ええと、前回、『神経症からの「回復の物語」』という本の中から、竹下さん(仮名)という方の症例を引用させていただいたのですが、不潔(清潔)恐怖を持っている方が、何度も手を洗って最後には血まで出てしまうとか、口の中にばい菌が入ったと思い、そのたびに唾を吐いてしまうとか、そしてそのことで人から変に思われないかどうかが気になったり……新型コロナウイルスによって今から数年後、そうした症状に悩まされる――という方が出てくるのではないかと、自分としては心配している……というのがあって(^^;)
あとは、マスクで顔が隠れている状態が長く続いていることで、「自分の顔の表情がおかしいのではないか」と異常なほど気になる「表情恐怖症」など、自分であまり意識できない小さな頃や、十代という多感な時期にそうしたところを通ることで――なんというか、神経症というのは頑固で治りにくい病気なので、自分に照らし合わせてみると、「症状が現れた時には手遅れ」というか、そうしたことで悩んでる方はたくさんいらっしゃると思うんですよね。
それで、こうしたことは「自分の中に無意識のうちに刷り込まれたことなので」、自分の努力によってはそれ以上どうにも出来ない……ということで悩んでいる方は多いと思うのと同時、今回はそうした事柄に関する「周囲の理解/無理解」といったことについて、少し書いてみたいと思いましたm(_ _)m
基本的に、「まったく同じ症状」ないしは、症状は違っても、同じ神経症というものを経験してみないと、その地獄について「いまいちよく理解できない」という部分がある一方、パニック障害など、「それがどのくらいつらいかは想像できる」という、神経症の症状の文章を読んだだけでも共感できる方はすごく多いと言います。特に視線恐怖や表情恐怖や対人恐怖などは、病気というほどでなくても、「美容院で美容師の方と鏡の中で目が合うのが苦手だ」とか、「その場の空気にあった表情を浮かべるのが苦手」、「初対面の人とうまく話せない」といったことは、そうしたことがあまり気にならない方がいる一方、「わかるわかる~!!」という率のほうが結構高かったりもするわけです。
ただ、自分の家族にこうした症状が出た場合、「理解されない」ことは結構多いと思うんですよね。わたしが昔読んだ本の中には、「夫が何かのことで苦しんでいるのはわかるのだが、それがどういった種類の苦しみなのか、妻の△□にはわからなかった」みたいに書いてあった記憶があります。確か、計算恐怖という、絶えず数字の計算をし続ける神経症患者さんで、本人は計算など少しもしたくないのに、そうした計算地獄の症状がでるわけです。
竹下さん(仮名)の場合と同じように、本人はガスの元栓をしつこく確認したり、ドアの鍵がかかっているかどうか、気にしたくないのにどうしても何度も確認してしまうというのの、数字計算ヴァージョンと言っていいと思います。でも、こうしたことを人に話した場合、「えっと、べつに自分の意志で計算をやめればいいのでは?」ということになると思うんですよね。また、不潔(清潔)恐怖にしても、確認恐怖にしても計算恐怖にしても――それが馬鹿らしい無駄なことだというのは、誰より当の本人がわかっていることであり、それがわかるからこそ、自分の症状を周囲の人に対して家族含め隠している。
その~、心療内科や精神科の精神科医の先生などに「実はそういうことなんですよ」と説明されても、説明された時には「ああ、そうだったんだ」と泣くことさえして理解したにしても、やっぱり「その後」ということがあると思うわけです。これは鬱病などもそうかもしれませんが、「うん、あんたが鬱病なのはわかったよ。今までつらかったね」と、お互い泣きあって抱きあうことさえしたにしても――それでもやっぱり、「いつまでも家でゴロゴロダラダラして!なんでわたしばっかりこんなに一生懸命気も狂いそうになりながら働かなきゃなんないのよ!」とか、色々あるわけですよね。なんでかっていうと、この世というのは大変なところなので、神経症や鬱病といった病気に今なってなくても、そうなるギリギリのところで正気を保ってどうにか頑張ってる方というのは、数限りなくたくさんいらしゃるからです。
それでこうした場合、大抵家庭の空気が濁る・淀むなどして悪くなるわけですが、そのあたりが風通しよくなるのは、神経症や鬱病の方が、なんらかの形で社会復帰のために努力するとか、少しくらいは働く姿勢を見せるとか、そうした場合だけのような気がします。もちろん、本人は他の家族の望みが「それである」ことは重々承知の上で、そう出来ないからこそ悩むわけですが、このあたりのギスギス感が高じてきた時に……喧嘩になったりするのではないでしょうか。
なんらかの症状を持ってる方が息子さんなり娘さんなりにいた場合、「そもそも十代の頃にあんたがこうだったからだ」とか、「ああしなかったから今自分はこうなってる」など、完璧な親などこの世に存在しないので、子供のほうでも結構痛いところをグサリと突いてくる。
こうした問題について悩んでいる方も今の時代はとても多いと思いますし、ケースバイケースなので、「これが答えだ」というものも存在しないと思います。引きこもりの問題もそうだと思いますが、引きこもりの方の中に多いだろうと思われる社会不安障害も神経症のひとつで、こちらも「社会不安障害だって?そんなもの、ただの気の持ちようだ」といった認識の方も多いだろうと思います。
大体、このあたりのことが「理解しない・出来ない」ことで、親子の間で問題が平行線となり、話すと喧嘩になるので息子とは同じ家で暮らしているものの、ろくに口も聞かなくなって△□年にもなる……など、8050問題にも繋がってくることなのではないでしょうか(^^;)
その、「親が自分を理解してくれない、そのあるがままを感謝する」とか「息子や娘が引きこもりである、そのあるがままを感謝する」とか、「そんなことは絶対できない」とは思います。
