わたし、ある事情から、公的に支払わなくてはいけないお金を年間通して免除されてるんですけど、昨日その通知の葉書が届いてまして。。。
ようするに、昨年の1月から12月までのところに全部(つまり12回分)、全額免除と書いてあるのを見て、ちょっと思うところがあったというか(^^;)
その葉書は確か、去年とかおととしとかも届いてたはずなんです。そしてその時にも同じ全額免除の文字は目にしていました。でも今回受け取った時みたいに、胸が少し痛むような気持ちにはならなかったというか。
一応、正式な手続きを経て免除されているものなので、それはある部分市民の権利として当然のことでもあるかもしれません。
でもその全額免除の文字を見た時、神さまの愛ということをすごく思いました。
ちょっと今、『イエスの渇き』という本を読んでいて、そことの関連ということもあるのですが、神さまの愛はこんなにも無限なのに、わたしたちはそのことを十分理解していないか、あるいは主の恵みに安住するあまり、いつしか「イエスさまがわたしたちの罪を全額免除してくださるのは当然のことだよーん☆」というように、そこにアグラをかいてしまってはいないか……といったことを深く思わされました
もちろん、神が愛なら、また神の愛が無限だというのならば、人生につらいことや悲しいことがあるのは何故かとか、戦争といった惨禍が繰り返されるのは何故かという、そうした議論があるかもしれません。
にも関わらず、クリスチャンと呼ばれる人々は何故、長い歴史を通じてずっと「神は愛です」、「神さまの愛は無限です」と言い続けてきているのでしょうか?
実をいうとちょっとこの記事は、手塚治虫先生の「火の鳥~未来編~」をもう一度読んでから書こうかなって思ってたんですけど(汗)、今手元に本がない&読んだのかなり昔……ということもあって、ウィキさんのあらすじなどを参考にしつつ、少し書いてみたいと思います。。。
舞台は西暦3404年のことで、「火の鳥」は手塚治虫先生の代表作であるのと同時に、とても有名なお話ですから、知ってる方も多いだろう……ということを前提にお話を進めたいと思います。まあ、ようするにこの地球の文明は栄えきって衰退期に入り、人類は最後核戦争によって滅んでしまいます。
そして、この核戦争を経て生き残った人類はほんの僅かな人々だけ……その中のひとりである登場人物ロックは、確か「聖書も滅んだ」(=神の救いはない)みたいに、そう言ってたと思います。
まあ、確かにそうですよね(^^;)西暦3404年になっても、イエス・キリストが再臨してなかったとしたら――多くの人々が信仰を失い、神の位置にマザーコンピューターを置き、彼女(彼)が導きだした答えに仕える……となっていても、なんら不思議はないかもしれません(けれども、地球の大きな都市にあるこのコンピューター同士の争いにより核戦争が起き、人類は滅ぶことになるのでした)。
そしてこうした絶望的な状況の中、主人公の山之辺マサトは、火の鳥によって不死の身となり、再び新しい生命が誕生しては滅ぶという気の遠くなるような歴史を見守っていくとの使命を受けます。何分、不死というのは決して死ぬことがないということですし、その状態で再びなんらかの新しい生命体が生まれ、文明を発達させ……という過程を見守っていくというのは、気の狂いそうなほどの時を生きるということでもあります。
まあ、もはやいくら死にたいと願ったところで死ねぬ身となってしまったマサトは、その長い時の中を生きながら――とうとう新しい生命体の誕生を目にすることが出来ます。それはある進化の過程を経て生まれたナメクジ星人(?)でした。わたしも話の内容の細かいところは忘れてしまってますが(すみませんww)、この時マサト、すっごい失望したんじゃないかと思いますよ(^^;)
やっぱり、前の人類と同じような姿・形の人間が誕生したというのではなく、ナメクジですからね……しかもこの知性を持つに至り、文明を発達させたナメクジ星人もまた、部族間の抗争といったことが原因で滅んでゆくのです。
