神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

狭間に落ち込むという苦しみ。

2016年04月19日 | キリスト教
【葡萄の収穫(人間の悲哀)】ポール・ゴーギャン


 ふたつ下の記事の『迷信』、それとひとつ下の記事の『鬱病と癒し』とも少し関連があるのですが、それで、イエスさまを信じてキリスト教徒、クリスチャンになってわたしの心身症が治ったかというと、実は治らなかったのです(^^;)

 神さまは癒しの祈りを通して、ある病いについては即座に、またある病いについては段階を経て癒してくださり、他にそのまま癒されないままでいる……ということも、実はあるんですよね(=病いが癒されないことを通して、神さまの栄光を表す道がある、ということなのですが)。

「神が全知全能であるとすれば、どんな病いも必ず癒される、治るはずじゃないか!!」とお考えになる方もいらっしゃるのですが、聖書にはこうあります。


 >>また、その啓示があまりにもすばらしいからです。
 そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。
 それはわたしが高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

(コリント人への手紙第二、第12章7~10節)


 実をいうとわたし、初めて聖書のこの箇所を読んだ時、鉛筆で傍線を引きました(^^;)

 もちろん、今も治ったほうが良い……との気持ちはとても強くあります。けれど、それと同時に自分はこれで良かったなと思う部分もあり、何よりそうした問題があったからこそ自分は神さまを求めてイエスさまに出会うことも出来た、そのことをこそむしろ喜ぶべきではないかと、そんなふうに少しずつ考え方が変わっていったかもしれません。

 つまり、わたしは他の方の病気についてはかなり真剣に相当熱心に祈るほうだと思います。けれど、自分が日常的に何か苦しめられるものを持っていなかったとすれば、「人の体の中で起きていることは結局のところ他人事」……とまで思うことはなかったでしょうが、やっぱりここのところは数ミリの差が致命的な違いでもあるように感じるというか(^^;)

 また、誤解があってはいけませんのでつけ足しておくと、病いの癒しに関しては、病院のお医者さんや手術を通して癒される場合と、癒しの祈りによってだけ癒される場合、またこのふたつの混合型(?)とがあるかと思います。つまり、「教会の○○さんが今入院中で来週の水曜日に手術されるので祈りましょう!!」といったことはよくあることですし、また癒しの祈り会などで祈っていただいた次の週に病院にかかったところ、許されていた病いが良くなっていたことがレントゲンなどで確認された……といったことがあったりと、癒しのパターンはいくつか存在すると思います。

 ところで、今回のタイトルは「狭間に落ち込むという苦しみ」なのですが、心身症というのは、内科にかかったほうがいいものなのか、それとも精神科、心療内科のようなところにかかったほうがいいのか……体や心に出ている症状などによって、違いがあるかもしれませんが、わたしの場合まず内科にかかることにしました。

 もしわたしが今完全にその病いを克服し、神さまに癒された身であったとすれば、癒しの信仰告白として色々書いていたかもしれないのですが、個人的に病気の症状等についてはあまり書きたくないので、そのあたりは伏せさせていただくということで、よろしくお願いしますm(_ _)m

 まあ、内科のほうでもお薬を出していただいたのですが、思っていたとおり、気休めにもならなかったので、次に精神科にかかることにしました。そしてこの時にかかった先生がとてもいいお医者さんだったため、こちらに通わなくなって以後も、カウンセリングに関することや心理学に関することに興味を持ち、自分でも本などを通して随分色々と学んでいくということになりました。

 そしてこのあと、キリスト教によってイエスさまのことを知って救われたのですが、この時点でわたし、自分の心身症についてはかなりのところ諦めてもいたんですね。でも、他の方の色々な病いの癒しのことは聞いていましたので、自分ももし癒されることが出来たらどんなにいいだろう……と思い、そのことについてはかなり長きに渡って祈っていたという経緯があったり(^^;)

 でも、癒されなかったのに、あなたは今も神を、イエス・キリストを信じているのか――そう思う方もあるかもしれませんが、もし仮にわたしが100%健康体であってイエスさまのことをまるで知らないよりも、今と同じように病いが許されていてイエスさまのことを知っていたほうが、実際は1000兆倍もいいことなのです。

 ですから、まあ自分のことはさておくとしても、他の方のことについてはそれがどれほど切実な思いかがわかるので、その病気の癒しについては本当にとても熱心に祈ることが出来ます。

 そして結局のところ、人生でもっとも大切なのは、こうした思いに至るということであって、病いが癒されるばかりか最善ではないということも時にありうる……ということなのかもしれません。目の見えない方の施設に行った時、わたしに本当に祈る力と信仰心があれば、この子たちの目がイエスさまの癒しの力によって聖書にあるとおり癒されるだろうか……とか、首から下が動かせない女性のお風呂介助の仕事に行った時も、この方の手足が動くように癒しの祈りをし続けよう……と思い、その祈りは今も続いているのですが、ただし、祈る時に思うのはとにかく、その方にとって最善の形での癒しが表されるようにということかもしれません。