また、「息子や娘をもう一度学校へ行かせてくれたら」、「息子や娘が引きこもりから脱却して働いてさえくれたら」、そのような神さまがいるのなら、自分は信仰熱心になって一生信じよう……という、人間は誰しもそうした思考法と思うんですよね。
あるいは、ただ単純に「お金、経済の問題」だから、自分の死後にお金さえたくさん残せるのであれば、お父さんやお母さんも、あんたが引きこもりのままでも「そのあるがままを感謝」できるんだけどね――という、そうしたことでもあるかもしれません。
ただこれも、非常に馬鹿らしいと思われるとは思うんですけど……お金がない時には、「お金のない、あるがままを感謝する」というのが、お金の増える、一番最初の動機になることだと思っていたり(^^;)
自分の周囲の物事がある程度安定しているなら、「あるがままを感謝する」って、ポジティヴな行為かもしれません。でも、自分のまわりがないない尽くしの時こそ、この姿勢が大切というか、「何かを諦めて手放している、ネガティブな行為」であるように思えても、最初は嫌々ながらでも――心のどこかで「あるがままを感謝しよう」と少しでも思えると、少しずつ、何かが変わってくるのではないでしょうか。
前にもどこかに書いたみたいに、新型コロナウイルスって神経症に本当によく似ています。「これ、一体いつまで続くの?」ということもそうですし、ひとつの症状が少しは良くなったかと思ったら、今度はまた別の症状が出てきてしつこく悩まされ続ける……このあたり、変異株が出てきたりといったことに似ていますし、何分相手は目に見えないので、うがい・手洗い、マスクをする、黙食するなど、そうした対応策を講じていても――PCR検査で陽性であることがわかるなど、「あんなに色々がんばったのに、意味なんてなくね?」といったところにも共通点があると思う、というか(^^;)
自分的には今後、「ずっと学校で黙食してきたので、うまく空気を読みつつ、食べたり飲んだりしながら人と会話することが出来ない」とか、正直、そうした方が出てきてもおかしくないと思っています。また、黙食といったことは関係なく、新型コロナウイルスが出現する前から、会食恐怖症といったものは存在するわけですから(これは、人前での食事に不安や恐怖を感じる症状で、会食の場(複数人による外食など)へ行く予定があると、本人はその何日も前から憂鬱だったりします。この場合そこが仮にトイレのような場所でも、誰かと食事するくらいなら、自分ひとりで食べたほうがよほど気楽だということになると思うんですよね)。
わたし自身は割と神経症というか、心身症なるものに取り憑かれた時点で、「自分の世界は終わった」みたいなところがありました(そして、同じように思ってる神経症・心身症患者さんはたくさんいます)。でもまあ、死なない限り人生は続いていくわけですし、生きていると「必要最低限これだけは必要」というもののために、とにかくなんとかしなくちゃいけません。「その状態で神など信じてなんになる?」ということではなく……イエスさまを信じて一番良かったことのひとつは、「自分でなんとかする」というのではなく、「聖霊さまを通して祈れば、必ずイエスさまがなんとかしてくださる」というその点と思います(^^;)
なんでも自分でやろうとするから大変でも、イエスさまが代わりに道を塞いでいる巨大な岩を指先ひとつで転がしてくださったり――このあたりの「信仰の梃子の原理」といったことがわかってくると……問題は癒されるかどうかということより、もっと上の高いところにあるということがわかってきます。
何故かというと、自分がもし仮に運よく神経症や心身症といったものにならなかったとしても……何かそうした事柄に関する「代わりのもの」、「何故自分の人生にこんなことが起きたのかさっぱりわからない」、「神さまってなんて意地悪なんだろう」――みたいなことは、誰の人生にも必ず起きてきます。
でも、自分に関していえば、もしかしたら自分の半径5メートル以内が平和なら、その1センチ外で誰か他の人が苦しんでいようと、スマホに夢中で目に入ってこないといった人生だったかもしれませんし、何よりイエスさまのことを信じるには至らないか、信じても、少しの間信じていただけで、いずれそこから離れてしまっていたかもしれません。
新型コロナウイルスの問題もそうですし、ウクライナへのロシア軍の侵攻など、「神は新型コロナウイルスを起こさないことも出来たはず」とか、「神が全能なら、プーチンの夢の中にでも現れて「戦争するのはやめなさい」とでも言って、止めることは出来なかったのか」など、こうしたことに関する疑問は数限りなく存在するものと思います
ただ、いつの時代もそうでしたが、第一次世界大戦や第二次世界大戦のような酷いことがあってさえ、キリスト教とイエスさまを信じる人々が滅びることはありませんでした。新型コロナウイルスの問題については世界中のクリスチャンの方が祈っていますし、ウクライナの人々のことについても、世界中のクリスチャンの方が祈っています。
神経症のような、かかってない方にとっては小さな問題と、戦争や災害のような大きな問題とはなんの関連もない……というのではなく、祈る時の信仰の原理はまったく同じものです。戦争や災害といったことに比べたら、自分の悩みなど小さいとして、そちらの祈りに集中することが大切なのは当然かもしれません。ただ、わたしも自分がそうだからわかりますが、頑固にしつこくなんらかの症状に悩まされている人間というのは――「そうした症状が消えてなくなるように」ということを超えて、さらに頑固にしつこく、他の方のためにも祈ることが出来るのです。
それではまた~!!
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