神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

人生に希望が必要なのは、人間だけ。

2022年01月29日 | キリスト教
【受胎告知】フラ・アンジェリコ


「人生に希望が必要なのは、人間だけ」なのだそうです(^^;)

 たとえば、他の動物たちっていうのは(もちろん人間だって動物ですけど・笑)、「一週間後に食糧が尽きそうだ。どうしよう」とか、あるいは「二週間後には所持金が果てしなくゼロに近くなる。どうしよう」といったことでは悩まないそうです。

「そりゃあいつらは貨幣ってものを持ってないからね」という話ではあるでしょうけれども、かつてその昔、わたしたちの遠い遠~いご先祖さまたちも、そうしたことでは悩まなかったと言います。

 もちろん、「えっ!?そんな馬鹿な」と思われる方もいらっしゃると思います。つまり、我が人類が「過去のことを振り返り、そこから学んで未来へ投影して計画を立てる」能力を手に入れたのは、おそらく1万二千年前とかそのくらいのことで、それ以前というのはそうした「計画・立案能力」がないため、「農耕に関する計画を立てて収穫する」といったこともなかったと言います。

 ゆえに、人間たちというのは実は、そのように脳が進化したからこそ、「過去のことを振り返ってくよくよ悩み、未来に起きる不吉なことを予想してはくよくよ悩むようになった」ということなのだと思います。そして、そこから「我々人間はいつか死ぬ。この死を免れられる者はいない」ということを理解するようになったわけですよね。

 また、そうした死を恐れる気持ちから、人間の脳は無数の神々を生みだし、死後も生命があるということを迷信深く信じ込もうとしてきた――ということらしいのですが、もちろん、クリスチャンの方であれば誰でも知っています。死後もわたしたちの魂は永遠に生き続けるということを……。

 この「永遠に生きる」ということについて、実はわたし、そんなに深く考えたことなかったような気がします(^^;)でも割と最近、科学系の本などを読んでいて……人間が肉体を持っている間は時間と空間にある程度制限されざるをえないというのでしょうか。その部分の束縛さえなく、魂、霊だけの姿となるというのは――時間と空間の束縛に規定されない、その外側へ行くということなのではないかと思いました。

 ええと、わたし基本的に聖書の教えから外れることはないので、そこに科学的見地から見て何か付け加えようという発想自体、ありません。ただとにかく、「永遠」ということが、自分的に理解できないというか、死んで霊の体、霊魂だけの姿にでもならない限り、本当の意味で理解することはないだろうとずっと思っていて。

 ただ、科学的な事実を列挙された場合、ビッグバンが起きたのが約138億年前なのだとしたら、「神さまは今138億歳ってこと?」みたいな、人間的疑問が湧いてくるのは自然なことだと思うんですよね。でもわたし、「神さまというのはそもそも宇宙の時間や空間の外側におられるわけだから、そうした制約を一切受けることのない永遠の存在」と思うわけです。

 手塚治虫先生の超傑作有名漫画に『火の鳥』という作品があって、この漫画の『未来編』に衝撃を受けた方はとても多いと思います。簡単に説明すると、地球の文明が滅んだあとで、主人公は『火の鳥』から永遠の生命を与えられ、その後の地球の行く末を見守り続けることになるわけですが……おそらく読んでいて誰もが思うのは「自分が主人公の立場だったら、そんなふうに孤独なまま、ひとりだけ永遠に生きていくだなんて、気が狂ってしまうだろう」ということだと思います。でもこれは、今のわたしたちの肉体を持ったまま「永遠に生きる」としたらと想像した場合の仮定であって、肉体を持つことの制約を受けない、そのような規定を受けない霊魂だけの存在になったとしたら、「永遠に生きる」ことも、「地球をもう一度一から造って人類が誕生するまで約46億年見守り続ける」ことも、実は「発狂するほど大変なこと」ではなく、神さまの祝福に満ちた素晴らしい創造の体験ということになると思うんですよね。

「だーら、何故そこで急にそうなるのだ……」と思われるかもしれませんが、簡単に一言でいえば、「永遠というのが、時間と空間の外側にいるということであれば、当然そうなるであろう」といったことです(^^;)

 この言い方でいくともちろん、わたしたちは時間と空間の内側にいるということだと思うのですが、ある種の「悟りを得る」というのは、この内と外を同時に我が物とした超越者となること、と言えるかもしれません。仏教的な言葉でいえば「解脱」ということに近いのかもしれませんが、こういった種類の「超越体験」というのは、生きて肉体を持っている以上、そう長続きはしない種類のものです。


 >>無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。

 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです――

 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

 このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。

 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。

(コリント人への手紙第二、第12章1~6節)


