【聖フィリポの殉教】ホセ・デ・リべーラ
さて、今回は十二弟子の七人目、聖ピリポのご紹介です♪(^^)
では早速(?)、「遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子」より、一部文章を抜粋させていただきたいと思いますm(_ _)m
>>ピリポは、イエスが洗礼者ヨハネのもとを去ってガリラヤへ帰ろうとした際に、「私に従いなさい」と言われてスカウトされた人物である。その直前に弟子入りしていたペトロ&アンデレ兄弟と同じくガリラヤのベツサイダ出身で、イエスの最古参弟子の一人。
「パンの奇蹟」と「最後の晩餐」のエピソードからは、彼が頭の固いリアリストだったことが読みとれる。群れなす人々を眼にしたイエスは「この人たちに食べさせるために、どこでパンを買えばいいだろう?」とピリポに尋ねた。これは神への信心を試す一種のテストだった。しかしこの“ひっかけ”に対し、ピリポは「彼等にたとえ少しずつでもパンをあげるとしたら、二百デナリオの金でも足りないでしょう」と、<きわめて現実的>な答えをしてしまう。神を信じる者の答えとして、これは<不正解>。
イエスは「わたしが訊いたのは、そんな意味ではない。おまえは神の“愛”を信じないのか」と咎めるかわりに、五つのパンを増やして人々全員に与えてみせたのだった。
さらに「最後の晩餐」では、「私を知っているなら、私の父(神)をも知ることになる」と語るイエスに、「私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と、またもや現実的な言葉を吐き、「こんなに長い間いっしょにいるのに、私がわからないのか」と、しかられている。
エルサレムを訪れていたギリシャ人たちに、イエスへの面会を頼まれたこともあった。ところが慎重派のピリポはこの異邦人たちを師に会わせていいか迷ったのか、アンデレに相談をもちかける。結局は二人でイエスにとりつぐことになるのだが、ちょっと優柔不断の感は否めない。
それはともかく、そもそもピリポという名前はギリシャ名であり、ギリシャ語を話すユダヤ人信徒のリーダー格となった彼は、イエスの死後、ギリシャをはじめ、スキタイ地方や小アジアなどに布教にでかけたという。
(「遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子」新潮社より)
<パンの奇蹟>については、前に十二弟子の任命【2】のアンデレのところでも触れたのですが、確かにもう一度聖書をよく読んでみると、もしかしてピリポってアンデレ以上に信仰が薄かったのかしら??と思わなくもなったり(^^;)
一般に<五千人の給食>と言われる奇蹟については、四福音書のすべてに出てくるということと、イエスさまはまず弟子たちに「あなた方ならどうしますか?」といったように試しておられる……といったようなお話を教会の日曜礼拝で聞いた記憶があります。
そのイエスさまの試みに対し、ピリポは「彼等にたとえ少しずつでもパンをあげるとしたら、二百デナリオの金でも足りないでしょう」と現実的に答え、またアンデレは「とりあえず自分に出来そうなこと」として、五つのパンと二匹の魚とをイエスさまにお捧げします。
いえ、これってピリポやアンデレじゃなくても、大体似たりよったりな答えしか返せないような気がします(^^;)
けれどイエスさまは「もしあなた方にからし種ほどの信仰でもあるなら」という雛形のひとつとして、五つのパンと二匹の魚とを祝福し、五千人以上もの人々が食べてもこの五つのパンと二匹の魚とがなくならないという奇蹟を起こされたのでした。
<五つのパンと二匹の魚>……ピリポのことからは少し話がずれてしまうのですが、それでも、イエスさま、神さまに「何か捧げるもの」があっただけでも――彼らの信仰は立派でなかったろうかと、個人的にはそんなふうに思います。
確かに今の日本は<飽食の時代>を経て、食料だけは今のところたっぷりとある状態かもしれません。でも五千人以上もの(アフリカの)飢えた人々に何か食べるものをと、もし神さまに言われたとしたら――「神さま、うちにある食料をすべて捧げたとしても、飢えた人々全員にはとても行き渡りません」としか、わたしには言えない気がします(=ピリポやアンデレと同じ信仰しかわたしも持っていないということです^^;)
でも、イエスさま、神さまにとっては「それで十分」なんですよね。そしてこの<(あるもの)すべてを捧げ尽くす>ということを人間のほうで神さまに行う時にこそ、普通では考えられないようなそれこそ『奇蹟』が起きるのだろうと、そんなふうに思います。
さて、ピリポのことに話を戻すと、<最後の晩餐>の席で、「私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と、ここでもまた信仰の足りなさを露呈させてしまうピリポ……いや、このピリポの気持ちもすごくわかりますよね。彼にしてみれば「御父なる神、どこどこ(゜Д゜;≡;゜Д゜)?」といった感じだったのでしょうし、それに対しイエスさまは「ずっとわたしと一緒にいて、そのことがわからないのですか」と、そうお思いになったとしてもまったく無理はないと言いますか(^^;)
なんにしても、何かとそそっかしい十二弟子のリーダー格だったペテロ同様、神さまの弟子として「こんな人で本当にいいの?」という感の否めないピリポ。けれど、そんな彼もまた他の十一弟子同様、イエスさまの復活を経験したのち、ペンテコステを経て、力強い福音宣教の旅へと出かけ、そして殉教するのでした
繰り返しになりますが、ペテロにしてもこのピリポにしても、「神さまに相応しい」とされるには、つくづく頭がいいとか家がお金持ちだとか、高い学歴があるとか人から尊敬される職業に就いているとか、そういうことは一切何も関係がなく――ただ神さまに「最後まで従う」、その信仰があるかどうかなのだと、そういうことなのだと思います。
それではまた~!!
