神の手は力ある働きをする。

 主の右の手は高く上げられ、
 主の右の手は力ある働きをする。

(詩篇118編16節より)

神は、脳がつくった。-【2】-

2021年06月16日 | キリスト教
【黒猫が不吉って、ほんまでっか。迷信ちゃうん?】


 >>最大の神秘は、おびただしい数ある地球や銀河のなかで私たちが出任せに放り出されているということではなく、私たちがこの牢獄のなかで、自分たちの無力さを否定できるほど強力な自分たちのイメージを作り出させることにある。

(「アンテンブルクのくるみの木」アンドレ・マルロー(邦訳は『世界の文学セレクション36/30』(中央公論社)に所収の「アンテンブルクのくるみの木」(橋本一明さん訳)1943年)


 おそらく、人間というのは絶えず、<意味性>といったものに縛られている存在ではないでしょうか。

 たとえば、わたしやあなたが今日、朝起きて窓の外を見たとします。すると、曇っていて雨が降りそうだと見るや、なんとなく体の調子が悪いように感じる人もいますし、そうしたことは一切なくとも、どんより曇った空模様を見、「今日はなんか、やなことありそう」と思ったりする方は結構いるわけです。その上、朝のニュースで占いの順位が最下位だったとしたら――ますますそんな気がしてきたり(笑)

 また、出かけようとするなりミミズの死体を踏んだ、それが靴の裏にこびりついた、「うわっ、やっぱりついてねえな!」とあなたは思う。しかもそのあと、とどめとばかり、黒猫の死骸に蝿がたかっているのに遭遇したら……「オレ、今日もしかして死ぬのか?」と感じはじめる方さえ、もしかしたらいらっしゃるかもしれません。

 科学は、こうした一連の事柄について、「ただの偶然ですよ、それは」と笑顔で教えています。けれども、人間というのはそのひとりひとりが、「自分こそはこの地上にひとりしかいないのであーる!!」という、この「全宇宙にただひとりの自己」という意味で、エゴというやつが物凄いのですね。アゴが鼻の先につくのじゃないかというくらい、このエゴというのがものっそ強い生き物なわけです。

 そこで、自分の身のまわりに起きる、色々な事柄について、そのすべてではなくても――「これはただの偶然ではない。これこれああいった意味があるに違いない」と、そのように結びつけやすいのではないでしょうか。これは、わたしが「神は、脳がつくった」という本を読んだ印象によりますと、「わたしたち人類の脳がそのように配線されているためだ」といったように思いました。

 また、前回までの説明による、人類の認知能力が発達していく各段階を経て、最終的に人間は「神々を創造し、そして神々も考えを持つ」ということまで理解するようになったわけです。このことによって、>>「神々が私たちについて考えているかもしれないということについて考えたり、神々が何を考えているのかについて考えたり、神々が私たちについて考えていることについて私たちがどう考えるかについて考えたりする能力」を得たということらしいです(「ややこしっ!」と思いますが、簡単にいえば、人間の脳がここまで進化してこない限り、人間にとって神及び神々といった存在は認識しえないということなんですよね)。

 そしてさらに、わたしたちが自分たちの周囲に「なんでも意味がある」と思いたがる傾向の延長線上に<神>、あるいは<神々>が存在するのではないか、ということと、「すべての人間はいつか必ず死ぬ」ということに、脳が進化してしまったがゆえに気づいたということ……また他に、古代の初期の神々であれば、豊作を祈ったり、災害を鎮めるなどのためにも、<神>や<神々>には重要な存在意義があったというのは、言うまでもないことだと思います。


 こういった事柄について、科学はどう教えているかというと、宇宙でビッグバンが起きて以降、すべては偶然の連続によって今に至るまで連綿と続いてきたのだと言っています。ただ、「恐竜が滅びて、我々の祖先である哺乳類が進化して現在に至ったのは、いずれ今のような<意識のある人間>が誕生するためであったのではないかと思われてならない」と、ある科学者の方がおっしゃっているように……そうした「ただ偶然というだけで片付けられない不思議さ」というのは、地球という惑星が誕生し、その後生物が生まれる環境が整ったということなどにも、共通して言えたりもするわけです。

 それはさておき、これはあくまでわたしが考えるに、ということですが、「神は、脳がつくった」を読んでいて、とにかくわたしたち人間の脳というのは、見るものや聞くもの、動くものすべてに意味を見出そうとし、それを合理的に捉えて結論を出そうとするものなのだなと思いました。

 つまり、あれにもこれにもそれにも意味がある……そして、自分が生きていることにも意味がある――何か、そうした「意味のある」結論に持っていきたがる傾向がわたしたち人間の脳にはある。けれども、そうやって自分にとっての「最善の答え」や「最善の決断」を選ぶことに、時に失敗することもありますし、そうした選択の色々を繰り返して、ある程度「成功した人生」とやらを歩んでいても、最終的にわたしたちを待ち受けているものは<死>なわけです。

 また、わたしたちは人生で何度か……あるいは何度も、自分たちのこの優れた脳によってでも、「意味などない」としか思えない出来事、たとえばハリケーンや地震や津波、あるいは交通事故、戦争による暴力による心身の傷など――合理的に説明しえない出来事に必ず出会います。

 たとえば、<死>については、天国や来世があると想定して、どうにかこの生命の難所を理屈によって切り抜けることが可能かもしれません。けれども、自分の家族が交通事故に遭遇し、その後植物状態になって十年にもなるですとか、自分の買ったばかりの家が台風や地震などによって損壊したとしたら……そうした事柄については、前々回「神学的深遠」のところでも少し触れたように、「神がいる」、「死後に天国がある」といった希望的観測のようなものは根幹から完全に崩れてしまうわけです。

 こうしてわたしたちは思い知ります。実は、わたしたちが異常なまでに突出したエゴによって「人生に意味はある」と信じてきたのは実はウソで、この世界にはそもそも意味などないし、そもそも人間がホモ・ハビリス→ホモ・エレクトス→古代型ホモ・サピエンス(ネアンデルタール人)→初期ホモ・サピエンス→現代ホモ・サピエンス……と、元は心が空白の状態だったのが進化して心の理論を手に入れるよう、脳を発達させていき――そして、避けようのない<死>という事実に、賢くなったがゆえに皮肉にも気づいてしまったことが、人間が自分で自分の神、あるいは神々を造り出して崇めだす理由の根幹であるとしたなら、現代科学が教えるように、確かにこの世界はすべて偶然の連続で出来たのであって、我々が生きていることに意味を見出そうとすること自体、非科学的な幻想ですらあるのかもしれません。

 では、次回はこのあたりの事柄ついて、さらに何か書いてみようと思っていますm(_ _)m

 それではまた~!!






コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神は、脳がつくった。-【1】- | トップ | 神は、脳がつくった。-【3】- »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

キリスト教」カテゴリの最新記事