神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

世界は神について知りたくない。

2016年04月23日 | キリスト教





 実をいうと、わたしがこのブログの中で書きたい、ひとりでも多くの方に伝えたいと思っているメッセージは、このマーリン・キャロザースさんの言葉の中にすべて詰まっています(^^;)


 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

(ローマ人への手紙、第8章28節)

 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。 
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

(テサロ二ケ人への手紙第一、第16~18節)

 神さまにあって喜ぶこと、そうすることが可能になるために、ひとりでも多くの方、すべての人に神さまの福音の言葉を伝えていくということ……わたしがノンクリスチャンで、人生の状況が暗く、無神論的になっていた頃にも、無神論であるはずなのに、神さまのことは結構考えていて(笑)、その時に思っていたことのひとつに、次のようなことがあります。

 もし神さまがこの全宇宙を創造し、地球上のすべての被造物を創られたのだとしたら、神さまがもし本当にただひとり、唯一の神であるというのならば、地球上のすべての人間がそうと知っていないのはおかしいのではないか……ということです。

 わかりにくいと思いますが(笑)、つまり、わたしは日本というアジアの文化圏に生まれて、自分の家族やまわりにいる人々の大抵がいわゆる葬式仏教徒であることを知っています。また、日本には歴史上の人物の誰かしらを祀った神社といったものがあって、それは仏教的な思想を背景にしてはいるけれども、神そのもの、真実ただひとりの神を礼拝するような気持ちで元旦にお賽銭を投げたりしているわけではない……何かそういった種類の<神>であるわけですよね。また、思想的にその奥深いところを理解しているわけではないにも関らず、その頃はわたし、キリスト教・イスラム教・ヒンズー教、その他の宗教の言う<神>というのもまた、本当の神ではないと思っていました。

 もしそれらの<神>が本当に神だというのなら、そのただおひとりの神を地球上のすべての人が拝んでいてしかるべきではないか……と、そう思っていたのです。おわかりになりますでしょうか(笑)かなり傲慢な物言いですが、「もしわたし自身が神であったとすれば」、必ずそうするとさえその時ちらっと考えたのでした。だってそうですよね。もし自分が神さまというか、神さま的な存在で、よく一般的に言われるように「創造主である神は人間を愛している」というのであれば、すべての人に自分を求めさせて、「いつもあなたの祈りを聞いているよ」だのと、励ましてくださってよさそうなものですし、それでももし、人が他の自分たちが作りだした模造品のような神を礼拝して、「わたしたちは自分で作りだした<神>に満足している」とでも言うのなら、そうした人々だけ死後に地獄にでもどこにでも行けばいいのではないでしょうか

 けれど、神さまのなさり方というのは、もっと不思議であり、のちに人間が「ああ、私は知っていた」(イザヤ書、第48章7節)と言ったりすることさえ出来ないほどの、深いお考えに基づくものでした。


 >>神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになられました。
 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
 確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

(使徒の働き、第17章26~28節)

 主は仰せられた。
「外に出て、山の上で主の前に立て」
 すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。
 しかし、風の中に主はおられなかった。
 風のあとに地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。
 地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。
 火のあとに、かすかな細い声があった。
 エリヤはこれを聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入口に立った。
 すると、声が聞こえてこう言った。
「エリヤよ。ここで何をしているのか」

(列王記第一、第17章11~13節)


 神さまは、「さあ、わたしだけがこの宇宙と地球のすべてを創った神だから、わたしだけを拝みなさい」というのではなく――地球上、歴史上にあくまで<細い声>のような存在として御自身を現されることをお望みになりました。そして、真実まことの神を求める人々に御自身のことを知らせる……といったような道を、本当に不思議ななさり方で整えることを望まれたのだと思います。

 もちろん、そのような道が真実存在しているということを知らせる人々が存在しなくては、神さまの教えや考えを広めることは出来ませんから、一度イエス・キリストこそが神であることを信じ受け容れた信徒たちには、自分たちが受けたのと同じ<福音>を他の人々に宣べ伝えるという仕事が託されています。


「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

(ローマ人への手紙、第13~14、17節)


 あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

(マタイの福音書、第10章8節)


