しかし、シオンは言った。
「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」と。
「女が自分の乳飲み子を忘れようか。
自分の胎の子をあわれまないだろうか。
たとい、女たちが忘れても、
このわたしはあなたを忘れない。
見よ。わたしは手のひらに
あなたを刻んだ」
(イザヤ書、第49章14~16節)
>>ですから、あなたがたは、すべての悪意、すべてのごまかし、いろいろな偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
あなたがたはすでに、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのです。
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
(ペテロの手紙第一、第2章1~5節)
>>イエスにさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちがそれを見てしかった。
しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。
「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません」
(ルカによる福音書、第18章15~17節)
え?そんな話、とても信じられないですって!?(※海外の通販サイト調でお願いします・笑)
いえ、本当なのです。何故といって、あなたの元に仮に8つ子が誕生したとしましょう。すると、毎日気が狂いそうなほど大変ですよね。オムツを取り替えたりミルクをあげたり、あるいは理由はわからないものの泣いているのを一生懸命あやしたり……実のところ、人間はみんなこれを神さまに対してやってると思います。
しかもその赤子の顔つきというのがですね、なんとも憎らしくニヤニヤ☆しながら「親父、俺はもっと金が欲しいぜ」と言っていたり、「なんであんたはわたしよりも二番目の姉さんを可愛がるのよ」と言ってだだをこねたり……とにかく、そんなことをみんながみんなやってたら、8人の赤ん坊だけでも、普通はすっかり神経が参ってしまいますよね。。。
ただその後、赤ん坊が無事成長し、仮に彼らが「親父、あんたにはまったく失望したぜ。俺は自分ひとりの力でやってくことにするよ」と言って自分の元を離れても、あるいは娘のひとりが麻薬漬けの売春婦になったとしても(オホラとオホリバ☆)――そのような自業自得の罪に仮に溺れていたとしても、やはり「可愛い自分の我が子」として、御元へ戻ってきた時には前と同じように(あるいは前以上に)愛してくださるのです。
これが神さまの永遠不変の愛といっていいものだと思うのですが、人はこうした神の愛を容易には信じません。前回の記事とも関連しますが、それは確かに「あなたがそうと信じなければ」、「信じられなかったとすれば」、神の愛などあるのかないのかよくわからない、虚しいもののように感じられると思います
けれども、「『わたしはある』という者だ」(出エジプト記、第3章14節)と仰せられる方は、御自分の前に命の財宝を広げ、「持っていきたいならいくらでも、あなたの好きな分だけ持っていきなさい」と実は気前よくおっしゃってくださっているのです。
タラントのたとえの地中に銀貨を隠した者ではありませんが、たとえば「そんなのは罠だ」とか「そんなうまい話があるものか」などと疑い、あるいは、「たくさん持っていったらあとでそんな奴には罰を当てるんだろう」、「あとで多額の請求書を送りつけるたもりだな」……などと疑う人がもしかしたらあまりに多いのかもしれません。
また、放蕩息子のたとえではありませんが、「親父、俺はこれからはあんた(神)に頼らずやっていくから、そのかわりそれ相応の金をくれ。なんでって、俺はあんたの被造物で、俺を創ったあんたには俺の幸せに関して責任があるからだ」――ということで、神さまが仮にわたしやあなたが一生困らないくらいの財産を持たせてくださっても……結局それは不慮の事故や不幸な出来事によって失われるか、あるいは金などいくらあっても仕方ない、こんなはずじゃなかったのに……という出来事に見舞われて終わるに違いないのです(^^;)
けれども、生前分与のような形で財産をもらっただけでなく、あんな偉そうな口まで聞いて神(親)の元を出てきた以上、今更帰るわけにもいきません。そして、わたしたちがそんなさまよえる羊として、荒野にて生きるか死ぬか、明日食べるものもなく、飲み水にも事欠いているところへ……イエスさまはわたしたちの失われようとする命を惜しんで捜し、助けに来てくださる方だということなのです。
もちろん、そのように罪を犯すのに力を使い尽くして疲れ切ったわたしたちを助ける義務は、本来ならば神さまにはないのです。けれども、「それでもわたしはあなたを助けよう。何故なら、あなたはわたしの大切な息子であり、娘だから」とおっしゃってくださるということ――それが唯一無二の神の愛と思います。
人の愛と神の愛との違いというのは、実の親子であっても、暴力を振るったり放蕩していたり、いくら何を言っても働かなかったりしたとすれば……さらには借金を作って金の無心をしにきたり、しかもその金もパチンコや競馬などのギャンブルで消え、再び同じことを繰り返していたとすれば――流石にどんなに人間性の出来た親御さんでも、縁を切るでしょうし、場合によっては「死んでくれ」と思い、実際に殺してしまうことさえあるかもしれません。
けれども、イエスさまの御名と聖霊さまには、そのような「どうしようもない」人間の罪性すらも変える力があるのです。
>>彼のむさぼりの罪のために、
わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。
しかし、彼はなおそむいて、
自分の思う道を行った。
わたしは彼の道を見たが、彼をいやそう。
わたしは彼を導き、彼と、その悲しむ者たちとに、
慰めを報いよう。
(イザヤ書、第57章17~18節)
このような愛を持たれる方は、この世界で唯一真実なる神のみであると思います。
そして、荒野を孤独にさまよい、あとは死を待つばかりとなった頃……イエスさまは来られてわたしのこともあなたのこともその懐に抱きしめてくださることでしょう。他でもない神なる方がわたしたちを十字架とともに背負ってくださるのですから、あとはもうすべてをこの方の愛にお任せしていたらいいのです。
何故といって、もう罪を犯すことにも疲れきった子羊は、何をするという力もなく、ただ神さまの愛だけを感じ、涙を流すことくらいしか、他にすることはないのですから……。
そして、これが神の前にある悔い改めということであり、新約聖書のはじめに洗礼者ヨハネの言っている「悔い改めなさい。神の国が近づいたから」ということの意味でもあると思います。
それではまた~!!
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