>>神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
(ローマ人への手紙、第8章28節)
「あるがままを感謝する」……まあ、ありふれた言葉ですよね(^^;)
この言葉は、マーリン・キャロザース先生の「(すべてのことを)神さまに感謝し賛美する」ということを知って以降、いつも心のどこかにあったような気がします。
それで、前に神経症のことについて少し書いたことがあった気がするんですけど……一口に神経症といっても、症状が色々あるわけですが、自分の手を不潔だと感じて、繰り返し手を洗ってしまう不潔恐怖(清潔恐怖)、あるいはガスの元栓を締めたかどうかが気になって異常なほど確認してしまったり、あるいは鍵をかけ忘れたのではないかとしつこく確認してしまうといった症状の確認恐怖症、その他対人恐怖、視線恐怖、表情恐怖症など――大体神経症と言いますか、神経症の権威として有名な森田正馬先生の療法について書かれた本には、この「あるがまま」ということが書いてあると思います。
つまり、「手を洗って綺麗にしたいという誘惑」や「ガスの元栓やドアの鍵をかけたかどうかが気になって確認したくてたまらない誘惑」に駆られても、どんなにどんなにそうしたくても、そうすることでラクになりたくても……とにかく、その感情の「あるがまま」を受け止めて、じっと我慢する。そうやって、最終的にやっぱり手を洗ったり、ガスの元栓を確認しに家まで戻ったとしても――前まではそうした気持ちがやって来たらすぐそうしてしまったけど、一日のトータルでは、手を洗う回数を減らせたとか、家にいる人に電話して聞くことで、一時間半もかけて職場から戻らずに済んだ……など、そうやって気になる回数を減らしていくという、そうしたことだと思うんですよね。
わたしは専門家ではありませんので、そこらへんまったく詳しくないのですが、それでも今は不安感を解消するための抗不安剤、あるいはSSRIといった抗うつ薬など、薬と認知行動療法の組み合わせによっての治療とか、たぶんそうした方向性なのでしょうか。
神経症って多くの場合、「なんらかの漠然とした不安」が原因に根ざしてるというか、その小さな不安、他の人であれば少しくらい不安であっても乗り越えられそうに思えるものが、本人にとっては異常なほど肥大化した不安として捉えられており、視線恐怖症や表情恐怖症などは、人と目が合うだけで相手に不快感を与えていないか異常なほど気になったり、自分の顔の表情が相手に不快感を与えていないか異常なほど不安だったり……ということだと思いますが、そうしたことは誰でも「少しくらいは心当たりがある」という意味で、神経症の方の症状を読み、こんなことで困っている……といった文章を読むと、大抵の方が「わかる、その気持ち」みたいになる場合がほとんどと思います。
あ、このことはなんか前にも書いた気がするんですけど(汗)、わたし、確か去年だけでラジオで5~6回、確認恐怖の方の投稿が読まれるのを聞いて、御本人が「確認恐怖症」と自覚してなかったとしても、ガスの元栓や家の鍵を閉めたかどうか何度も繰り返し確認してしまう……といったことを何気なくサラリと書いて送る方がいるんだなあと思ったわけです。
たとえば、ガスの元栓締めて、家の鍵を閉め、歩いて十五分のバス停でバスを待つ間、そのことが気になって気になって、結局家に戻って確認してしまう。いえ、ここでスゴイ(?)のは、道の向こうにバスが今もうやって来るという場合でも、勝つのは確認恐怖症のほうで、家へ戻ってしまう、あるいは電車で一時間半かけて職場へ出勤したのに、我慢しても我慢しても気になって気になって仕事中だというのに家へ帰らずにはいられなかったり……そして、家に戻って、「ああ、なんだ。ちゃんとドアも閉まってたし、ガスの元栓も締まってたわ」となっても、再び家から一歩外へ出るとまったく同じ症状に苦しめられるという無限ループの無限地獄。。。
わたしもそうだからわかるんですけど(あ、症状のほうは別なのですが、地獄的側面には似通ったところがあると思う^^;)、にも関わらず「あるがままだって?ふざけんなっ!!」となるのが普通と思うわけです。でも、こうした症状については「イエスさまに祈って感謝する」ということを続けていると……確かに若干緩和されてきたり、仮に症状のほうがあまり良くならなかったとしても、逆に症状が比較的気にならなくていい環境を与えられるなど、「(教会で聖霊を受けてのち)イエスさまに祈って心境に一切変化がない」ですとか、「自分の症状のすべてを感謝し賛美しろと言われたからそうしたけど、何も変わらないじゃないか」ということだけはないと思うのです。
わたしが神経症的症状のことで病院へ行ったのは、ワラにも縋る思いだったからですし、その後日常生活に支障がでる=働けない=そんな人間は死ぬしかない……みたいになり、そうしたことをある程度乗り越えてからイエスさまのことを信じたのですが、その時にはもうわたし、「これはどうにもならないことだ」として、諦めていたんですよね。