 何故といって、障害者の方の中には、こうした病いや障害などが許されたからこそ、この人はこんなにも清らかで特別な感じを持っているのだろうか……と感じることがあり、場合によっては果たして癒されるほうが本当にこの方にとっての最善なのだろうか……と感じることも、時によってはあるからです(もちろん逆に、この方は障害があったからこそこんなにひねくれてしまったのだろうかということもありました^^;)。

「狭間に落ち込む苦しみ」というのは、わたしの場合、基本的に働くことがとても難しいということでした。わたし自身にいかに勤労意欲があり、真面目にコツコツやっていくのが好きであったにしても、心身症的な症状があるとほとんど不可能に近くなるため、それでなかなかひとつの場所で長く働くことが出来ないという苦しみがありました。

 それで、というか、しかも、というか、わたしの場合まわりの人に仮にこのことを話したとしても、いまいちよくわからないと思うんですよね。「え?なんでそれで働けないということになるの?」という感じで。一応見た目は健康そうに見えるし、まあちょっと病弱そうに見えるけど、それでも意欲さえあれば働いて働けないということはないだろう……という、親にしてもそうした判断だったと思います。

 結局のところ、この心身症に伴う精神的な欝が原因で死ぬことを考えるようになっていったのですが、それでも死ぬことを考える根幹にあったのはなんといっても「働けないような人間は死ぬしかない」という、そうした思考法だったと思います。

 その後、介護の仕事に関った時に、そうした考え方も変えられてゆきましたが、今、日本で自殺する人が年間三万人ということだったでしょうか。わたしが思うに、こうしたわたしのような「狭間に落ち込む苦しみ」によって自殺を考える方というのは、おそらくとても多いのではないかという気がします。

 もちろん悩みの状態というか、その種類や形態は別であったにしても、現代社会に特有の「狭間に落ち込む苦しみ」というのがあって、これは神経症や欝病、心身症などを経験された方には特に詳しく説明しなくてもよく理解されることかもしれません。

 ちょっとここで話が少し逸れますが……『神経症の時代』という本があって、この本を読むと<神経症>という病気のことが大分わかるというか、「こうした苦しみがあるのか」とかなりのところ理解できる本だと思います。息子さんや娘さんなどがこうした『神経症』を実は患っていて、働かずに家にいて困っているとか、ずっと引きこもりっぱなしだったりするような場合……そうした病気を理解するのにかなり役立つ気がします。なんていうか、『神経症がよくわかる本』的なものを逆に読んでしまうと、「ただの本人の甘えでは?」といったように自分の子供を理解しようとして読んだ本がむしろ仇になるということもあると思うので(^^;)

 ちなみに、引きこもりの方などがよく診断される「社会不安障害」も、大枠ではこの神経症のひとつということのようです。『神経症』などと聞くと、「神経質な人がなる病気??」と思われる方も多いかもしれませんが、むしろ「わたしも神経症かも……」といったような、欝病と同じく誰もがなるかもしれない――という、かなり身近な病気であるような気がするんですよね。

 わたしの場合、一番症状が重いというか、心に苦しみが一番重くのしかかっていた時には、心身症+鬱病+神経症=自殺みたいな感じになっていて、ガリガリに痩せ細っていたものでした。でも一度自殺未遂のようなことをして病院に運ばれ、その時に「人間はそう簡単に死ねないなあ」と思ってからは、立ち直りがすごく速かったと思います(^^;)

 死ねない以上は生きるしかないし、人間生きている以上は働かねばならない……という感じで、その一月後くらいには本屋さんでパートで働いていました

 そしてその後某病院の看護助手をしていた時にキリスト教と出会った……という感じなのですが、それから△年が過ぎた今も、実際なかなか大変です。ただ、わたしが自分に関することで何か感謝しているとすれば、イエスさまと出会えたことの他に、人の気持ちがよくわかるようになったということかもしれません。

 おそらく、自分がこうした病気にならなかったとすれば、「引きこもり?親に迷惑かけて、人間のクズじゃないの?」とか、ホームレスの人を街のどこかで見かけても、「何故あいつらは働かないのだろう。自業自得だ」としか思わなかった可能性というのも、あったかもしれないのですから(^^;)

 わたしも働かないで家にいたりすることで、親との関係は悪くなりましたし、そうしたところから生じる軋轢などがどういったものかということは、本当によくわかるのです。

 つまり、なんとも名状しがたい「狭間に落ち込むという苦しみ」によって本人にいかに意欲があろうとも働けないということもあるし、またそこに人間関係などが複雑に絡んでホームレスになったりすることも、今の日本では「明日は我が身」と言っていいくらい、本当に切実な問題だと思っています(^^;)

 けれど、病いが癒される・癒されないは別として、イエスさまに頼った時に罪が許されて魂が救われるというのは本当のことですし、どんな人生上の問題もイエスさまの元に持っていった時になんらかの改善や回復を見るというのも本当のことですから、この聖書の福音がひとりでも多くの方に届くようにと、日々神さまにお祈りしています

 それではまた~!!





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1 コメント

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Unknown (障害者)
2019-10-14 09:08:56
障害があったからそんなにひねくれた
そんな言い方は許さない
あなたを軽蔑する
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