神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神の永遠の炎。

2019年06月20日 | キリスト教


「わたしの造る新しい天と新しい地が、
 わたしの前にいつまでも続くように。
 ――主の御告げ――
 あなたがたの子孫と、あなたがたの名も
 いつまでも続く。

 毎月の新月の祭りに、毎週の安息日に、
 すべての人が、わたしの前に礼拝に来る」と
 主は仰せられる。

「彼らは出て行って、
 わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。
 そのうじは死なず、その火も消えず、
 それはすべての人に、忌みきらわれる」

(イザヤ書、第66章22~24節)


 神の永遠の炎、なんて聞くと、地獄のことを連想する方のほうが多いかもしれません、もしかしたら

 けれども、同時に聖霊さまの炎ということを肉体・霊・魂に直感するクリスチャンの方も多いのではないでしょうか


「わたしが来たのは、地に火を投げ込むためです。だから、その火が燃えていたらと、どんなに願っていることでしょう。

 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう」


(ルカの福音書、第12章49~50節)


 また、神さま、主は不思議な燃える柴の中に現れて、モーセを呼ばれました。


 >>モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追っていき、神の山ホレブにやって来た。

 すると主の使いが彼に、現われた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。

 モーセは言った。

「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう」

 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は「はい。ここにおります」と答えた。

 神は仰せられた。

「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である」

 また仰せられた。

「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」

 モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。

(出エジプト記、第3章1~6節)


 また、十人の乙女たちのたとえについては長くなるので引用しませんが、信仰の炎の火というものは、わたしたちの命の火が尽きても、そのまま次の世界でも灯り続けるものです。


 >>聖テレサ(アヴィラの大聖テレジア)は「愛の火をたやしてはなりません」と言われます。闇夜や乾燥状態のただ中にいる時には、私たちの手の届くところに、<薪>を見つけることはできません。けれど、少なくとも小さな<わらくず>を投げ入れて、火を保つのは、私たちの義務ではないでしょうか?

(『弱さと神の慈しみ~テレーズとともに生きる~』伊従信子さん訳・編/サンパウロ刊より)


 これは、カトリックの聖人、リジューの聖テレーズの言葉ですが、信仰生活を毎日365日(うるう年でしたら、366日)送っていると、『自分は毎日大きな<薪>を信仰の暖炉にくべているぞ!』と言える信仰の方というのはどのくらいいらっしゃるものでしょうか(^^;)

 これはあくまでわたし個人の場合ということですが、わたし自身はケチなワラくずを毎日どこかから見つけてきて、信仰の小さな炎にくべては、『神さま、今日もお祈り捧げましたよ!聞いてくださいましたか?』といったような、ピィピィうるさく鳴く小鳥のような信仰ではないかという気がしています

 まあ、なんと言いますか、「何も捧げないよりは遥かにマシな信仰でございましてよ、神さま!」といったような、なんともご立派な信仰態度なわけですが(笑)、イエスさまの驚くべきところは、そんなケチな小さいワラくずでも――<からし種の信仰>としてお認めくださるということです。

 そして、人生の嵐やら雨やら風やらに見舞われて、信仰の炎が消えそうに思い、小鳥が惨めに震えながら鳴き叫ぶ時にも……イエスさまは絶えずそばにいてくださって、「子よ、何も心配することはない」と言って、御翼の影に必ず引き寄せてくださいます。

 親鳥の羽毛の内側というのはとても温かいもので、うるさい小鳥もすっかり黙りこみ、そこでぬくぬく暖をとると、すっかり幸せな心持ちになります。そして、「ああ、イエスさまの胸の中で永遠にこうしていたい」と、小鳥もそのように思うことでしょう。

 ケチな小さいワラくずのような信仰でも、聖霊さまの炎にくべる時、イエスさまはその信仰を価値あるものとして必ず認めてくださいます。時折、「自分はこんなことでいいのだろうか。イエスさまのためにもっと遠くまで行って、大きな薪を見つけてくるべきではないだろうか」と迷うことは、長い信仰生活の中で一度もない方はいらっしゃらないと思います。