なんというか、病気の症状と共存しつつ、どうにかやっていくしかないということですが、新型コロナウイルスって、ある意味神経症(ノイローゼ)の症状にすごく似てるんじゃないかなと思ってて。もちろん、実際に感染したら重症化することもあることを思えば、事は「もしそうなったらどうしよう」という心の不安だけでは済まないわけですけど……それでも、なんらかの神経症に悩まされている方にしてみれば、「新型コロナウイルス?いやあ、俺が普段悩まされてる症状に比べれば、なんてことないね」という方はおられるだろうなと思っていて(^^;)
ただ不潔(清潔)恐怖を持っている方にしてみれば、今度は「あれにもこれにもそれにもウイルスが潜んでいるかもしれない」ということで、症状が重くなっておられるのではないかと思いますし、そうした神経症の悪化+鬱病+経済的行き詰まり=自殺……ということもあると思うんですよね(今にして思うと、わたしもこのパターンだったような気がします)。
いえ、わたしの場合はその頃まだ実家で暮らしてたので、経済的行き詰まりっていうのはなかったかもしれません。ただ、日本は若い方の中で自殺する人の多い国ということなんですけど、わたしも25歳っていうのが結構大きなポイントだと思ってました。それで、その時21~22くらいだったわけですけど、これはあと3年しても状況は何も変わらないぞ、みたいに思ったわけです。ええとですね、わたしも今、まったく同じくらいの年の若い人にそんなふうに相談されたら、言うことは決まっています。「君が25歳になるまでには、まだ3年以上もあるじゃないか。そのあとのことがどうなるかなんて、誰にもわからないよ。君だって予言者ってわけじゃないんだし」みたいな、大体そんなことですよね(^^;)
でもまあ、こんな程度の「浅い」言葉は、近いうちに自殺しようと本気で考えてるような人の心を動かすってことはあまりないですし(届くとすれば、よほど器の大きさを感じさせる人とか、相談した本人とかなり親しい特殊な関係にある人だけと思う)、でもわたし、イエスさまのことを信じたのが23歳の時だったのです。
それで、そこから劇的に人生が変わっていきました……とかだと証しとして素晴らしかったかもしれませんが、神経症というか、心身症的な症状自体は治らなかったと思います。「治らなかったことを神さまに感謝する」とか、ノンクリスチャンの方には嘘くさく聞こえるかもしれませんが(笑)、実際のところ、そこからも学ぶべきことはたくさんあったように思うわけです。
つまり、自分にとってのなんらかの病気なり症状なりが完全に良くなってしまうと、他の方の癒しを祈る時、仮に相手の方が癒されなかった場合――「わたしや他の教会の人々も祈ってるのに癒されないということは、その方本人に神さまが癒しを行わないか行えない理由があるのではないか?」など、結構内心で裁いてしまう可能性があると思いませんか?(^^;)
この場合は、「あれほど癒されないと思っていたこのわたしでさえ癒されたのだから」という、ある種の傲慢さが生まれてしまうというか、何かそんなことなんですけど……そんなわけで、多くの方の病気の症状が、それが肉体に根ざすものであれ、精神的なものであれ、「心から祈れる」ためには、自分にも似たものがなければならない……と、まあ今はそんなふうに思ってもいるわけです(でも、それはあくまで自分に限ったものの考え方であり、その後性格的に多少傲慢になろうがなんだろうが、すべての病気といったものは癒されるほうが望ましいし、病気の症状が残っているのはその人が何がしかの教訓を学ぶためだ……みたいには、個人的にはまったく思いません)。
そのですね、神経症という病いの自分的に「もっとも嫌だな」と感じる側面というのが実は、それが自分のためにならないのみならず、他の誰にとっても無意味としか思えない苦しみを――まあ、一度神経症になって十年経ったとした場合、軽く東京ドーム10個分以上と思えるくらいの苦しみをそこに満たしたとしても、実質的に無意味としか感じられないことだと思います。
少し傲慢な言い方をしたとすると、自分の苦しんだことが実は、地球の裏側のアフリカの人たちに少しくらいは幸運をもたらすことだったとか、そうしたことであったとすれば、多少は苦しみ甲斐もあるかもしれません。でも、こんなに小まめに手洗い・うがいして、すごーくすごーく誰にも迷惑かけないように気をつけてるのに、それでも結局PCR検査で陽性と言われてしまうという、ある種の虚しさと神経症の症状には似たところがあると思ってて(^^;)
もちろん、その後も人生長く生きているとわかってはきます。それが仮に神経症や鬱病などの病いでなかったとしても、自分の近親者、あるいは赤の他人から無意味に苦しめられ、それがトータルして東京ドーム10個分くらいにはなってるんじゃないか……という、病気じゃなくてもそうした苦しみや悲しみを背負ってる方はたくさんいるのですから。
ただ、難しいのは、そうしたかなり高度(?)な精神理解を持っている人同士でも、時に傷つけあうということはあり、お互いそんな傷を修復せずにその後十年以上が経過した――なんていうことも本当に、人生あるあるです(^^;)
だから時々、そんなことも含めて本当に「人生あるがまま」、「人間あるがまま」、「あるがままを感謝する」……そして、今日もマーリン・キャロザース先生の「(すべてのことを)神さまに感謝し、賛美する」ということを実践する日々なのです。
それではまた~!!
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