 けれど、<この世>、この世界という場所は、イエス・キリストを十字架刑に処したように、神さまのことについては知りたくないと言っています。もちろん、これは凄く矛盾したことに感じられます。何故といって神さまは全知全能の方であられるのですから、地球上の人々の残りひとりに至るまで、自分を拝むようにさせるというのは、実に簡単なことだからです(=神さまはそのような形での人間の礼拝をお望みになられなかったということなのだと思います)。

 そしてここで冒頭のマーリン・キャロザース先生のメッセージのことに戻りたいと思います。

 マーリンさんはお祈りの中で、「私たちがこんなにも頑固な生き物になると分かっていたのに、何故作られたのですか」と聴かれたのですね。人類の始祖であるアダムとエバも「それはしたくない」と言い、その子孫たちも「それはしたくない」と言い、またそれから長い時の流れた2006年(マーリンさんがこのメッセージをされた時)の我々人類もまた「それはしたくない」と神さまに対して反抗しているようなものだ、と。

 では逆に、わたしたち人間はどんな時に神さまを求め、どんな神さまなら許容し、愛し奉ることが出来るのでしょうか。

 メッセージの中でマーリンさんはおっしゃっています。

「私はあなたのすべての罪を赦しました」、「おぉ」(マーリンさんの声)、「私はあなたに永遠の命の贈り物を与えました」、「おぉ」……「あなたは私に何をしてもらいたいのですか」、「私の問題を解決してください」、「今私を助けてください」――あくまで理性的に考えた場合、イエスさまを信じたことで、すべての罪が許されているということや、イエスさまのことを信じていることだけで天国へ行けるのですから、人間の側では神さまにこれ以上何か求める必要があるのかどうかとさえ思えてしまいます。

 けれど、わたしたちが唯一神さまのをことを求めたり、必死に縋りつくようにして祈ったりするのは、「自分の(個人的な)問題を解決して欲しい時」、あるいはその人生上の悩みや問題を解決することの出来る神が、唯一自分の<神>として認めてもいいということなのではないでしょうか。

 また、マーリンさんは最後のほうで、「この世界は神さまのことを知りたがっていないから、そこにわたしたちは踏みこんでいってイエスさまのこと、この方の恵みの福音を伝えていかなくてはならない」……といった旨のことをおっしゃっているわけですが、「わたしたちはその神については知りたくないのだよ」という人々にこのことを伝えていくというのは、本当に重要な使命であると同時にとても大変なことでもあると思います(^^;)

 そして、このような大変(かつ光栄な)使命を果たすためには、<喜び>が必要だと、神さまが与えてくださる無償の恵みの喜びを無限に受けることによって、わたしたちはこのことを果たしていくことが出来るのだとおっしゃっておられます。

「すべてを神さまに感謝し、神さまを賛美した時に」得られる喜び、自分の人生上の問題を含めたいいことも悪いこともすべて神さまの御手に委ねて感謝し賛美する時、神さまからの大いなる喜びが聖霊さまを通して与えられてゆきます。またこうした形での神さまから与えられる<喜び>がなければ、どんなに素晴らしい信仰を持っている人でも、時に人生に行き詰まり、仮にイエスさまを信じているクリスチャンの方であっても、自殺されてしまうことさえあるでしょう。

 この記事について書いている時、わたしの中にも聖霊さまを通した強く深い喜び、それにイエスさまにある平安とがありました。何故なのかはわかりません。ただとにかく、何か神さまに関することで、御心の何かを行っていると、まわり中を困難で取り囲まれていようとも、そうした自分でもうまく説明できない喜びに内側の霊から満たされてきて、とにかく嬉しくなってくるのです。

 キリスト教というのは、なかなか理屈によってすぐ納得できる宗教ではないと思いますが、聖霊さまがともにいてくださることで、何か問題があって肉体の脳や精神の心といったものが塞いでいても、内なる霊を通しての喜びによって、神さまのことを常に喜ぶということが出来るようになってきます。これは他のイスラム教や仏教などにはないよく知られていないキリスト教の奥義であり、またイエス・キリストを御自身の救い主であることを信じ、聖霊のバプテスマを受けた時、あるいは聖霊のバプテスマを受けて以降起きてくる現象です。

 もし、マーリン・キャロザース師のメッセージの映像に心を動かされる方がおられましたら、マーリンさんがおっしゃっておられることを実践している教会へ繋がる、あるいはまずマーリンさんの書籍などをお読みになられることをお薦めします♪(入門書としてお薦めなのはやはり、『獄中からの賛美』『讃美の力』などです

 それではまた~!!





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