さて、今回は十二弟子の七人目、聖ピリポのご紹介です♪(^^)
では早速(?)、「遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子」より、一部文章を抜粋させていただきたいと思いますm(_ _)m
>>ピリポは、イエスが洗礼者ヨハネのもとを去ってガリラヤへ帰ろうとした際に、「私に従いなさい」と言われてスカウトされた人物である。その直前に弟子入りしていたペトロ&アンデレ兄弟と同じくガリラヤのベツサイダ出身で、イエスの最古参弟子の一人。
「パンの奇蹟」と「最後の晩餐」のエピソードからは、彼が頭の固いリアリストだったことが読みとれる。群れなす人々を眼にしたイエスは「この人たちに食べさせるために、どこでパンを買えばいいだろう?」とピリポに尋ねた。これは神への信心を試す一種のテストだった。しかしこの“ひっかけ”に対し、ピリポは「彼等にたとえ少しずつでもパンをあげるとしたら、二百デナリオの金でも足りないでしょう」と、<きわめて現実的>な答えをしてしまう。神を信じる者の答えとして、これは<不正解>。
イエスは「わたしが訊いたのは、そんな意味ではない。おまえは神の“愛”を信じないのか」と咎めるかわりに、五つのパンを増やして人々全員に与えてみせたのだった。
さらに「最後の晩餐」では、「私を知っているなら、私の父(神)をも知ることになる」と語るイエスに、「私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と、またもや現実的な言葉を吐き、「こんなに長い間いっしょにいるのに、私がわからないのか」と、しかられている。
エルサレムを訪れていたギリシャ人たちに、イエスへの面会を頼まれたこともあった。ところが慎重派のピリポはこの異邦人たちを師に会わせていいか迷ったのか、アンデレに相談をもちかける。結局は二人でイエスにとりつぐことになるのだが、ちょっと優柔不断の感は否めない。
それはともかく、そもそもピリポという名前はギリシャ名であり、ギリシャ語を話すユダヤ人信徒のリーダー格となった彼は、イエスの死後、ギリシャをはじめ、スキタイ地方や小アジアなどに布教にでかけたという。
(「遠藤周作で読むイエスと十二人の弟子」新潮社より)
<パンの奇蹟>については、前に十二弟子の任命【2】のアンデレのところでも触れたのですが、確かにもう一度聖書をよく読んでみると、もしかしてピリポってアンデレ以上に信仰が薄かったのかしら??と思わなくもなったり(^^;)
一般に<五千人の給食>と言われる奇蹟については、四福音書のすべてに出てくるということと、イエスさまはまず弟子たちに「あなた方ならどうしますか?」といったように試しておられる……といったようなお話を教会の日曜礼拝で聞いた記憶があります。
そのイエスさまの試みに対し、ピリポは「彼等にたとえ少しずつでもパンをあげるとしたら、二百デナリオの金でも足りないでしょう」と現実的に答え、またアンデレは「とりあえず自分に出来そうなこと」として、五つのパンと二匹の魚とをイエスさまにお捧げします。
いえ、これってピリポやアンデレじゃなくても、大体似たりよったりな答えしか返せないような気がします(^^;)
けれどイエスさまは「もしあなた方にからし種ほどの信仰でもあるなら」という雛形のひとつとして、五つのパンと二匹の魚とを祝福し、五千人以上もの人々が食べてもこの五つのパンと二匹の魚とがなくならないという奇蹟を起こされたのでした。
<五つのパンと二匹の魚>……ピリポのことからは少し話がずれてしまうのですが、それでも、イエスさま、神さまに「何か捧げるもの」があっただけでも――彼らの信仰は立派でなかったろうかと、個人的にはそんなふうに思います。
確かに今の日本は<飽食の時代>を経て、食料だけは今のところたっぷりとある状態かもしれません。でも五千人以上もの(アフリカの)飢えた人々に何か食べるものをと、もし神さまに言われたとしたら――「神さま、うちにある食料をすべて捧げたとしても、飢えた人々全員にはとても行き渡りません」としか、わたしには言えない気がします(=ピリポやアンデレと同じ信仰しかわたしも持っていないということです^^;)
でも、イエスさま、神さまにとっては「それで十分」なんですよね。そしてこの<(あるもの)すべてを捧げ尽くす>ということを人間のほうで神さまに行う時にこそ、普通では考えられないようなそれこそ『奇蹟』が起きるのだろうと、そんなふうに思います。
さて、ピリポのことに話を戻すと、<最後の晩餐>の席で、「私たちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と、ここでもまた信仰の足りなさを露呈させてしまうピリポ……いや、このピリポの気持ちもすごくわかりますよね。彼にしてみれば「御父なる神、どこどこ(゜Д゜;≡;゜Д゜)?」といった感じだったのでしょうし、それに対しイエスさまは「ずっとわたしと一緒にいて、そのことがわからないのですか」と、そうお思いになったとしてもまったく無理はないと言いますか(^^;)
なんにしても、何かとそそっかしい十二弟子のリーダー格だったペテロ同様、神さまの弟子として「こんな人で本当にいいの?」という感の否めないピリポ。けれど、そんな彼もまた他の十一弟子同様、イエスさまの復活を経験したのち、ペンテコステを経て、力強い福音宣教の旅へと出かけ、そして殉教するのでした
繰り返しになりますが、ペテロにしてもこのピリポにしても、「神さまに相応しい」とされるには、つくづく頭がいいとか家がお金持ちだとか、高い学歴があるとか人から尊敬される職業に就いているとか、そういうことは一切何も関係がなく――ただ神さまに「最後まで従う」、その信仰があるかどうかなのだと、そういうことなのだと思います。
それではまた~!!
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