 もちろん、イエスさまが「そろそろ遠くまで行って、薪を見つけて来なさい」と聖霊さまを通しておっしゃったなら、その時にはイエスさまの導きを求めつつ、出ていく必要があるとは思います。けれども、そうした大きな変化がない時(信仰の大きな方ほど、神さまからの語りかけによる大きな変化の連続があると思うのですが^^;)、わたしたちは毎日目の前にある問題に対処しつつ、「せめて小さなワラくずでも」と思いながら、小さな信仰生活を送っていく……ということも多いのではないでしょうか。

 そして、そんな中、病魔などに倒れたり、あるいはのっぴきならない問題にがんじがらめにされたりといった事態が起きた時――「毎日小さなワラくずを捧げるといった信仰生活だったからな。だからこんな問題が許されることになってしまったのかもしれない」と、遠くまで薪を探しにいかなかった自分を悔いることがあるかもしれません。

 けれども、そうした苦しみや悩みの中にある時、「何故自分はこんな目にあっているのだろう」、「神さまはわたしのこの苦しみや悩みをご存じないのだろうか」と不安に苛まれることにも慣れ、それすら越えた頃……ある信仰の変化を体験される方はたくさんいらっしゃるような気がします。

 つまり、悩みや苦しみが朝起きたら枕元や足元にいて、四六時中つきまとわれているのがまるで当たり前のようになった頃――まるでその悩みや苦しみが長年の親友のようになってしまい、いつしか慈しめるような瞬間の訪れを経験することがある、ということです。

 もちろん、悩みや苦しみなどないほうがいいですし、それらが過ぎ去ったあとでは、「わたしの人間性が練り上げられるのに、あれらは必要なことだった。神さま、ありがとう」と言えるにしても……苦しみや悩みの最中には到底そう思えるものではありません。

 けれども、マーリン・キャロザース先生の「どんなことも神さまに感謝し、賛美する」ということが基本の信仰生活を送っていると、いつしか悩みがただの悩みでなく、苦しみがただの苦しみで終わらない瞬間がやって来ます。まるで、その苦しみや悩みがイエスさまそのものでもあるかのように、慈しめる瞬間というのが確かにあるのです。

 これは、その問題のケースにもよるとは思うのですが、「いつもそのように感じられる」というわけではありません。ただ、そのような神秘的なイエスさまの訪れを感じたあとは――多くの場合、仮にすぐ悩みや苦しみといった問題が解決しなくても、山頂からの美しい景色を眺め、「ああ、あともう少しだ」といった、峠を越えたような心境を経験したりですとか、聖霊さまを通したイエスさまの臨在の強まりを感じて、悩みや苦しみがそのままあったとしても、「神さまが必ずなんとかしてくださる」といった信頼感が増すと思います。

 聖霊さまを通したイエスさまとの信頼関係において……「苦しみや悩みを、まるでイエスさまそのもののように慈しめる」という瞬間は、もしかしたらそう多くはいなかもしれません。けれとも、一度でもそうした信仰体験をされた方は、イエスさまとの絆がより強まって、また似たような事態の訪れがあっても(もちろんこれは、悪魔(サタン)・悪霊からの攻撃であることも多いです)、「ただイエスさまに信頼していたらよいのだ」とだけ思え、信仰に迷いなど一切生まれなくなってゆくのです。

 わたしたちの小さな信仰の炎が消えかかりそうな時、そのようにしてイエスさまはいつでも必ず助けてくださいます。また、こうしたことはクリスチャンの間では当たり前のことだったりもするわけですが、ノンクリスチャンの方の目から見た場合……時々、「あの人はよくあんなひどい目にあっていながら、今も神のことなんか信じていられるな」といったように見えることかもしれません。

 けれども、信仰の秘蹟というのはそうしたものであり、大きな信仰を持つ人として賞賛されるような人生を送られた方は誰も、この「小さなこと」、「小さな信仰の積み重ね、底支え」というのがいかに大切なことかというのを熟知した方ばかりだったに違いないと思うのです(=神さまの大きな業が起きる原則も、この小さな信仰の適用と大体同じ、ということだと思うんですよね^^;)。

 ではでは、次回もまたこのことに関連した記事を書いてみたいと思っていますm(_ _)m

 それではまた~!!





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