 ルカの福音書にも、イエスさまが十字架にかけられた時「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と苦しの極みの中でおっしゃっている箇所があります。両手・両足を釘で貫かれ、ローマ兵たちにつばきされ、「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ」と嘲弄されるという恥辱の極みが、一体何故「パラダイスにいる」ことになるのでしょうか。

 そもそも、パラダイス(楽園)の語源というのは、わたしの持っている聖書の脚注によるとペルシャ語で「囲いのある庭園」という意味だそうです。それで、今回のトップ画はフラ・アンジェリコの<受胎告知>なのですが、絵の背景の庭には囲いが描かれていて、これはマリアさまの慎ましさや謙虚さを表したものだと、昔美術関係の本に書いてあった記憶があります。

 イエスさまは、言ってみれば父なる神の御計画を成就するために、この囲いの外へあえて出てこられ、そこで聖書に書かれたことがすべて成就するよう御父の計画を遂行されました。けれど、イエスさまは御自身が最初からおられた囲いの庭の内側についてご存知であり、十字架上で最後の任務を耐え忍ばれていたこの時……自分と一緒に十字架にかかっていた男のひとりをも救いえたことを喜んでいたということです。

 わたしや他のどの人たちも、「自分がどこからやって来たか」について、知っている人はありません(また、霊能者と呼ばれる方などに「わたしは知っている……」的におっしゃる方もいますが、やはり証明までは出来ません)。けれど、イエスさまは御自身が御父の元からやって来たことをご存知でいらっしゃいました。そしてそこに最後、ひとりの罪人の男をも招くことが出来たことを――神さまの御子として喜んでいらっしゃったのです!


 >>十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。

 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。

「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」

 そして言った。

「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」

 イエスは、彼に言われたた。

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」

(ルカの福音書、第23章39~43節)


 今、わたしや他の肉体を持っている人々というのは、時間や空間その他の束縛を受ける非常に窮屈な世界にいます。けれど、いつか必ずこれが逆になります。それは、もし死んだら「時間と空間の外側へ行くのだろう」と思っていたこの「外」が、わたしたちにとっては「内」ということになるからです。

 簡単にいえば、それは魂のパラダイムシフトのようなものだと思います。聖書にある、イエスさまが「信仰さえあれば、山に向かって海に入れと言えばそのとおりになる」とおっしゃっている箇所を読み、「いや、いくら物凄い信仰の持ち主でも、そりゃ無理だべ。イエスさま」というのが、わたしのような平凡な信者の思うことだと思います。今の、わたしたちの現実の世界では、基本的に山も海も人間の念力的なものによっては決して動きません。その形の変わるのは、あくまで地球自身の持つ自然の力によってです。そこで、わたしたちはイエスさまがおっしゃってることが本当の意味では理解できないながら(聖書のこの箇所は色々な解釈があります)、まずはせめても山の近くなり、海の近くまで――「神さまがそうおっしゃったから」という理由によって、「せめても自分が出来ること」として、そんなふうに行なうことを決意し、行動へ移します。

 イエスさまはきっとそういう意味でおっしゃったのだ……ということを言いたいわけではなく、「イエスさまのおっしゃっている本当の意味がわからないながら」、「せめても山や海の近くまで行ってみよう」と思い、わたしたちが吟味して決意・行動を起こす時(これが御声に聞き従うということです)、あとのことは神さまが行なってくださいます。実際には、山が海に移動して沈む時、その近くにいるのは非常に危険なことですが、わたしたちがからし種の信仰を使うなら、イエスさまが残りのことをすべてなしてくださり、御自身のおっしゃったことを必ず成就してくださいます。

 わたしが生きていて肉体という囲いの中にいる間、パウロが経験したような素晴らしいパラダイスをもし仮に体験したとしても、肉体の時間としてはおそらくほんの短い間だけだと思います。けれど、そうした超越した世界があることを垣間見ることが出来た時……ある意味「わかる」わけですよね。自分は死んだら、あのパラダイスのような世界に永遠にいることになるということが……。

 わたし、共観福音書にあるイエスさまの十字架の箇所については矛盾があると指摘する方がいることも当然承知していますし、科学的な見地から見た「イエスの死因は何か」といったように推測している文章についても本で読みました。でも、わたしの信仰のほうは一向揺るぎませんし、そもそも信仰を通して読む分においては一向なんの矛盾すら感じません(笑)。

 ただ、今はわたしが「絶対にこれこそは現実だ」と思っているものが、死んだらその認識自体が変わるわけですから……その時、きっとわたしたちにもわかるのだと思います。「ああ、イエスさまがパラダイスとおっしゃったことの意味が今こそわかった!!!!!!!」というように……。

 それではまた~!!






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