そうなんですよね……この地球という惑星にわたしたちのような人類が存在しているというのは、本当に本当にまるで当たり前のことではないんですよね。主人公のマサトはまるで神さまのような存在ではありますが、ナメクジ星人たちのことを特に助けるということもなく、以前の自分たちのような人類が生まれてくるようにと、とにかくそのことをひたすら願っているようです。
そして最後にとうとう――そのような新人類が生まれてきたと思うのですが、なんていうか、結局のところこの人類もまた戦争といった愚かなことを繰り返し、前文明と同じように、自らが犯した愚かな過ちの集積により、最終的に滅んでしまうという、それだけのことなのではないでしょうか(つまりは救いのない輪廻ということです)。
けれど、「火の鳥」は言います。
>>「でも 今度こそ」と火の鳥は思う
「今度こそ信じたい」
「今度の人類こそ きっとどこかで間違いに気がついて……」
「生命(いのち)を正しく使ってくれるようになるだろう」と……。
いのちを正しく使う、というのは果たしてどういうことなのでしょうか。
「火の鳥」は確か、地球の化身として不死身の存在だったと思うのですが、キリスト教の神も仏教の神もイスラム教の神も、その他どんな神も本当の神ではない……という「火の鳥」の世界観、とても大好きです。
ただやっぱり、科学が神であるという道を突き詰めていった場合、人類にある未来はこうした形になるのだなと思うと、何かこう、自分がクリスチャンで良かったとの思いをあらたにしたというか(^^;)
ここからは、わたしのキリスト教徒としての見解ですので、特になんの宗教も信じてない方にとっては面白くないと思うのですが(笑)、いのちを正しく使うというのは、クリスチャンにとってはイエス・キリストが十字架上で流してくださった血により清められたいのちを正しく使う、ということではないでしょうか。
そして、そこにこそ神さまの無限の愛があると、そうあらためて思って感動した、というか(^^;)
この結論が面白くない方に向けては……以前何かのテレビでこうした場面がありました(なんの番組だったか忘れてしまいましたが確かNHKだったと思います)。「おまえの右の手を見ろ。それは誰のものだ?」、「(え~っとたぶん、わたしのもの??)」、「おまえの手はな、仏の手だぞ」と。
つまり、わたしたちは普段、基本的に自分の体は自分のものだと思ってますよね。そして、自分のいのちは自分のものであると。けれど、そうではない。自分のものでもあり、仏のものでもある……それならば、仏さまのことを大切にするように、自分の体、自分のいのちのことも大切にしなくてはいけない、そういうことですよね(カウンセラーの方は、自傷行為を繰り返す患者さんなどにそうお話してみるといいかもしれません^^;)
確か登場人物のひとりに猿田さんという方がいらっしゃって、彼はある罪を犯したことにより、必ず同じ醜い姿をして生まれてくるという罰を火の鳥から受けていたと思うんですけど……この方も、もし時代のある地点でイエス・キリストこそが自分の救い主であると信じることが出来ればこの罪と罰という縛りから解放され、救われることが出来るのではないでしょうか。
まあ、そうしたら物語として面白くもなんともないわけですけど、輪廻転生を繰り返し、前世などで犯した罪を償い、解脱できなければ救われないっていう思想は、わたし的にはとても苦しいのです。そしてやっぱり思うのですよ。イエスさまの十字架さえ信じれば魂が救われるって、本当にすごいことだなって†
いえ、一度そう信じてクリスチャンになってしまうと、いつしかそれがあまりにも「当たり前」のことになってしまって、イエスさまの愛が無限ではなくて、神さまは無限の愛を持っておられるけれども、わたしに今注いでくださっている愛として具体的に感じられるのは20~30%くらいかな……なんて、ちょっと不信仰になってしまう日があったりとか(^^;)
聖霊さまがあらためて目を開いてくださって、神さまの愛と恵みが沁み入るように感じられるようになり、本当に良かったです♪
では、次回もまたこの「いのち」ということをテーマに何か書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
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